~2020.10.27
自分に花を買うお金なんて、余裕なんてない。
それを愛でる感性も、器用さもありゃしない。
仕事終わりの人々が店に立ち寄る姿を横目で眺め、自分は駅に向かうべく踵を返した。
【花を買う人々を眺める、者。或いは、モナ・リザ】
今日も、家にある、無意味に端正なカップをクロスで磨き続けていた。
誰も、僕ですら、決してこのカップを使いはしないのだ。無意味で不毛に決まっている。
この行為を始めて何分経ったのかは、もう覚えてはいない。
……いや、そもそも数えようとすらしていなかったか。
時計の針の音が、脳髄の奥で五月蠅く時を刻む。
ああ。買い換えたばかりなのに。この時計も僕を煩わせるのか。
叩き割ってしまいたい衝動に絡み取られながらも、その針が示す時間を見て「騒音になり得ることはするべきでない」と理性が働く。
苦痛で空白の時間。
医者から貰った薬でさえ寧ろ体に毒のように思えた僕は、一回だけ服用して、それ以降はタンスの奥に隠した。
かといって、この病じみたものが治るような見込みもない永遠に抱えるしかないようにすら思える。
食器棚の前に立ち、元々置いてあった同じ柄のカップソーサーの上に戻す。
そして、すぐに違和感が目の前に滲んだ。
居てもたってもいられなくて、30㎝定規を棚にあてる。…いや、長さが足りない。
角度を変え、爪で寸法を定めながら、ミリ単位で場所の配置をし直す。
……どうしても、どこか可笑しく見えてしまう。
どうしようどうしよう、と頭の中が一層騒がしくなっていく。嫌な汗がこめかみを伝う。
やっぱり駄目だ、だめ、もっと精密で、大きい定規を買わなきゃ。
でも、今はどこも開いていない。通販で手配しようにも、実物を見ずに買いたくはない。
きっと、僕は。
何度も何度も直して、それでも気に入らなくて、こうやって自分の人生の大半をこうした無意味な行為に費やしてしまうんだろう。
何度も何度も死を願ったときすらあった。それでも、自分の死の間際の無様さが脳裏に浮かぶと、どうしても実行できなかった。
「……、」
助けて、と試しに呟いてみようと思った。
一人で住んでいる家なのだから、誰にも聞かれないだろう。独り言で呟くのなら、それを他人に向けて発するよりも遥かに簡単なはずだ。
「、……っ……」
それでも、かすれた空気しか出てこなかった。
焦燥感に飲まれていた脳内に、無力感と情けなさが漂いはじめた。
あ、なんだか、今とてつもなく死にたい。
澱み始めた視界では、部屋の色が認識できない。
確か、少しは色味があったはずだ。
いや、まて、そもそも何色で統一していたのかすら忘れてしまった。
何とかして色を見ようと、テレビのリモコンに手を伸ばした。
が、意図せずにその指先は止まった。
明るく光るスマートフォンの液晶に、震えながら触れる。
着信画面に表示されていた、その文字を呟く。
「小田巻さん……、」
衣擦れのような、ノイズのような音がスピーカーから流れる。
小さく、彼女の慌てるような声が聞こえたような気がした。
『……、ごめんなさい。こんな時間に。……迷惑でしたよね』
狼狽える様な、まるで間違い電話でもかけてしまったときのような、震えた声だった。
ああ、そうだ。一般的にはこんな夜中に電話をしてくるなんて非常識甚だしい。
脳内で悪態をつく自分がいながらも、それと相反する、想像以上の暖かさと安堵感が胸を満たした。
「大丈夫ですよ。私も、寝る前だったので」
ない余裕をこいて、嘯いて、いつも通り、社内で彼女に話しかけるときのような、低く落ち着いた、優しい声で返す。
「どうかしたんですか」
丁寧に、丁重に。自分の中に残る焦燥と混乱は見せないように返す。
だって、ただの仕事の連絡かもしれないし。
……そう踏んでいた私は、電話越しの彼女の荒い息遣いを感じ取って、すぐに考えを改めることになった。
『こ、こんなこと。同期の、方に言うのも、っふ、変かもしれないんですけど、』
電話越しに、嗚咽が聞こえる。……まいったな。こういうのに僕はめっぽう弱いのに。
『ごめ、なさ……ッ、……くる、しくて、……たすけて、くれませんか……』
かぼそくて頼りない声だった。布団に包まり、体を震わせてる様子が脳裏に浮かんだ。
……他の社員たちに「優しくて真面目」と評され、何だったらそれを皮肉る(いや、本気でそう信仰している者も一定数はいるかもしれない。)あだ名さえついている彼女は、僕とは別の病気に罹っているように思う。
僕の話も少しはしたが、その前に彼女が打ち明けてきた「前に付き合っていた男に手酷い仕打ちを受けた」というものは、僕の推測を確信に変えた。
その内容を聞いたときは流石に耳が痛かった。聞いた僕も悪いんだろうけれど。
ただ言えることは、彼女は「優しく、従順で、ひたむきにならざるを得ないような」経験を無理矢理味わわされていたのだ。彼から解放された今でも、夢に出てくるくらいには恐ろしい経験を、いくつもだ。
きっと、僕に電話をかけてきたのも、その寝覚めの悪さからだろうと推測が付いた。
「大丈夫だよ、小田巻さん。もう嫌なことをされるような環境にはいないんだから。……ほら、深呼吸して?」
ひっ、ひっ、と過呼吸気味だったものが、ゆったりとしたものに変わっていく。
「………………うん、少しは、落ち着いた?」
『ありがとうございます、あの、……ほんとに、ごめんなさい』
「ふふっ、どうして謝るの?」
『だって、こんな、迷惑ばかりかけて……』
「そんなことないよ、僕だってちょうど……」
……”ちょうど”、……なんだ?
ちょうど、「助けてほしかった」、なんて、言うつもりなのかい?
不自然に途切れた言葉に対して、電話口の向こうでは疑問符を浮かべていた。
「ちょうど、退屈、してたし……」
取り繕うように言っても、いろいろともう手遅れだ。
だって、独り言ですら言えなかったんだ。彼女に向けてなんて、とても言えない。
あるいは、もしも彼女が目の前にいたのなら、少しは言えたのだろうか。
いや、でも、なんで赤の他人に心の内を明かす必要がある?それこそ迷惑極まりない。
だけど、他人の弱みを聞く分には満更でもない。
彼女の心の内を食い破っていく感覚には、えも言えぬ快楽と、支配欲が満たされる感じが伴っていて。そんな自分本位さに嫌悪感は射し込むものの、それを上回る満足感には到底代えがたい。
ああ、こんなこと、口が裂けても言えない。
……彼女がどんなに可哀想で可愛らしいのかなんて。
恐怖に歪み、痛みに泣く彼女の表情と、それでも縋りしがみつく様子を想像するだけで、彼女をそうさせた”前の男”に嫉妬すら覚える。
いつ頃だったか、いや、もしかしたら出会ってから既に彼女に興味を持っていたのかもしれない。
彼女のことを考え、思考を巡らすだけで、僕はいつもの地獄のような時間から逃れられるのだ。
それだけで、僕は救われているんだ。
……いや、それさえあれば、僕は救われるのだ!と、思考過程がそこに収束した。
はは、と乾いた笑みが唇の端から漏れる。
これじゃあ、彼女をあの馬鹿げたあだ名で呼ぶ奴らと変わらないかもな。
それでも、日常のあらゆる苦痛の魔の手から逃げられるなら。
既に磨かれきったグラスを執拗に眺めるあの時間から。時計の些細な音に頭を悩ませるあの時間から。埃ひとつ落ちていることに耐えられず、休日を潰す掃除のあの時間から、逃れられるのなら。
……事実、出社というより、彼女と会うことを念頭に置いた途端、ガスの元栓も、いつまでも施錠した気分にならなかった鍵穴も、懸念しなくて済むようになったのだ。
ああ、すごい、彼女は。いや、彼女に向けるこの気持ちこそが、一番僕に効く薬なのだ。
何となく、向こうの気分を落ち着かせるために、暖かいものを飲むことを彼女に提案した。
自分もマグカップを取り出し、緑茶を入れている。向こうからも、食器をいじったり、湯を沸かす音が聞こえる。
「ね、もし小田巻さんが良ければさ。これからもこうして通話しないかい?」
『え、……いい、んですか……?』
「ふふ。私も、あまり眠れないから。……お願いしたいくらい。」
『そ、そんな……竜胆さんが、それで、いいなら。こちらこそお願いします、ごめんなさい』
「謝らなくていいのに。……いいんだよ。」
暖かい緑茶に口づける。
柔らかいソファに腰を沈めて、彼女に淡い慰めと、許しを浴びせかけて。
前の恋人が君の人格をひしゃげて、愚かなぐらい優しくなった君の心に他人の悩みが侵食して、……それ自体が君の病気なら。
もう、いっそ、僕の事だけで悩めばいいのに。僕だけにその頭を悩ませればいいのに、なんて思う。
熱い緑茶の湯気の隙間を縫って。でも恥ずかしいからマイクはミュートにして。
「小田巻さん。私は、君のことを好きになってしまったみたいだ。」
小さく、小さく呟く。ああ、これは、言える。……よかった。僕はまだ死ななくてもいいんだ。
いずれ、彼女にすべてを打ち明ける日が来るだろう。
……どうか、それまでは永遠に救いを。
僕に許しと、安息の時間を。
【竜胆の花束を、貴女に。】
【どこにでもいる【女神様】の話。没案①】
「……なんで、俺にしたんだ。」
彼女が漸く俺の告白の返事をした、その日の夕方。
私服に身を包み現れた彼女と、同じく家からそのまま飛び出した俺は近所の喫茶店で待ち合わせた。
「何でだと思います?」
運ばれてきたばかりの紅茶とアイスコーヒーの香りの中で、彼女は謡うように聞き返した。
休日の店内は少し混んでいて、主婦の談笑だとか、老夫婦の会話だとかが、食器の音に交わって聞こえてくる。
夕陽が向こうのコンクリートを赤く染めていて、彼女の輪郭も同じ色で囲んでいた。
「…………推論は幾らでもした。お前の答えが知りたい。 」
真っ直ぐと見つめて、目で訴えると、彼女は困ったような顔で笑った。
「ぼく、には彼のような綺麗さが無いから…………。」
綺麗さ、って。なんだ。
「私には、彼は美しくて、それはもう暖かくて。余りにも素敵だと思ったから。」
つまりそれは、俺は、あいつと比べて実際は劣っているってことか?
「彼をもう二度と、永遠に、傷付けたくないから。忘れて生きてくれた方が良いから。」
「だから。君にした。」
想像していたどの答えとも、違う所か少しも似てなくて驚いた。訳が分からなかった。やっぱりこいつの頭の中は意味不明だ。
一瞬芽生えた絶望も、その微笑みを見ると打ち消されてしまったし、まあ、一つ分かったのは、こいつは“敢えて”終止符を、あいつに気付かれない程に、丁重に打ってやったのだろうということだった。
ころころと笑い、彼女は伏せ眼がちなまま、小さく呟いた。
「ただ、一つ余計なことを言うなら……ぼくは、君が幸せになるビジョンが唯一描けなかったんだ。」
「君の未来には、僕がいない方が望ましいのだとはわかっていたけれど。でも、君が他の誰かと幸せになるビジョンはどうしても想像ができなかった。」
「……それだけだよ。」
眼を伏せ、暖かい紅茶に口を付ける彼女が、やけに神聖を纏って見える。
この瞬間、俺は、自分が本当に見たかったものを、やっと眼前に据えたのだと確信した。
「難しい言葉だな、それは、なんだ、つまり……“お前が、俺を、幸せにする未来なら見えてた”って事とは違うのか?」
「……さあ、どうでしょうね。」
「はーァ……。昼のあんたってマジで性格わりぃな……。」
テーブルの上のアイスコーヒーを一口含む。苦味だけが舌を伝うが、決して嫌いになれない。
「なんやかんや、これが一番だったのかも。」
「……あん?」
「……あの日も、なんとなく、“私が食い潰されても、この人が幸せになるならそれでいいか”と妙に納得したんです。私の命よりも、あなたの幸福を願ったのは記憶しています。……だから、そういうことなんです。」
小説のような言葉を並べるけど、つまりそれってさ。
「……俺のことが好きってこと?」
「……軽率な言葉に感じますが、お慕いしていますよ。」
「ふ、ふーん。そうか。そうなのか。」
彼女は、巧みなマルチ商法のように言葉を操る。
具体的に掴んだという実感は薄くても、もっと深いところに腕を引っ張られた感覚がして、それだけで十分かもしれないなと思った。
寧ろ、これは彼女なりの照れ隠しなんじゃないかとすら思えてきた。
「君はね、酷い奴だから。」
「そんな酷い奴と付き合おうなんて物好きだな。」
「だって、好きだから。」
心臓がびくりと跳ねる。
「そんなに言ってほしいなら言うよ、ぼくは君が好……ぅぐ」
「ごめん、タンマ、待って、マジでやめて」
顔が熱いし口角が嫌でも上がる。俺、今、絶対ダサい顔してんな。
思ってた以上に、ストレートに言われるは苦手かもしれない。
少なくともこいつに言われると心臓が痛くなる。
「照れてるところも”かーわぃ”、ですねぇ?」
「マジで、お前、ほんと、ころす……。」
これだ、この、全部掌握されている感覚。
こいつに、最初に相談したあの時に、稲妻の如く感じた、この感覚。
気味が悪いのに、すべて受け入れられて許されている、そんな感情を呼び起こすもの。
…………俺も知りたい、見返してやりたいって強烈に欲が沸いた、きっかけ。
「ともあれ、これからは、君がぼくに飽きるまで時間を共にする仲ですね。」
「……いつになったら飽きるかね。」
「それこそ神のみぞ知ることでしょ、ただの人間であるぼくたちは、その時が来るまで穏やかに過ごしましょう。」
俺が、いや。俺たちは、少なからず彼女に影響を与えてしまったんだろう。
良いのか、悪いのかなんてわからないが、彼女のその笑みは、何か憑物が落ちたかのようだった。
なんとなく、これでいい、と。そう思った。