兄貴と注文を取らない料理店
さてさて、懲りずに更新ですよ。
忠勝は昼食を外で取る事が多い。理由は単純で、昼時にたけしが帰宅する事が少ないから。ついでに言えば忠勝は自炊をしない、『料理は食べて貰ってこそ』が信念だから。故に忠勝は、たけしに手解きをしても、自らの為には腕を振るわない。
また、コンビニや弁当屋を殆ど利用しない。理由は、商店街にそれ等の店舗が存在しないから。弁当を食べたい時は、肉屋に作らせる。パン屋に訪問時間を告げれば、焼き立てを提供してくれる。即ち、商店街で事が足りるのなら、他で金を落とす必要は無い。
そんな忠勝が商店街の中でも特に気に入っているのは、『京烙屋』という名のレストランである。そして忠勝は煩雑になりがちな時間を避け、十四時近くに自宅を出て享楽屋へ向かう。
入り口のガラス戸を開けると、カランカランと来客を告げる音が鳴る。店に足を踏み入れると、厨房カウンターからマスターが顔を覗かせる。
店内を見渡せば、アンティーク調の二人掛けソファとテーブルが並んでいる。さり気なく配置された丁度品や照明、明る過ぎない暖色系の壁紙等が相まって、落ち着いた雰囲気を醸し出している。また、スピーカーから流れてくるジャズバラードが、居心地の良さを引き立てる。
ピークが過ぎガランとした店内をスタスタと歩き、忠勝はよく光が差し込む窓際の席へ腰を下ろす。やがて忠勝が座ったのを見計らい、マスターがカウンターから水を運んでくる。そして軽く会釈をすると、マスターは何も言わずにカウンター奥へ戻っていった。
そこには、互いを知り尽くした常連客とオーナーシェフの様な、独特の空気が流れていた。余計な会話は不要、寧ろ無言の語らいが心地よい。そんな、この空間だけが俗世と切り離された様な、特別な時間が流れる。
確かに京烙屋は独特なのかもしれない。店にはメニュー表が無く、提供する料理はマスターがお客の表情等を観察して決めている。更には、最初に出て来る飲み物も水とは限らない。お茶、コーヒー、ぬるま湯、経口飲料等、お客の表情に加え提供する料理を観察して出す物を決めている。
そもそも、店に足を踏み入れた時にサービスは始まっている。回転率を重視するラーメン屋では、こうはいくまい。レストランという形態と少数の客数だからこそ、一人一人に対して行き届いたサービスが提供出来るのだろう。
心休まる音楽に耳を傾けていると、あっという間に時間が過ぎ去る。この日、忠勝の前に運ばれて来たのは、彩り豊かな野菜が添えられた牛テールの煮込みであった。
豪快な骨付きの見た目と裏腹に、スプーンだけでとスルリとほぐれる肉が濃厚なデミグラスソースに絡み、旨味の奔流が口の中に溢れる。一切れ口に入れたら最後、匙が止まる事はない。
あっという間に肉を平らげ、余ったソースは野菜に絡めて全てを味わい尽くす。十二分の満足感を得れば、強張った表情も緩むだろう。忠勝とて例外では無い。
そんな時に限って悪魔は微笑む。それは忠勝を容赦無く日常へと引き戻す。カランカランと音を立ててドアが開く。そして、馴染み深い快活な声が店内に響き渡る。
「ちわ〜っす、マスター! 出前っす!」
「何で、お前が来るんだよ! 余韻が台無しだよ!」
「兄貴? 仕事っすよ!」
「マスター! お前はコックだろ! 出前を取るな! まかないを食え!」
「お客さんが居るのに自由過ぎかよ! って、ツッコミは無いんすか?」
「お前が言うんじゃねぇ!」
「マスター! 肉マシ、ネギトッピング、硬め、からめ、お待ちっす!」
「スルーすんな!」
「兄貴、静かにして欲しいっす。仕事の邪魔っす」
「お前が邪魔なんだよ!」
一瞬にして、心地よいBGMがかき消される。たけしは、つかつかと店内を歩き、カウンターに注文されたラーメンを置く。
「一千万円っす! お代は、兄貴のツケで!」
「何で俺のツケなんだよ!」
「やだな兄貴。アメリカンジョークっす」
「うるせぇよ! 昭和のボケだろうが!」
天国から地獄へとは正にこの事だろう。これまでの静かでオシャレな大人の空間が、大衆劇場に様変わりしたのだから。そしてカウンターの奥では、マスターが一心不乱にラーメンを啜っている。
「食い始めんな! 俺を処理しろ!」
流石の忠勝も、この状況は見過ごせない。しかし当のマスターは、チラリと忠勝を見やり極上の笑みを浮かべた後、再び麺を啜り始めた。
「旨いんだな、よ〜くわかるぜ。でも、食うのを止めろ! せめて、会計が終わってからにしろ!」
「兄貴、それは可哀想っす。麺がのびるっす」
「可哀想なのは、俺だろ!」
「兄貴の代金なら、貰っておくっす」
「何で、お前に払うんだよ!」
「相殺ってやつっす」
「何でだよ! この店のランチは一律千五百円だ!」
「差引の分だけ、テーブルに置いとけば良いっす」
「ったく、お前らは! 後が面倒だから、領収書だけは必ず発行しとけ!」
忠勝は呆れた様に深い溜息をつく。しかし、悪夢はそれで終わらなかった。五百円玉をテーブルに置き店を去ろうとした時、カウンターから話し声が聞こえる。それは、たけしの声だけでは無かった。物静かな雰囲気を欠片も感じず、楽しげにたけしと会話するマスターを見て、忠勝は呆気に取られた。
忠勝が商店街に居を移してから、週に二度はレストランに足を運ぶ。それは、忠勝の習慣にさえなっている。それにも関わらず、忠勝は初めてマスターの素を知った。
「ちょっと待て! マスター、お前……」
忠勝自身、馬鹿な質問をしたと思っていた。しかし、問わずにはいられない。これまで感じていた、心が繋がった様なやりとりは何だったのか?
「あぁ、それすっか? マスターは、極度の人見知りっす」
「いや、待て待て! 一年も通ってか? しかも、商店街の会合でも顔を合わせてるんだぞ!」
「それは、やっぱりあれっす。兄貴が怖いから、話しかけられなかったんす」
たけしの言葉を聞き、忠勝はマスターを見やる。するとマスターは まるでヘッドバンキングの様に、ブンブンと勢い良く、首を立てに降っていた。
「兄貴ってば、もしかして。ハードボイルド的なあれに、浸ってたんですか?」
「なっ!」
「兄貴って、可愛い所も有るんすね!」
「うるせぇ! 二度と来るか、こんな店!」
そう言い放つと、忠勝はズンズンと足を踏み鳴らしながら、店を出ていった。
その後、一週間程に渡り、忠勝がレストランを訪れる事は無かった。しかし、提供される料理は、忠勝の舌を満足させる事には変わりない。
ムッスリとした表情を浮かべ、忠勝が再びレストランを訪れるのは、そう遠くない未来の出来事であろう。
次も、たぶん更新します。
なので、お楽しみに!