第二話 状況把握
それから三か月が経過した。
まともに動くこともできず退屈ではあったが、かつての人生に比べたらマシだ。
何より、生きていることが苦痛じゃない。
当たり前のことかもしれないけれど、俺にとっては何よりも嬉しいことだ。健康な体というのは、こんなにも居心地が良いのか。痛くないし、だるくないし、辛くない。
そして、この先の未来に希望が溢れている。
赤ん坊の体でなければ鼻歌でも歌い出しそうなほど俺は幸せだった。
ともあれ、この三か月で家庭のことはある程度把握できた。
まず家族構成だが、父と母に加えて、三歳上の姉が一人いる。彼女は前世の記憶を持つ俺とは違って純粋な子供のようで、よく隣で泣き叫んで俺の鼓膜を攻撃してくる。
二十代後半と思しき父親は、いつも朝に出かけて夜に汗だくで帰ってくる。背が高く体が鍛え抜かれていることからも、何か体を動かす業種の仕事をしていると予想できる。
父親と同じくらいの年齢と思しき母親は、基本的に家で家事をしている。
たまに家を空けることもあるが、そういう時は仕事が休みなのか、父親が家にいる。
流石に俺ぐらいの赤ん坊を一人で放置するわけにはいかないのだろう。
食事は母親の乳だったが、便を看護師に処理してもらっていた俺に抵抗はない。
……記憶にある中で女の胸を見るのは初めてだったが、精神年齢は高いとはいえ体がまだ赤ん坊のせいなのか、性欲が湧くようなことはなかった。
乳の味は美味いとは言えないが、味を感じられる時点で今までよりはマシだ。
気になる点は、生活水準の低さだ。
この家には文明の利器と呼べるものが何も見当たらない。
俺も含め服は毛織物で、やたらとくたびれている。風呂もなかった。一週間に一度くらいは風呂のあるところに連れていかれる。あれは風呂屋というやつだろうか。
たまに外出した時に街を眺めるが、俺が生きていた現代とは比べ物にならない。
いわゆる中世ヨーロッパが一番イメージに近いだろうか。何度か資料で見たことがある。
単に文明レベルが低いだけじゃなく、かつての中世ヨーロッパに似た光景。俺が生きていた地球に、こんな生活をしている場所が今もあるとは思えない。
このことから、俺はここが異世界だという可能性を考慮している。
それなら両親が使っている言語にまったく聞き覚えがないことや、この生活水準にも説明がつく。
荒唐無稽だというのは転生している時点で今更だ。もはや異世界でも驚かない。
もしかすると神様がどこかにいて、俺が死ぬ間際の願いを聞いていたのかもしれない。
「今日も静かにしてて良い子ね、ウォーレスは」
そんな風に思考していた俺に、母親が声をかけてくる。
最近は簡単な言葉なら聞き取れるようになっていた。
知らない言語なので大変だったが、言葉が分からなくてはどうしようもない。言語類型が分かってからは覚えやすかった。赤ん坊のおかげかもしれないが、記憶力も良い。
ウォーレス、というのは俺の新しい名前だ。
ちなみに母親はアルマ、父親はライアス、姉はサンドラという名前らしい。
「あぅ」
俺はアルマに反応を返そうとしたが、こんな声を上げるだけで精一杯だった。
しかしアルマは柔らかく笑って俺の頭を撫でる。
そんなアルマの服の裾を、サンドラが唇を尖らせながらぐいぐいと引っ張った。
「ママ、あたしは?」
「うんうん。サンドラも良い子にしてるわね」
「えへへーっ!」
俺と同じように頭を撫でられて、サンドラは心底嬉しそうに笑う。
「もう、そんなに騒いだらご近所さんに迷惑でしょ」
アルマは注意しているものの、目元が緩んでいる。娘が可愛くて仕方がないのだろう。
俺が無愛想な分サンドラが明るく元気なので、俺も助かっている。
「ただいま」
ギィ、と扉が開く音と共に、くたびれた声音。
今日も肉体労働に勤しんでいたのか、汗を拭きながら帰ってきたのはライアスだ。
「おかえりなさい、あなた。最近、大変そうね」
「魔物による被害が増えたせいで、領主様が外壁を強化するって言いだしたんだ。しかも急務だの何だの言っていて、別作業の担当だった俺まで駆り出されてるのさ」
……魔物?
聞き覚えのない単語が出てきたな。
文脈を考えると害獣の類だろうか。
「それより冒険者の数を増やした方が早いって知り合いが進言したんだが、領主様は俺たちの言うことなんて聞いてくれねえからな。ま、実際正しいのかもしれねえ。そのあたりは頭の悪い俺には分からん。まあ面倒くさくて疲れることだけは確かだな」
「そう……わたしには頑張ってとしか言えないけれど」
「十分さ。それに、子供たちもいる。お前のためにも、こいつらのためにも、俺がお金を稼いで、腹いっぱい食わせてやらねえとな。ちょっとは給料上げてくれるらしいぞ」
「お父さんかっこいい!」
サンドラがキャッキャと飛び跳ねながらライアスに抱き着く。
感動するほどよくできた父親だった。文句のつけようもない。
今の俺の生活はライアスに頼りきりで、何か協力することもできない。
将来はできる限り恩を返したいところだ。
「ご飯、作るわね」
「いや、ちょうど明日は休みだしな。今日は景気よく酒場にでも行かねえか?」
「あら、たまにはいいわね」
「どこか行くの?」
「今日はお外でご飯を食べるのよ。いい?」
「お外に行くの!? うん、行く!」
俺も返事をしようとして、辛うじて「あぃ」という声が出た。
それを返事だとは思っていないだろうが、アルマは微笑して俺を抱き上げる。
「ウォーレスもあまり泣かない子だし、大丈夫よね」
「酒場なんてうるせえ酔っ払いの巣窟だ。子供の泣き声なんて気にならねえよ」
どうやら俺も連れて行ってくれるらしい。
家と風呂屋だけが行動圏内だった俺にとって、酒場は未知の場所だ。
ちょっとワクワクする。