第5話 ~Herr, gehe nicht ins Gericht~
千伽井の絶叫。その尋常ではない叫び声に、鉄男を抱えた誉と山戸が飛んで来た。環は暴れる千伽井を避ける様に四つん這いになると鉄男の指、鉄男の右手小指を素早く拾って、用意した氷入りの袋の中に入れた。
「指ッ!指ぃいいいい!、てっちゃんの、て、て、てっちゃんのッッッ!指ぃいいいい!」
「千伽井!千伽井ッ!」
「千伽井ちゃん!千伽井ちゃんしっかりして!」
誉も山戸も必死に呼び掛けるが、半狂乱の千伽井の耳には何も聞こえていない。
「佐々木、少しの間押さえてて、、、」
そう言うと山戸は鉄男の右手を誉に托した。
「あぁ、、、」
言われるがままに膝をついて鉄男を床に下ろし、傷口を手で押さえる誉。その間も千伽井は人語とも解らない言葉を次から次に叫んでいる。
「バシィッッッ!」
室内に電気がショートした時の様な音が響いた。そして沈黙が訪れる。頬を押さえ、呆然と自分を叩いた人物を見つめる千伽井の姿。その千伽井の瞳にはきぜん毅然とした山戸が映っていた。
「千伽井っ!しっかりしなさいッ!」
滅多に聞かれない山戸の荒々しい声に、それまで光を失っていた千伽井の目は輝きを取り戻しつつあった。
「鉄クンは大丈夫!生きてるの、、、ひどい怪我してるけど、生きてるのッ!」
「い、、きてる、、、」
「そう!生きてる。私達がしっかりしなきゃ、誰が鉄クンを助けるの?、、、誰が鉄クンを助けるのッ!」
生きてる、の一言で千伽井の目は完全に輝きを取り戻し、それと同時に涙が溢れた。そんな千伽井を見て自らの目も潤みはじめる山戸。
「、、、あ、あたし、、、あたしが」
突如、千伽井の口から出かけた台詞を、山戸の言葉が遮った。
「千伽井ッ、『あたしがイケナイ』なんて悲劇のヒロインじみたくだらない事言うんじゃないわよッッッ!私達が絶対、、、私達、が、、絶、、、た、、、」
山戸の目からも涙が溢れる。しかし、グッと息を呑み鋭い目付きで
「鉄クンを助けるんだからッ!」
そう言うと千伽井を肩ごと抱き締めた。
そこへ悠が現れる。
「車の準備が出来たぞ!俺が運転するから誰か鉄男を頼む!」
息を切らしながら矢継ぎ早にそう告げた悠に、誉は鉄男を抱きかかえ立ち上がった。
「俺が行くッ!」
誉が言うとほぼ同時に山戸も立ち上がり、
「じゃあ、私が鉄クンの傷口を押さえてるわ」
と言うと、鉄男の側へ歩み寄った。既にいつも通りの毅然とした態度に戻っている。
「よし!じゃあ、たま!ここに残って鉄男の御両親へ連
絡と、、、」
そこまで言うと悠はチラッと千伽井を見て、
「頼む!」
と付け加えた。
「うん。解った!」
環は悠の目を見て深く頷く。
「待ってッッッ!」
外に向おうとする面々に千伽井が立ち上がって叫んだ。
「あたしが行く!、、、えりちゃん、変わって。」
一瞬の沈黙。何かを言いかけた誉を制して山戸は千伽井の方へ向き直ると、笑顔で言った。
「千伽井ちゃん、任務は重大よ。」
台詞はいたって冗談めいたものだが、その語気には力がこもっている。それに対し千伽井は先程まで取り乱していたとは思えないほど固い表情で、
「うん!解ってる、、、」
とだけ言い、頷いた。
「よし!決まりだ!」
悠がそう言うと、山戸は鉄男の右手を千伽井に托す。そこへ環がキッチンからスーパーのビニール袋を持って来て千伽井に差し出す。
「ちかちゃん、、、コレ、、、」
千伽井は少し膨らんだそれを見るなり中に何が入っているのかを理解した様子で、恐る恐る手を伸ばし、でもしっかりと受け取った。
「よし、じゃあ出発するぞ!」
飛び出そうとする悠に誉が疑問を口にした。
「、、、悠、病院の当てあるの?」
「、、、それなんだけど、こんな時間だし、、、取り合えず慶泉の大学病院へ行ってみないか?」
「やっぱりそうだよな、、、くっそぉ!結構あるぞココから、、、鉄男!もう少し我慢してくれよ!」
そんな二人のやり取りを山戸と千伽井は心配そうに聞いている。けれどもどうする事もできない。一同はやり場のない悔しさをグッと胸の奥に堪えた。
「とにかく、こうしてる時間も勿体無いから行くぞ!佐々木!チーちゃん!」
「あぁ、、、」
「、、、うん」
そんな三人に向ってそれまで黙っていた環が口を開いた。
「悠ちゃん!」
「ん?」
いつになく真剣な声に悠は少し驚いて、環を振り返る。環はためらい躊躇いつつもギュッと拳を握り、
「西聖ヶ丘総合病院へ行って、倉本、、、外科医の倉本先生を指名して!」
そう言うと途端に何かをあきら諦めた様にうなだれた。そして、消え入りそうな声で付け加える。
「僕の、、、都大路環の紹介って言えばわかる、、、から」
そんな環の様子を見ていた悠は優しく微笑みながらただ、
「わかった、サンキューな!」
とだけ言った。自分の予想していた反応とは異なる反応に環は少し驚いたが、次の瞬間まっすぐと悠を見つめ満面の笑みで明るい声を発した。
「みんな!てっちゃんを頼んだからねっ!」
それに対し誉、悠、千伽井の三人からは、
「おう!」
と短いが力強い返答がなされた。
カチッ、カチッ、カチッ、、、
深夜を指し示す時計。鉄男が医者と共に処置室へ入ってどれほどの時間が経過したのだろうか。その部屋の目の前の長椅子に座りながら誉、悠、千伽井の三人は無意識に手を組んでいた。
そこへ鉄男の両親、それに環と山戸の四人がやって来た。
「みんな、、、」
「叔父様と叔母様が気を遣って下さって、私達も一緒に車へ乗せて下さったの、、、」
悠と山戸がそんなやり取りをしていると、処置室の中から倉本医師が姿を現した。部屋から出て来た彼は誰にも気付かれない様に環の姿を一瞬確認すると、鉄男の両親に向き直って、
「お父様とお母様ですね?出血が酷かったのですが息子さんの、鉄男くんの縫合手術は無事成功しました。」
その瞬間、その場に居た面々の口から安堵のため息が洩れる。しかし次の瞬間、我々に安らぎを与えた同じ口から、倉本医師の口からは、信じられない言葉が発せられた。
「ただ、、、残念ながら彼の右手小指は、おそらくもう二度と動く事はないでしょう、、、」
「あなたぁ、、、」
その過酷な宣告を受けた瞬間、鉄男の母親は夫にすがって泣いた。
「鉄男が生きてさえいてくれれば、それでいいじゃないか、、、」
鉄男の父は慰める事など到底不可能な妻を、優しい言葉で励ました。
そんな肉親の毅然とした態度を目にした五人は、必要以上の悲しみをグッと堪える。
「念のため、しばらくの間鉄男くんには入院して頂く事になるので、落ち着いてからで構いません、看護婦から説明を受け、必要書類にサインをお願い致します。それでは私はこれで、、、」
そう言うと、感謝の言葉を述べる両親の前を倉本は足早に通り過ぎた。しかし、環の前まで来て立ち止まる。
「すまなかった、、、」
「、、、いえ、貴方は名医です。事故からかなりの時間が経過していたのに、、、。例え動かなくても、指を元通りに縫合して下さっただけで、てっちゃ、、、川村くんは社会の偏見の目から逃れられる」
「今回の事だけじゃない、、、」
「、、、、、、」
環はもう何を口にしたら良いのか分らなくなっていた。会話をするだけで胸が痛む。声を聞くだけで涙が出そうになる。倉本の謝罪に悪意が無いのは分っているが、しかし現在の環にとって彼の言葉、いや、むしろ倉本という存在自体が、ことあるごとに自分の心を内側から突き刺す過去という名の刃の磨ぎ石でしかないのだ。
今にも泣き出しそうな顔で俯く環、静かに立ち去る倉本。その事の成り行きの全てを少し離れた場所から見守っていた悠が環に近付いてポンッ、と彼の頭に手を乗せた。
「たぁーま。今日、俺ん家泊まるか?」
「え?」
「それで明日また一緒に見舞いに来よう」
「、、、いい、、、の?」
「ばーか、今更遠慮なんかするなよ!散々ヒトん家の台所使っておいて!」
「、、、、、、だね!でも、鶏の香草焼き美味しかったでしょ!」
「あぁ、、、」
そう言って悠が微笑みかけると、涙をいっぱいに溜めた目で悠を見上げて環は笑った。
「おまっ、、、可愛い顔すんなよなぁ!」
「へへへ、僕の専売特許!」
「ったく、、、」
「、、、、、、ありがとう、、、ね」
小さな声で最後にそう呟いた環に、悠はクシャクシャッ、と頭を撫でて応えた。その後山戸に向って、
「山戸も泊まる?」
と尋ねたが、言って直ぐに愚問だったと悠は心の中で反省した。何故ならば、環はきっと自分と倉本の事を聞かれるだろうと覚悟し、悠になら話しても構わないという決心がついたからこそ、悠の家に泊まる事を承諾したのだ。その後で山戸を誘う事は、環にとってある種の裏切り行為の様になってしまう。もちろん環はそんな事を気にする様な人間ではないし、さっきの現場を見られた以上、山戸が悠の家に来れば山戸にも話すだろう。ではなぜ愚問なのかというと、山戸がそんな場に来るわけが無いからである。
彼女はグループの中で誰よりも人の心を敏感に感じ、受け止めながら行動する女性なのだ。そんな彼女がさきほどの様子からして、『できるだけ人には知られたくない』であろう環の話を聞こうとするはずがない。本人が話すつもりがあれば、自分に何か合図をしてくる。それを見逃さないのが山戸だし、またその合図がなければ放っておく事が出来るのも彼女である。
とにかく、悠は予想される自分の問いかけに対する山戸の返事を待った。
「ん?私はいいわ。それより千伽、、、」
ふと言いかけて、山戸が千伽井の方に目をやると、うなだれ震えている彼女の姿があった。そんな千伽井を隣で誉が無言のまま支えている。山戸が向き直ると悠と目が合い、お互いにヤレヤレ、といった顔をした。
「川村さん、僕達三人今日のところは帰ります。本当になんて申し上げたらいいのか、、、」
そう鉄男の両親に切り出した悠に、鉄男の父親が言った。
「君は、、、山室君だね、、、。息子から話は聞いているよ。息子は、、、鉄男は家で君達の話ばかりしている、、、。中学までは内気でピアノばかり弾いていたあの子が、君達の話をしている時は本当に幸せそうなんだ、、、」
言いながら、話す彼も聞いている悠達もやり場のない気持ちにそれぞれ苦悶の表情を浮かべている。
「鉄男が明日、、、目を覚したら、私の口から指の事を言おう。そうしたら、どうかあの子の助けになってやって欲しい!、、、今あの子を救えるのは、君達だけだ、、、。親として情けないが、、、どうかひとつ!、、、」
深々と頭を下げる鉄男の父に悠は笑顔で、
「川村さん、、、どうか頭を上げて下さい。僕らは彼と、、、鉄男君と出会えて本当に幸せです。彼の奏でるバッハは、いつでも僕らに安らぎを与えてくれました。今日だって、、、」
悠は言葉に詰まる。千伽井は声を押し殺して泣き、誉がそれをなだめている。
「けれど僕らは、彼の弾くピアノより、、、彼の奏でるバッハよりも、彼自身が好きです!優しくて、温かくて、常に僕達みんなの事を考えてくれていて、、、僕はそんな風に彼を育てこられた川村ご夫妻を尊敬します!そして何よりも、そんな彼と出会えた事に、僕ら全員感謝しています!」
そう言い切った悠の顔は、清々しい笑顔に涙がつたっていた。
次回更新は1/11(金)の予定です。