第176話(新たな生活)
[百七十六]
無事に引っ越し作業が済み、目的のひとつであった保育所へ、仕事や冒険中にロワとカルテイアを預けられるよう手続きも済ませ、少しずつ日常に落ち着きをみせていく。
そして、この家に引っ越してから1週間が経とうとしていた。
「アスピス。もうちょっと食べないと、大きくなれないぞ。お前の方が4つも年上なのに、ロワとそんなに変わらないだろ。ロワの方がいっぱい食べているから、抜かれちまうぞ」
「もう無理なのです。食べたくないのです」
「うーん、困ったなぁ」
「ルーキスは、やっぱり意地悪なのです」
アスピスの食事量の少なさに、ルーキスが見兼ねたようにここ連日、食事するたびに居残りさせられ、説得を受けていたことで、アスピスは食事の時間が嫌になっていた。そして我慢限界とばかりに、目から大粒の涙を零し始める。
「もう。無理強いはダメでしょ。アスピスだって自分なりに頑張っているんでしょうし」
「そうは言うけどさ、ここで無理してでも食わなねぇと……」
「もう無理なの! お食事の時間なんて嫌い!」
アスピスが爆発するように叫ぶと、声を上げて泣き始める。瞬間レイスが近寄ってきて、アスピスを抱き上げようとするのを、ルーキスが停止する。
「泣かせた責任くらい、自分で取るから気にするな」
そう言いながら、ルーキスはアスピスを抱き上げると、そのまま立ち上がる。
「それにしても、そんなに食うのが嫌いか?」
泣きじゃくりながら大きく頷くアスピスに、ルーキスは「そうか、嫌いなのか」と困ったように告げてくる。
「なぁ、レイス。こいつが好きなのってなんなんだ?」
「そうですね、飲み物は普通に飲みますよ。特にオレンジジュースが好きみたいです。搾りたてをあげると大喜びしますね。それから、スープの具は嫌いみたいですが、汁の方は好きみたいです。大抵飲み干しますから。それから、卵の白身が好きみたいですね。ベーコンエッグなど作ると、白身だけ食べますから。黄身は食べたがりませんね。それと肉は大嫌いみたいです。それから、冒険中や、夕食時に出したりする丸いパンは、俺が最初のころに4分の1は食べるようにって約束させたら、それだけはちゃんと食べてくれますが。それ以上は食べてくれないんですよね。でも、柔らかいパンは嫌いではないみたいです。チーズ味のもちもちしたパンは、アスピスも気に入っているみたいで、小さいですが1つ食べますから。それと、生クリームが好きですね。ケーキも喜びますが、パンケーキが一番好きみたいです」
「野菜や肉は嫌いかぁ。11年間見たことも食ったこともなかったか?」
レイスの話しを聞きながら、ルーキスは苦笑を零しつつアスピスに問いかけると、アスピスは手の甲で涙を拭きつつ、小さく頷く。
「まぁ、そうだよな」
アスピスの返事を受け、小さく呟くと、ルーキスはアスピスをあやすよう背中をゆっくり撫でてやりながら、静かな口調で問いかけてくる。
「アスピスはずっと、どんなもんを食ってきたんだ?」
「あのね、手のひらに乗るくらいの丸くてとても固いパンがひとつもらえたの。でも、ぼそぼそしていて食べにくかったの。それとスープが一杯もらえたの。でも、汁の上に、小さくてぷにょぷにょした変なものが浮いていて、それがとてもまずかったの。スープは薄っすら味が付いているだけだったから、ちょっと味のついたお水みたいだったから飲むことができたの。それにね、お食事は1日に1回あればいい方だと思ってたら、お外に来たら1日に2回も食べるんだもん。お腹いっぱいで入らないよ。あ、でもね。お水はちゃんと飲めって、お水がいっぱい入っているピッチャーを毎日くれたのよ」
アスピスが一生懸命思い出しながら、ルーキスに説明する。そして、現状がいかに食べ過ぎているかを訴える。
それを受け、ルーキスは申し訳なさそうに呟いた。
「そうか、俺たちがお腹いっぱい食べていたころ、アスピスはそんな生活してたのか。食事が楽しいなんて思えないよなぁ」
「みんなと過ごす時間が好きよ。もう、独りぼっちのお部屋には戻りたくないの」
「1人部屋は怖いか?」
「床も壁も天井も綺麗で、変な臭いもしないし、雫も落ちてこないし。それに、窓もあって、とても素敵はお部屋だから、好きよ。でも、1人で寝るのは怖いの」
「そうか、怖いか。じゃあ、俺たちと寝るか? シェリスもロワもいるぞ」
「エルンストが一緒に寝てくれるから大丈夫なの。でも、エルンストがいない時は、一緒に寝てくれる?」
「あぁ、みんなで寝ような」
いつの間にか泣き止み、アスピスに質問を重ねてくるルーキスへ、アスピスは一生懸命に答えていく。そして、ルーキスがアスピスの背中を緩く優しくたたき続けていると、アスピスがルーキスの首に腕を巻き付け、気持ちよさげな顔をしながら、肩に寄りかかるように眠ってしまう。
それからしばらくあやし続けた後、ルーキスはアスピスを抱いたまま、イスに腰を下ろした。
「重くありませんか?」
「ロワより軽いぞ。にしても、どうしたもんかなぁ」
レイスが差し出したコーヒーを器用に受け取りながら、ルーキスは小さくぼやく。
「時間を掛けてあげるしかないんじゃないの? 助けてあげたいんでしょ。あなたにとって、大事な小さなマスターさんなんだから」
「お前だって大事だぞ」
「嫌味を言ったわけじゃないのよ。ルーキスにとっても、アスピスは特別な存在なことくらい了承済みよ」
「分かってるって。ただ、誤解がないように言っただけだよ」
自分用のコーヒーを持って、ルーキスの傍らに、シェリスは腰を落とす。レイスもその後、ルーキスの正面にコーヒーを持って腰かけた。
「今まで、アスピスがどんな食生活を送って来ていたかなんて、触れてはまずいと思って聞けませんでしたから。まさか、食事が1日1回有るか無いかな状況だったとは」
「そのうえ、小さな固いパンと汁だけのスープだったとなると、野菜や肉を受け付けないのも納得だろ。それに異様に少ない食事量もな」
「年下のロワに刺激されてくれるといいんだけど。体の大きさはほとんど変わらないもの、負けたくないと思ってくれたら、嬉しいんだけど」
「今のままじゃ、無理だろうな。食べたくない方が優先されてっからな」
「お昼の休憩時間の軽食は、アスピスの好きなものを出してあげるようにして、10時と3時くらいには、ジュースか栄養のある飲み物をあげるくらいが、現状でできることね。ちょうどロワに10時と3時に簡単なおやつと飲み物をあげているから、アスピスも違和感なく受け入れてくれるんじゃないかしら」
「そうですね、いきなり食べろと言っても、拒まれるだけですから」
これまでレイス1人で頭を抱えてきたアスピスの食事のことを、共に真剣に考えてくれるルーキスとシェリスは、心強い存在となる。
「アスピス、チーズは好きなんじゃないか?」
「あ、そうですね。チーズ味のパンを好んでますから」
「チーズをのせたハンバーグとか、チーズを混ぜ込んだオムレツとか、グラタンや、オニオンスープとかなら、喜ぶんじゃないか?」
「そういえば、以前グラタンやオニオンスープを自分で作ってましたね。食べてあげられませんでしたけど」
以前、アスピスを長期間1人で留守番をさせてしまったときのことを思い出しながら、みんなが帰宅してくるのを心待ちにして、1人で一生懸命に夕食を作って待っていたアスピスの心境を想像し、レイスは改めて気の毒なことをしてしまったと考える。
しかし、レイスの話しを聞いていたシェリスが、レイスが考えていたことと全く違うことを言ってきた。
「自分の好きなものを選んで作りやすいものよ。好きなんじゃないかしら」
「フォルトゥーナが来てくれた時に、作ってくれたことがあるんですよ。家ではチーズを使った料理はあまりしなかったのですが、ちょっとメニューに加えてみます」
「私も手伝うし、フォルトゥーナもいるのだから、気負わないでちょうだいね。それに、人手があるんだから、子供用のメニューと大人用のメニューを変えることも可能よ。子供と大人では、口に入れたがるものが違うから。これまで、レイスは男所帯の食事しか作ったことなかったんでしょ? エルンストやカロエが好むものが、多かったんじゃないかしら?」
「そういや、2人分くらいのチーズフォンデュの使い捨てセットみたいなの、売ってたな。今度買ってきて、夕食の時、ロワとアスピスにやらせるか」
「そうね。ちょっと変わったことをやってみるのもいいかもしれないわね。ロワにつられて食べてくれたら最高なんだけど」
ルーキスの方にもたれかかり、気持ちよさそうに眠っているアスピスを見つめつつ、シェリスは笑みを零していた。
「ここまで頑張って生きてきたんですもの。ちゃんと、大人にしてあげたいわね」
「あぁ、まだ誰の嫁になるか分からないけどな。アスピスにも本当の家族を持たせてやりたいからな」
「そんな言い方をすると、エルンストが怒りますよ」
「や。だって、ロワもレフンテも狙ってんだぜ。争奪戦はこれからが本番だろ。レイスも諦めずに頑張れよ」
ルーキスはからから笑うと、完全に他人事として、あっさり告げる。
「つっても、最後は俺がチェック入れるけどな」
「そういうのは、自分の娘だけにしてください」
「いや、もう無理だろ。こうして手に入れちまったからには、責任もって嫁に出してやらねぇと。それに、これまで苦労してきた分も、これから少しずつ取り戻してやらないとな」
腕に抱くアスピスの重みを噛みしめながら、ルーキスは娘をひとり手に入れた気分で笑みを深めていった。
ここ数日続けるようにして、冒険者ギルドの訓練場を覗いてくると告げ、レフンテは朝食後に出かけていく。それを見送ると、本日はエルンストとフォルトゥーナが、ロワとカルテイアの面倒を見るために、3階へ上がっていった。
そして10時を少し過ぎるころ、エルンストとフォルトゥーナが、それぞれロワとカルテイアを抱いて下りてきた。
「お前ら、子育て中の夫婦にしか見えねぇぞ」
「ルーキスの子だろうが。自分の子供をネタに遊ぶな」
「単なる感想だろ。そう、怒るな」
「うるさい。っていうか、なんでルーキスがアスピスを抱いてんだ?」
楽しそうににやにやと笑うルーキスへ、エルンストがムッとするよう文句を言う。
「食事のことで泣かせちまったから、責任もってあやしてたら寝ちまってさ。気持ちよさそうに寝てるだろ?」
「ロワもぐっすり寝てるぞ」
変なところで対抗心を燃やしたエルンストへ、ルーキスは容赦なく言い返す。
「そっちは、暴れすぎて疲れて寝たんだろ。まぁ、疲れて寝ちまうくらい遊んでくれて助かったけどよ。でも、10時のおやつは2人ともなしだな、こりゃ」
「そうですね、ここで起こしたら2人とも不機嫌になりますね」
「カルテイアはいいこね。ちょうど目を覚ましたから、ミルクをあげなくちゃね」
「フォルトゥーナありがとう。続きは私がやるわよ」
「じゃあ、シェリスが昼寝をする時間になったら、また預からせてもらうわね」
「その時はお願いするわ」
シェリスは笑みを浮かべると、カルテイアを引き取り、ソファーの方へ場所を移動して母乳をあげ始めた。
みんなはその様子をなにげに見守りつつ、家の中に温かな空気が満たしていくのを感じていた。
シェリスの産んだ、ロワやカルテイアは、両親に愛され育ってきたが。この家に住むそれ以外の者は皆、家庭の温かさとは無縁に育ってきた者たちばかりであった。そのため、ルーキスとシェリスが築いた家庭の温かさに触れることが、みんな好きであった。
「エルンスト、座れば? コーヒーを入れたわ」
「あ。悪いな」
ロワを抱きつつ、エルンストが席に座ると、フォルトゥーナがその前にコーヒーを置く。そして、エルンストの隣にフォルトゥーナも腰を落とす。
「こんな風にのんびりしていたいんだけど、そろそろ仕事が来ちゃいそうよね」
「そうだな。っていうか、ルーキスは平気なのか? この間、出掛けてたけど予定が入らなかったのか?」
「いや。そろそろ予定が入るんじゃないか」
「あぁ、なんか待ってるのか。っていうか、カロエからそろそろ連絡が入るころなんだよな。ちゃんと王国管理室所属の剣士になれたのか?」
「おそらく、アスピスにしか届きませんよ。筆不精ですから」
「あー、そういうのは面倒臭がりそうだな」
レイスの意見に、エルンストもすぐに納得する。
「そんなに気になるなら、シェーン様にお願いして、仕事を組ませてもらいなさいよ。頼めば、アスピス専属にしてくれるわよ」
「そこまでカロエを甘やかしては良くありませんし。シェーン様に貸しを作るのはいいですが、借りはあまり作りたくないので」
「そんなことを言っていたら、アスピスが行動を取るわよ。シエンとデートするくらいのこと、カロエと冒険でパーティを組むためなら、やっちゃいそうよ」
「シエンって、実力はどれくらいなんだ? シェーンがそんなに強いとは思えないんだが。幻術の肉体変化を解除して素に戻れば、力とか変わるのか?」
「冒険する場合、シェーン様の近衛騎士団員と婚約者のイヴァールで固めているそうですから。守られている感が強いですね」
「だろ。そんな奴と2人きりで歩かせられるわけないだろ」
「大層そうな理由をつけてきたな」
エルンストが『認められるかそんなもの!』という口調で告げると、ルーキスがからから笑う。
「素直に、俺が嫌だから行くなって言った方が早いぞ」
「俺が反対して行動を取るのを止めてくれるような、可愛気がある奴ならいいんだよ。俺が反対なんてしてみろ、影に隠れて行動しやがるから」
「隠れてってことは、悪いことやっているっていう自覚はあるんだな」
「いえ、怒られるのが嫌なだけだと思いますよ。悪いことをしているとは思っていないようですよ。それに、当人は隠れて行動しているつもりですが、結構バレバレですし」
「覚えさせなきゃならないことが、いっぱいありそうだな」
ませたことを言ったり、手伝いを進んでしたりするので、体の発育が遅れているだけの普通の子供だと勘違いしてしまうが、本来日常生活で身につけていく事柄や常識を、アスピスには学ぶ機会がこれまでなかったことを思うと――。
「やっぱり、学校へ行かせてやりたいなぁ」
「俺たちもそうしてやりたかったんですが、仕事が入ってしまいますし。ひとりで家に残すよりは、一緒に行動した方が安心でしたので」
「それに、こいつの使い魔含めて、結構知られちまっているからな。学校なんて緩い場所にひとりで通わせてたら、誘拐されまくりだぞ」
「そういや、裏側じゃお尋ね者扱いだったな」
ルーキスが思い出すように告げると、エルンストが苦笑を零す。
「こっちはそれが気になって仕方ないっていうのに、そいつはどこ吹く風って感じで動き回りたがるからな」
「未だ子供だからなぁ。それに、アスピスにとって、外の世界は新鮮だろうからな。興味が尽きないんだろ」
「そこで、アスピスを肯定しないでくれるか。誘拐なんてされたら、俺たちだけの問題でなくて、国レベルの問題になるぞ」
「国が動いて助けられるレベルなら、まだましだろうな」
エルンストが脅すように告げたが、ルーキスの思考はその上をいっているようであった。
「どんだけ重い荷物を背負ってんだかな。体はこんなに小さくて、こんなに軽いっていうのに」
潰れないよう、支えてやらないとなぁ。と、呟くルーキスに、エルンストやレイス。フォルトゥーナが、当然だと言わんばかりに頷いていた。
誤字脱字多発中。少しずつ直していきます。すみません。




