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CLOWNS  作者: 夏宮涼
3/6

貴女と共に

 迫る死の瞬間から目を背け視界が暗闇に覆われたのと同時、訪れたのは痛みを伴わない下から突き上げる衝撃。次いで、浮遊感。

 予想外の感覚に驚き、反射的に美桜の目蓋が開く。


「………………へ?」


 間の抜けた声が、美桜の口から漏れた。


 背中と膝裏に感じる冷たさ、左腕に当たるやわらかな感触、見上げる先にある見知らぬ顔。約二秒を要して、美桜は、誰とも知らぬ何者かに自分の身体を抱えられていることに気づいた。恐怖で蒼白になっていた顔が、途端に赤く染まる。


「え、えっ、ちょっ、ええ!?」


 混乱と緊張で縮こまる美桜の身体を抱き抱えたまま、唐突に現れた第三者は怪物から十メートルほど離れた位置に軽やかに着地した。

 パクパクと口を動かしながら声も発せられずに目を見開いている美桜を見下ろし、乱入者はその口元に弧を描いた。


「おーおー、驚いてんな。まあ、間に合ったようでなにより」


 腕の中で百面相をしている美桜を見て小さく笑いながら、乱入者は彼女を橋の上、欄干の傍に下ろした。


「……ぁ」


 貴女は、誰?


 そう問いかけようとした言葉は、音に成らずに美桜の口の中で溶けた。声を発しようと半開きになった口もそのままに、呆然とする美桜の瞳に映るのは――一人の少女。


 風が吹けば流れる、黒く艶やかな髪。少女の腰まで伸びるそれが、夜の川の如く月明かりを反射して波打つ。


「……」


 身にまとっているのは男物の着物と袴。それらはどちらも華やかさとはかけ離れた黒の無地で、月明かりが無ければその姿は闇夜に紛れて消えてしまうだろう。一方で、袖や襟元から伸びる肌が、陶器さながらのなめらかさと透き通るような白さをもって、彼女の存在をこの空間に際立たせている。


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"ぁ!」


 コンクリートを抉った鼠型の怪物が、大きく吠えた。空に放たれる、男の悲鳴にも似た咆哮。食事を邪魔された怪物の怒りが、ビリビリと空気を震わす。


「あんたはそこにいろ」


「えっ?」


 恐怖を煽られ再び青ざめる美桜を背に、少女は静かに怪物へと向き直った。宝石を思わせる深紅の瞳を微かに細めて、不満を露にする怪物を見据える。


 一歩。少女が怪物との距離を詰めようと身体の重心を前へ移動した時。風にはためく袴の裾が、くいっと後方に引かれた。


「……」

「ま、待って……」


 怪物の動きに気を配りながら、少女はゆるりと首を巡らせる。視線を落とせば、不安の色を宿した薄茶色の瞳と目が合った。


「行ったら、だめ……貴女、死んじゃうよ……」


 泣いたことで少し充血している目元に、また新しい涙を溜めて。裾を握る手は小刻みに震え、紡がれる言葉も弱々しい。それでも美桜は、突然目の前に現れた少女を、自分とそう歳の変わらない彼女を、呼び止めるために声を振り絞る。

 ぶつかる視線は逸らさない。逸らしては駄目だと美桜は思った。彼女をあのバケモノのもとに行かせてはいけない、許せば少女が死ぬ、と。


「逃げよう…………逃げて、お願い……」


 出来ることなら共に逃げたい。それが、美桜の本音。死ぬためにここへ来たとはいえ、その覚悟はとうに折れ、あるのは怪物に対する恐怖だけ。

 それでも、最期まで独りだと思っていた自分のもとに現れた彼女を、美桜は道連れにする気になれなかった。


 だからこそ、怖いと思っていても少女を逃がしたかった。彼女が普通でないことは美桜も察していたが、襲い来る怪物と比べたら些細なことで。本当に自分の体重を受けとめていたのかと疑いたくなるほど華奢な身体は、怪物が腕を一振りするだけで簡単に潰れてしまうに違いない。そんな未来が頭を過り、美桜は身震いする。


「貴女が何処の誰なのか、私は知らない……でも、あんなバケモノ相手にしちゃ駄目。勝てる訳ない……」


 誰かが傷つくのを見るのはもううんざりだ、と……美桜は訴えた。


「……分かった」


 すがる美桜の声に今まで黙って耳を傾けていた少女は、一つ頷いて視線を外した。彼女が見つめるのは、殺気を纏う異形。


「けど、まあ却下で」


 鼠型の怪物が、姿勢を低くし、今にも飛び掛かろうと唸る。そんな異形に向けて、少女は呟きながら手を伸ばす。その目に、恐怖はない。むしろ、口調はどこか弾んでいて……


「あんたのことは俺が護るし、それに」


 風が、舞う。

 長い髪がふわりと揺れる。


「勝てる訳ない、なんて。そんな簡単に言われると、さすがに傷つくぞ?」


 小首を傾げ、少女はいたずらっぽく笑った。


 風が、踊る。風が、唸る。

 少女の艶やかな髪が、闇色の着物が、なびく。


 強く、強く、差し伸べられた彼女の細い指先へ――風が、集う。


 荒れ狂う風、暴風の塊を裂いて……真っ白な光が、走る。


「華麗に、全力で――」


 ――悪霊どもをぶっ飛ばす。


 吹き乱れた風の中心、弾けた光の粒子が散る中、少女の手に姿を見せたのは、真っ赤な番傘。


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」


 異常を察知した怪物が、番傘を手にした少女を威嚇する。鋭い爪で地面を削り、長く太い尾を持ち上げる。巨大な前歯が剥き出される。


 

 

 番傘の先端は、一直線に怪物へ。


 一歩、少女は擦りながら足を踏み出した。


「さあ、派手に行こうか」


 鼠型の怪物が飛び出す。クッキーが砕けるのと同じくらいに呆気なく、怪物の足場のコンクリートが抉れる。


 それを見た少女は薄く笑いながら、地を蹴った。美桜の瞳から、華奢な背中が消える。


(えっ!?)


 ハッとして目を見開く。


 バケモノは真っ直ぐ、へたり込んだままの美桜のもとへ。


 だが。


「っ、らぁ!!」


 瞬き一つ。

 次の瞬間に少女が現れたのは怪物の真横。

 

 一直線に突き出された番傘が、バケモノの皮のない横腹を穿つ。円錐状に肉が陥没し、衝撃は波となり巨体を吹き飛ばす。

 手すりに怪物が叩きつけられ、橋が揺れる。


「ぁ、あ"あ"あ"!あ"あ"あ"あ"あ"!」


 どろり。番傘によって開けられた孔から、粘稠ねんちゅうな赤黒い体液が零れる。それは小さな飛沫をあげ、コンクリートに落ちた。ボタボタと、次々にシミを広げていく。比例して、周囲に漂っていた腐敗臭が、濃さを増した。


 呻きながら立ち上がった鼠型の怪物に、少女は容赦なく追撃する。番傘を右手に、再び駆ける。


 もう一度、孔目掛け、得物を打ち出す。

 髪がなびく。空気が唸る。


 番傘の先端が寸分違わず孔へと吸い込まれ……


「っと」


 ……少女は手を止めその場から素早く跳び退すさった。


 直後、彼女の立っていた地面が轟音と共に弾け飛ぶ。


 コンクリートの破片が飛散し、砂埃が舞う。


「ったく、あんま暴れんなよな……」


 眉間に皺を寄せ、少女が不満を漏らした。視線は真っ直ぐ怪物のいた場所へ。しかし、対象の姿は砂塵の向こうだ。


 少女は左腕を掲げ、飛んでくるコンクリート片から顔を庇う。勢いは弱い。砂塵を斬るように、彼女は番傘を横一文字に薙いだ。


 風が、細かく舞う形なき障害物を裂く。


「っ!」


 晴れた視界。唐突に現れたのは、黒い影。その影は、鈍く空気を切り裂きながら少女の眼前に迫った。


 再び、轟音。


 鞭の如くしなった長い尾が、無遠慮に地面を叩き割った。


「あっ!」


 連続する橋を壊し兼ねない揺れに耐えながら、美桜は顔を青くした。道路を挟んだ橋の反対側で繰り広げられる……殺し合い。それを目の当たりにして、美桜は無意識に制服のスカートを握り締めていた。


(今の……当たった……)


 どうしよう、と下唇を噛む。焼き菓子を割る様に、簡単にコンクリートを破壊する怪物なのだ。直撃すれば、ただでは済まないどころの話ではない。


「……いや」


 視界が再びぼやけるのを感じながら、美桜は現実を否定したくて首を横に振った。


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"!」


 尾が同じ場所へ叩きつけられる。二度、三度、振り下ろす。食事の邪魔をした乱入者を潰すため、怒りを、ぶつける。


「っ、嫌、やだ、やめて・・・・・・」


  橋が、軋む。


「あ"あ"あ"――」

「おい、あんま暴れんなって言っただろ」


 怪物の叫びに掻き消されることなく凛と通る澄んだ声。

 次いで空気が弾け、視界を塞ぐ砂塵が吹き飛んだ。


 ……景色が、晴れる。


 同時に、荒れ狂っていた尻尾が――堕ちた。


 尾の付け根、綺麗な切断面から、異臭を放つ体液が流れ出る。


「お静かに願おうか、腐れ鼠」


 痛みか、怒りか、それとも恐怖か。

 吠えながら暴れる怪物は、忙しなく小さな耳を動かして危険因子の行方を探す。


 次の瞬間、少女が姿を見せたのは……怪物の目の前。


 上空から降り立った彼女は、無表情で番傘を振り上げた。


 風が唸る。空気が震える。

 

 番傘が蒼白い光を纏う。


「ぁあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!」


 怪物が雄叫びをあげながら突っ込んだ。

 少女へとその鋭い爪を振るう。


「……ひれ伏せ」


 踏み込む。と、同時、一閃。


 素早く振り下ろされた番傘が、怪物の頭蓋を砕いた。


 衝撃波は刃となり、そのまま巨躯を真っ二つに斬り裂いていく。


 断面から、真っ黒な煙が噴き出す。



 怪物の悲鳴が、そこで途絶えた。




       ※  ※  ※



 大きな鼠のバケモノは、醜い肉の塊に変わって、生々しい音を立てながら橋の上に沈んだ。

 壊れた水道管からほとばしる水みたいに高く噴き出していた黒い煙が途絶えると、一刀両断されたバケモノの死骸は一気に腐り始めた。肉がドロドロと溶け落ち、支えを失った太い骨はゴトゴトと重そうな音を立てて崩れていく。


 辺りの空気は澱んでいて、吐き気を催す臭いに顔が歪む。炎天下で放置された生ゴミにひけをとらない酷い臭いだ。この場にいるだけで、何か悪いモノに全身を侵食されている気分にまでなってくる。妙に胸が苦しいのも、そのせいかもしれない。



 そんな異臭を放つバケモノの死骸を前に、黒髪のあの子は手に持っていた和傘を軽く振った。時代劇に出てくるお侍さんが、刀に付いた血を払う仕草に似てるな、と他人事のように眺める。


「……ぇ」


 消えた。


 バケモノが、バケモノだった骨や体液の池が、消えた。それも一瞬で。鼻をつくあの異臭も、薄まるどころか名残すらない。



 ………………お、終わったって……こと?



 さっきまでの争いが嘘みたいに、最初ここへ来た時と同じ静寂が戻ってきた。


 シャボン玉が割れる様に、風船が割れる様に、空気がパッと弾けて不意に和らいだ感じがした。水の中から出た時に似た、息苦しさから解放された感覚を覚える。


「わりぃ、待たせた」


 何事もなかったかのようにくるりと身を翻して、彼女がこちらに歩いてきた。気がつけばその手から和傘が消えていて、よく見ると周りに有ったはずの破壊の形跡も一切無くなっている。


 ……どういうこと?今のは、夢?


 あり得ないことの連続で、まるでリアルな夢か映画でも見ていたのではと自分の頭を疑いたくなる。


 でも、違う。今のは現実だ。


 ずっと握り締めていた拳は痺れているし、スカートもしわくちゃだ。寒さとは違う理由で身体は震えていて、恐らくだが腰も抜けている。今すぐに立てる気がしない。


 訊きたいことはたくさんある。でも、今それを彼女に尋ねたところで果して本当のことを教えてもらえるのだろうか。

 それに、そもそもそれを尋ねることに意味はあるのか。知ったところで何も変わらないのなら、わざわざ知る必要もないはず。


 ・・・・・・私は、死ぬためにここへ来たのだから。


 そこまで考えて、また下唇を噛んだ。


「あんまり噛むと唇荒れるぞー」


 クスクス笑いながら、彼女は私の目の前までやってきた。よいしょっと、なんて見た目にそぐわぬ台詞と共に腰を下ろす。言動や服装は男っぽくてどちらかと言うとがさつなのに、月明かりに照らされる彼女はやっぱり優美で、どこか神聖な雰囲気すら感じるのだから不思議だ。


 胡座をかいてこちらに視線を投げ掛けてくる彼女に、怪我は見当たらない。さっきの戦いで、あのバケモノの攻撃を全て避けていたということだろうか。服は汚れているようだけど、本人は特に気にも留めていないのか呑気に笑っている。


「なあ」


 ルビーの瞳が、私を映す。


「あんた、どうして真夜中にこんな所にいたんだ?」


「っ、そ、それは……」


 純粋な疑問。当然の問いかけなのに、自分がしようとしていたことを見透かされている気がして、口ごもる。


「あ、別に責めてるわけじゃないから。単純に気になっただけ。その格好、こんな時間に出歩いてたら、下手しなくても補導されるだろ?」


 ヒラヒラ手を振って、そんな身構えるなと笑う彼女も補導対象ではないのか。

 構えるなと言われても、実は自殺しに来ました、なんて簡単に言えるわけがない。成り行きとはいえ、彼女にはバケモノから助けてもらったばかりだ。

 そうでなくとも、死のうとしてると聞いて、「そうですか、邪魔してすみません」なんて返す人はそういないのだ。彼女のことはほとんど何も知らないけど、気を遣ってすんなり立ち去ってくれるような人間には見えないし、本当のことなんて話せるわけがない。



「つ、月を見に……」


 ……何とも幼稚な嘘だと、口にしてから後悔した。家出とでも言っておけば良かった。そうしたら、きっと何かしら察して放っておいてもらえたかも知れないのに。


「月、ねぇ……」


 そう呟いて、彼女は空を仰いだ。雲に遮られることなく柔らかく輝く月は、ここへ来た時と変わらずそこにある。


「あんたんって、ここの近く?」


「え?あ、はい、それなりに……」


「じゃあ、送ってくわ」


「え?!」


 満面の笑みを浮かべる彼女に悪意は感じられない。まあ、当然だ。夜道を一人で帰すのは危険だというただの親切心だろう。あんなバケモノを倒してしまうのだから、不審者の一人や二人、簡単に締め上げてしまいそうだ。嫌がらせだと感じてしまうのは、私が本当の目的を黙っているから。


「あ、いや、あのっ、私、もう少しここにいるつもりですので……」


 彼女にいつまでもここにいられては困る。私が動揺していることなんて彼女にはもうバレていそうだけど、退いてもらわなければいけない。



 ――疫病神はお姉ちゃんでしょ!


 蘇るのは、いつかの舞の悲痛な嘆き。


 ――お姉ちゃんなんか大っ嫌い


 何度も繰り返される、拒絶の叫び。



 一度は折れてしまったけど、それでも私が取るべき道は一つだ。悩みはすれど、引き返すことができないなら、未来は決まっている。


 彼女の親切を断ると、思いっきり溜め息をつかれた。やれやれと首まで振られる。


「……あんた、何考えてる?」


「え、なに、って……」


 もう一度、深紅の瞳に見据えられ、反射的に身を固くした。知らず知らずのうちに背筋が伸びる。


「誤魔化そうとする理由は分からなくもないけど、あんた分かり易いよな」


「ど、どういう意味ですか……」


「あんたさ――」



 ――死のうとしてるんだろ?



 一瞬、時が止まった気がした。

 今、なんて?死のうとしてる?何故、そんなこと……。


 また、溜め息。彼女にさっきまで浮かべていた笑みはない。そこにあるのは、呆れだ。


「図星か。やっぱり分かり易いよ、あんた」


 何て返せば良いのか。まともな返事すら思い浮かばなくて、口を動かしたところで声にならない。


「さっきみたいな怪獣見たら、アレは何だ、お前は誰だ、今のはどうやったんだって、問いただすのが普通だ。非現実的なことで死にかけたなら、何が起きたのか知りたいと思うのが自然だからな」


「せ、せっかく助けてくれた人を、質問攻めするのも、どうかと思って……」


「そうだとしても、あんな怪獣に襲われた後で一人になりたいだなんて、おかしくないか?それも、半泣きしてガクガク震えてたヤツが。またアレが出たら、また襲われたらって、嫌でも考えちまうだろうに」


「そ、それは…………」


「こんな真夜中に、人気のない橋の、それも手すりの外に突っ立ってたヤツが、ただ月見をしてました?違うだろ?あんたは死のうとしてた。だから非現実的な怪獣や俺のことも知りたがらなかったし、襲われたばかりなのに平気で一人になりたいなんて言えた。そんなに未来に興味ないって面してたら、そりゃ誰だって気づくさ」


「……………………」


 何も言えない。図星だし、今更どんな言い訳も通用しないだろう。ここまで言われて、それを覆せるほどの嘘なんて、思い浮かぶはずもない。


 唇を噛んで逃げるように視線を落とす。無意識に握った拳が力みすぎて小刻みに震えている。

 もういっそ認めてしまおうか。わけを話せば、彼女も分かってくれるはず。私の他不幸体質は大人でも手を焼くくらいで、既に高校の先生も私から距離を置いていた。この体質はもうどうしようもないのだから、むしろ分かってもらわないと困る。



「…………貴女の言うとおりです。私は――」


 潔く、ここに来るまでの経緯を話そう。私の体質のこと、怪我をした友達のこと、そして自殺しようとした舞のことも、全部……。





「……他不幸体質、か」


「信じ、られないなら、それでっ、構いません。でも、じゃ邪魔だけっは、し、しない、で欲しいんです」


 ボロボロと涙が零れる。止まらない。瞬きすら間に合わず、涙が次々にスカートへ落ちる。


 涙で滲んだ視界では、彼女が今どんな顔をして何を見ているのかも分からない。こんな風に誰かに自分の気持ちを吐露したのはいつぶりだろう。こんな風に、しゃくりあげて上手く話せなくなるまで泣いたのはいつ以来だろう。


 不意に、頬に冷たい何かが触れた。


「あんま擦ると顔が酷いことになるらしいぞ?」


 顔は見えないのに彼女がまたあの笑みを浮かべているのだと分かる、優しい声音だった。未だに溢れる涙を、彼女が拭ってくれているのだと理解して、また泣きそうになる。


「今更邪魔すんなって言われてもねぇ」


「せっかく、たっ助けていただい、た、のに、すみっません。でも、もう、限界なっんで、す……」


「んー、でもさっき俺があんたを護るって言っちまったし?」


 頬から彼女の冷たい手が離れ、途端に頭が揺れた。

 撫で、られているのか、な。彼女に。


「それに、あんたはずっと頑張ってきたんだろ?今日まで、ずっと」


 彼女は私を慰めるつもりだろうか。今の話を聞いて、それでも生きろなんて、残酷な事を言うつもりだろうか。


 困惑する私をよそに、彼女は髪をすくように優しい手つきで頭に触れる。


「だったら、ここで諦めるのはもったいなくないか?」


「もったいないなんて、そんなことっない、です。も、辛い、からっ」


「でも、あんたは俺と会えた。あんたがここまで頑張って生きてきたから、俺はあんたを見つけられた。あんたがずっと不幸だったって言うなら、これから幸せになればいい」


「そ、んなのっムリ、です」


「無理じゃない。一人じゃ駄目なら、俺が手伝ってやる。さっきも言ったろ?俺があんたを護るって。今のあんたを放置したら勝手に死んじまいそうだし……あんたが生きたいって思えるように、あんたが幸せだって言えるように、俺が手伝ってやる」


 手伝うなんて、そんなこと、できるわけない。そんなこと分かっているのに。私も、周りも、みんな諦めているのに。


 どうして、“独りじゃない”っていうだけで、こんなに嬉しいのか。どうしてこうも容易く、誰かに救って欲しいと、生きたいと、普通に笑いたいと、捨てたはずの希望を抱いてしまうのか。


 ほら、顔あげろ……そう言って、彼女は再び私の目尻を親指で拭った。


 視界が晴れる。


 改めて交わる視線。私は今、どれだけ情けない顔をしているのだろう。彼女には、どう見えているのだろう。


 優しく微笑む彼女は、やっぱり綺麗だった。


「あーあ、酷い顔」


「なっ」


 本当に彼女は容赦がない。あれだけ大泣きした後なのだから、顔が酷いのはしかたないじゃないか。そもそも、美人さんと比べられてはどんな顔をしていてもまともに見えないだろうに。


「でも、いいんじゃないか」


 彼女が私の手をとる。びっくりするくらいに冷たいその手は、細くてスラッとしていて、未だに和傘を振り回していたとは信じられない。


 小指と小指が絡められる。


「これから、いい顔で笑えれば」


 その手から視線を上げれば、彼女はとても真剣な目をしていて。


「俺の名前はヴァルゴ」


 風が流れる。


「約束する」


 よく通る澄んだ声が、言葉を紡ぐ。


「俺が必ず、お前を幸せにしよう」



 彼女の誓いに呼応するかのように、時計台の鐘が、新しい一日の始まりを告げた。

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