月下にて 回想、邂逅
風が吹いた。流される様に、髪が、スカートが、揺れる。
もう春とはいえ、日が沈んで星が輝き始めると、昼間の暖かさは何処かへ行ってしまった。街が寝静まる頃になれば更に空気は冷え込んで、火照った頬に刺さる。散々走ってあがった息は、この場所に着いた時よりはだいぶ落ち着いた。
それでも、耳元で煩いくらいに脈打っているのは、身体が震えているのは、何故だろう。風が冷たいから?動揺しているから?それとも、怖いから?
(……駄目だ)
眼前に広がる黒い海を見つめて、キュッと唇を噛む。微かな震えを止めようと拳を握りしめたら、なんだか余計に震えが酷くなった気がした。
(こんなんじゃ、駄目)
そんな自分を叱咤するために拳を開いて頬を叩いた。風に熱を奪われた頬は思った以上に音を響かせ、おまけにヒリヒリと痛む。
それでも、その痛みのおかげか少しだけ頭の中が落ち着いた。深呼吸しながら、覚悟を決めてチラリと足元を見る。
遥か下、波打つように流れる川は、空高く昇った満月に照らされていなければ真っ黒なシルエットになっていただろう。流れに沿って所々でキラキラと月明かりを反射している。
それでも、川の大部分が暗闇と同化していることに変わりはない。そこはその先に広がる夜の海と同じ。神秘的でありながら、心の奥底をふるわせる程の恐怖を抱かせる。吸い込まれてしまいそうな、全てが呑み込まれてしまいそうな、そんな恐ろしさを。
この四ノ季市を西から東へ、南北を分けるように大きな川が流れている。そこに架かる一番長い橋、その胸の高さまである欄干を越えた先で、深く、息を吸った。澄んだ空気を、苦しくなるくらい胸いっぱいに詰め込む。
一歩、いや、爪先の数センチ先は、闇だ。橋脚にぶつかっては裂けていく川の音が、いつもより近くに聞こえる。
(覚悟なんて、とっくにできてるでしょう?)
足元の闇を見つめていたせいで、また震えだした身体に歯噛みする。甘えるな、いい加減にしろ、と心の中で繰り返す。ここまで来た、来てしまった。なら、もう後戻りなんてできない。
――自分は、死ぬべきだ。
それを今日、思い知ったじゃないか。大事な人が泣くのなら、苦しむのなら、そこに自分などいない方が良いのだと。
半歩、足を前へ。
後押しするような風が、今は少し恨めしく思う。人だけでなく、風が、世界までもが、私に消えろと言っているようで。
(どうして……)
ここにきて、また、答えのない問いが胸を締め付ける。
(どうして私なの?なんで私が……)
この問いが、自分を虚しくさせるだけだと知っていても、物心ついた時から続く悪癖は治らない。それは、この期に及んでも変わらないらしかった。
大切な人を苦しませて、自分まで傷ついて、どうしようもなくなったからここへ来たというのに――まだ、迷うのか。
命が一つ、散ろうとしていても、それを止める人はいない。嘆いてくれる人も、叱ってくれる人も、ここにはいない。
(私は、結局最期まで……)
胸が痛い。視界が、ぼやける。
「独り、なんだ……」
口から零れた一言が、酷くはっきり耳に響いた。寂しさに、思わず泣きそうになる。
「ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!」
「っ!?」
涙が零れる前に制服の袖で拭こうとした時、背後で男性のものと思われる悲鳴があがった。
反射的に振り返って、絶句する。
――巨大な、赤黒い、影。
月明かりに照らされた“ソレ”は、男性どころか人ですらなかった。
肉の塊。もっと詳しく言うなら、肉塊のバケモノ。それも、軽トラサイズの。
「ぁ、っ……」
月明かりすら反射しない真っ黒な目玉と、目が合う。合った気がした。
――死
その一文字が頭に浮かび、サッと血の気がひいた。全身に氷水でもかけられたかのように、頭から爪先まで一気に緊張が走る。身体が強張る。鳥肌が立つ。
(あぁ……)
惨めで、無様で、笑えるくらい情けないけど。こんな時になって、私はようやく自分の本心を口に出来た。
「死ぬのは、やだなぁ……」
コンクリートを抉って跳躍した体躯が、物凄い速度でこちらに迫る。
※ ※ ※
ありふれた夫婦の間に、平穏なとある夜に、何の問題もなく産まれた、ごく普通の女の子。夫婦喧嘩も虐待もない。近所付き合いも良好。そんな平凡な環境で育ったのが、茶倉美桜という少女だった。
自慢できるような特技はなく特別容姿が整っているというわけでもなかったが、学校が終われば外で友達と遊び、宿題も期日には提出する。友人と口喧嘩もするが、数日後にはまた一緒に笑い合っている。そういう子どもだ。
「みおちゃんの友だちってケガが多いわよね」
予兆はあった。有りすぎた。だからこそ、そんな彼女を“特別”たらしめることになった瞬間は、本当に唐突に、呆気なく訪れた。
急に告げられた言葉の意味が理解できず、美桜は「え?」と短く聞き返す。足元に向いていた視線を隣に並び立つ少女へと投げる。
「みおちゃんの友だちってケガが多いわよね」
美桜からの返しを聞き取れなかったと受け取ったおかっぱ頭の少女、ゆかりは、相変わらず目線を足元に落としたまま一字一句違わず同じ口調で繰り返した。
ゆかりの口振りは淡々としていて、まるで「今日は髪をおろしてるのね」とその日の髪型に一言触れた感想の様に軽い。
セリフの内容も、口調と等しくどうでもいいものであれば曖昧にでも相槌を打って流してしまえる。しかし、彼女の言葉には意図があり、それは簡単に聞き流せるものではない。
幼い美桜もそこは察していて、どういう意味かと問い直した。
「みおちゃんの友だち、となりのクラスの千秋ちゃん、だっけ?その子、今日またケガをして保健室にいったんでしょ?」
昨日は同じクラスのゆき君、とゆかりは平淡な口調でさらさらと言葉を並べる。もちろん、彼女に悪意はない。思った事を事実としてはっきり相手に伝えているだけだ。
「ち、違うよっ」
彼女の言葉の意味を理解して、美桜は驚いて首を横に振った。
「わたし、ケガなんてさせてない!千秋ちゃんは、六年生の人たちが遊んでたサッカーボールが頭に当たっちゃって……。ゆき君は一緒に遊んでたけど、鉄棒から落ちるところはわたしも見てなかったもん」
「そうだよ。それに、あたしは見てたけど、ゆき君が落ちたのは、逆上がりの途中で手がすべっちゃったからだし」
とんだ誤解だとゆかりの考えを否定する美桜に助太刀するように、美桜を挟んでゆかりの反対側にいた少女、さつきが意見する。身を乗り出してゆかりを見た彼女の首もとで小さなおさげが揺れた。
「でも、二人だけじゃない。他の子も。千秋ちゃんとさつきちゃんは特に」
「それは、たまたま――」
美桜とさつきの二人に反論されても、ゆかりはひかない。それどころか、さつきの言葉を遮って、おかっぱ少女は先程からずっと見つめていた足元を指差した。
「じゃあ、これは?」
“これ”と示されたモノを見て、口をつぐむ。三人の目の前、一歩先にあるのは、歩道に叩きつけられて散乱した植木鉢の残骸だった。
放課後、カラフルなランドセルを背に、授業から解放された児童たちが足取り軽く下校する中、美桜たち三人も他と同じく自宅に向かって街を歩いていた。
一緒に教室を出た美桜とさつきが、一人で正門を出ていくクラスメイトのゆかりに声を掛け、そのまま道が別れるまでとりとめもない会話が続く……そのはずだったのだ。目の前に植木鉢が一つ、落ちてくるまでは。
「これこそ、みおちゃんのせいじゃないでしょ?だってコレ、あーんな所から落ちてきたんだよ?」
あーんな、と身体を反らしてさつきが指を指すのは賃貸の細いビルの三階。歩道に面した全開の窓。そこには、落ちてきた物と同じ植木鉢が二つ、並べられている。
「そうだよ、ゆかりちゃん。さすがにこれはわたしのせいじゃ……って、そんなことより、普通に危なかったよね?普通にびっくりしたんだけど?」
ケガしなくて良かったね!
そう呑気に美桜は笑う。だが実際、これが彼女たちに当たっていれば、間違いなく大怪我を負っていたし、命に関わる事故になっていてもおかしくはなかった。
「ほんとだねー。でも、あのお部屋の人、降りて来ないね?気づいてないのかな?もしかして、留守?」
「ぶつかって落としたならすぐに来るだろうし。留守ならそもそも植木が勝手に落ちるなんてことはないんじゃないかしら」
さつきと同じように三階の窓辺を見上げていたゆかりは、そう言いながら視線を美桜へ移す。
「私、聞いたことがあるの。みおちゃんって……」
――“そういう体質”なんじゃない?
小さく首を傾げるゆかり。対する二人も首を傾げるが、頭にはハテナマークがくっついている。会話の流れが読めない。
「そういう体質って?」
キョトンとする美桜の問いに、ゆかりの表情が僅かに動いた。よくぞ聞いてくれたとばかりに、小さな口が弧を描く。
「悪いこととか危ないことを引き寄せてしまう体質のことよ」
「うーん、でも、ゆかりちゃん。わたしはあんまりケガとかしないよ?病気にもならないし」
「それを言うなら、千秋ちゃんとかあたしの方がいっぱいケガするもんねぇ」
どこか得意気なゆかりに、美桜とさつきはイマイチ納得いかず、腕を組んでうんうん唸っている。
「もしかして!あたしと千秋ってそういう体質なの?!」
あっと声をあげたさつきが、気づいてしまったとばかりに焦った顔をゆかりに向けた。が、それをゆかりは即座に否定する。
「ケガが多いのは、さつきちゃんと千秋ちゃんだけじゃないもの。だから、きっと、みおちゃんは、周りに悪いことを引き寄せる体質なんじゃないかって」
ゆかりが、答え合わせを求めるように美桜をまじまじと見つめる。そんな彼女の純粋な好奇心に、美桜は苦笑いして頬をかく。
「えぇ、わたしそんな体質やだなぁ」
「みおちゃんがほんとにそんな体質だったら困っちゃうもんね~」
そんな美桜に合わせて、さつきも眉をハの字に下げて笑う。
二人ともこの時はまだ、ちょっと変わっているゆかりが突飛な発想で面白いことを言っている、程度の認識でしかなかった。そんな体質など実際に存在するとは思えなかったし、超能力や魔法でも使わない限り自分の支配下にない物を他人に当てるなんて芸当ができるとは思えなかったからだ。
だが、「ゆかりの考えが正しいのではないか」そんな疑問が彼女たちの中に生まれるまでそう時間はかからなかった。
一度誰かが口にした仮説は、今までなら無関係だと思えていたモノ同士を勝手に結びつけてしまう。美桜の周りで誰かが怪我をすれば、その原因は美桜にあるのではないかと、今まで考えもしなかった関係性を想像させた。
さつきや美桜がその考えを口にすることはなかったが、毎日のように不運が訪れれば、さすがにゆかりの考えを笑い飛ばすこともできなくなった。一回でも意識させられてしまうと、ついそこばかり気にしてしまうものだ。
ゆかりの仮説が美桜に告げられた小学四年生の秋。それから一年、二年、と月日が経つにつれ、美桜本人を含めた子ども達の中で、仮説への疑問は段々と確信に変わっていった。
「あの子といると危ない」
そんな噂が広まる中で、逃げるように美桜の側から離れていく友人も少なくなかった。
「ごめんね、美桜……」
中学校に上がって一年と半分、ずっと一緒にいた千秋とさつきも、泣きそうな顔をしながら美桜に別れを告げた。さつきが、下校中に交通事故に遭ったのだ。
命こそ落とさなかったものの、右足を骨折した彼女はバレーの大会出場を断念せざるを得なかった。隣を歩いていながら傷一つなかった美桜に二人を引き留める気力があるはずもなく……。
「私なら大丈夫だよ。こっちこそ、ごめんね……」
――ありがとう。
そうやって笑うことしか、できなかった。
「お願いお姉ちゃん、算数教えてっ」
そんな彼女の唯一の味方は、両親と妹だった。
夏休みも残すところあと一週間という時になって、慌てて美桜に助っ人を求めたのは三つ歳の離れた妹の舞だ。両手を合わせて頭を下げる妹に、美桜は笑いながら頷き返す。
親が共働きである茶倉家では、幼い頃から舞の世話は美桜が担当することが多かった。それもあってか、姉妹の仲は端から見ても良い。
美桜の他不幸体質の存在を周囲より遅れて気づいた茶倉一家だったが、それで彼女への態度が悪くなることはなかった。家の中ではそれほど問題がなく、外出先でも気をつけてさえいれば大事は避けられたからだ。
学校に行っても友人と一緒にいられない寂しさや孤独感。自分はどうしてこんな体質なのかという疑問と不安。もしも誰かに取り返しのつかない不幸を招いてしまったらという恐怖。そんな重い感情に押し潰されて泣くことも少なくなかった。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん!あたしも、パパもママも、お姉ちゃんの味方だからね!何かあっても、あたしがお姉ちゃんを守ってあげる!」
夜な夜な母親に泣きつく美桜に、舞がファイティングポーズをとって笑う。
「そうだね、舞ももう一人で夜中にトイレ行けるようになったもんね」
「なっ、そんなの、小学校に上がる時にとっっっくに克服してますー」
涙を拭いて美桜が茶化せば、舞は顔を真っ赤にして反論した。慰めているのは自分なのに、と不満げに頬を膨らませる。それを見て、また美桜と母親が笑う。
そんな日々。温かな日常。癒しの一時。それが美桜の救いで、茶倉家の在り方で、決して幸せなことばかりではない毎日の中で、約束されていた温もり。
――そのはずだった。
美桜が高校、舞が中学にそれぞれ進学して半年経った秋のある日。
「疫病神はお姉ちゃんなのに!」
真夜中。舞の悲痛な叫びが、温かかったはずの茶倉家に響いた。いつも明るく快活な彼女が、楽しそうに学校や部活でのことを話していた彼女が、涙を溢して苦しみを吐露する。
「お母さん達は、知ってたの?」
舞が部屋に籠ってしまった後で、彼女の嘆きを立ち聞きしてしまった美桜は、堪らず両親に問い詰めた。そんな娘に悲しげな顔をする母親に代わり、渋々父親が口を開く。
舞が美桜の妹だと中学校の同級生たちにバレてしまったこと。夏休みが明けてからずっとその事でからかわれていたこと。それがエスカレートして、上履きを隠されたり教科書に落書きをされたりといった虐めが始まったらしいこと。
「そんな……だって舞、そんなこと一度も」
一度も、言ってなかったのに。
そう呟いて、唇を噛む。気づかなかったなんて、言い訳にならない。少なくとも、両親は知っていたのだ。それに、いつも同じ屋根の下で生活していたというのに、妹が苦しんでいることを全く察してやれなかった。そのことが、美桜は悔しかった。頼ってもらえなかったことも、自分は励まされるだけ励まされて、妹を励ましてやれないことも。
美桜と舞が通っているのは、中高一貫の学校だ。舞が美桜が通っていたのと同じ中学へ進学すると決まってから、暗黙の了解で、二人は別々に登校していた。二人の関係性を隠すため、というよりは、美桜と一緒にいると舞に何か不幸を引き寄せる恐れがあるからというのが理由だった。
「舞、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「お姉ちゃんもね。じゃ、行ってきまーす!」
いつも通り、明るく手を振って玄関を出ていく舞。その表情には、虐められている気配は微塵もない。
そんな彼女を同じくいつも通り見送りながら、美桜は心中複雑だった。
両親からは、舞の虐めについて知らない振りをしていて欲しいと何故か頼まれたからだ。美桜としては、舞の相談に乗ってやりたい気持ちもあったが、自分にだけ秘密にしている虐めについて、妹に慰めの言葉をかけることはできない。
舞には他不幸体質など全くないのに、何故こんなことになってしまったのか。美桜は自分の分のお弁当を作りながら溜め息をこぼした。
冬がきて、年を越し、雪が降り、また暖かくなり始めたある日。あと数日で春休み、という学生たちが浮かれ始める時期に、事件は起きた。
――舞が玄武山で首を吊った。
父親からその電話を受けた美桜は、学校を早退して妹の運ばれた病院に走った。
奇跡的に首を吊った木の枝が折れ、一命はとりとめたという。が、落ちた時に頭を打ったのか意識は戻っていなかった。
真っ白なベッドに横たわる妹の姿に、美桜は顔を歪めた。頭の中では、彼女が首を吊る前に掛けてきたであろう電話の声がぐるぐると行き場を失い暴れている。
『お姉ちゃんなんか、大っ嫌い』
強く噛み締めた唇が切れて、血の味が口の中へと広がる。動揺のせいか、握り締めた手のひらに刺さる爪の痛みさえ感じない。
僅かに震えながら無言で立ち尽くす娘の背中に、母も父も何と言葉を掛けてやれば良いのか分からなかった。二人もまた、娘の自殺行為に動転していたのだ。
「舞、ごめんね……」
ごめん。ごめんなさい。
そう、何度も美桜は謝った。毎日見舞いに来ては、眠る妹に頭を下げる。
泣いてはいけないと、そう思っていた。泣きたいのは舞であって自分ではないのだ、と。だから、美桜が涙を流すことはなかった。放課後も、春休みに入ってからも、仕事を終えた両親が見舞いに来るまで、美桜は妹の傍らに寄り添った。
春休みの課題を一つ片付け、美桜はいつものように病院へ向かう。舞が入院して二週間。もう通い慣れてしまった道のりは、所々で花が咲き始め、春の様相に変わってきている。
街の中は暖かで、道行く人々の表情も明るい。ボールを持って駆けていく小学生たちに追い越され、楽しげに笑う若いカップルとすれ違う。
「舞……早く起きないと、春休み終わっちゃうよ」
蕾をつけた桜の木を見上げながら、寂しげに眉を下げる。
新しくできたパン屋へ行ってみよう。夏にはリニューアルした水族館へ。そんなやりとりをしていた時期もあったのに……。
(あー、ダメダメ。こんな顔でお見舞いになんて行けない)
沈みかけた気持ちを振り払うようにブンブン頭を振って、深呼吸する。舞を支える側の自分が暗くなっては駄目だと気合いを入れて。
気を取り直して病院に向かい、そっと病室の扉を開く。
「お姉ちゃんなんか、大っ嫌い」
病室に入った美桜に投げ掛けられた第一声はそれだった。以前電話越しで聞いた言葉が直接投げつけられる。
「っ、ぁ……」
目が覚めたのか、痛むところはないか、お腹は空いてないか。舞の意識が戻ったら掛けようと思っていたセリフは、美桜の喉につかえて出てこない。
「……………………………………ごめんね」
やっと出てきたのは、謝罪の言葉。その一言すら、口から出てすぐ消えてしまいそうなほど弱々しく、酷く掠れていた。
「………………」
舞は応えない。美桜を見ることさえしない。むしろ拒絶するように顔を背け、窓の向こうでのびのびと漂う白い雲を睨み付けた。
「……本当に、ごめんなさい」
最後にもう一度声を絞り出して、美桜は病室を飛び出した。これ以上、そこに居ない方がいいと思ったのだ。
無言の背中が微かに震えているのを見て、音もなく涙を流しているのだと気づいて。これ以上、あそこに居てはいけないと理解してしまった。
足早に病院を出て、駆け出す。
何処でも良い、何処でも良いから、あそこから一秒でも早く遠ざかりたい。
その一心で、美桜は街を、公園を、商店街を走り抜けた。ドクドクと脈打つ心臓を無視して、ただひたすら手足を動かす。
――お姉ちゃんなんか、大っ嫌い。
(知ってるよ)
――疫病神はお姉ちゃんなのに!
(そうだね。……そうだったのにね)
――大っ嫌い。
(ごめんね)
家に帰ることもできず、自分の胸を締め付ける何かから逃れるように夢中で走り続けた。
※ ※ ※
そうして辿り着いた橋の上で、目から零れた涙が静かに頬を伝う。
満月が昇る薄明かるい空から迫るバケモノが、鋭い爪を振り下ろした。
『あたしがお姉ちゃんを守ってあげる!』
現実から逃げるように目を閉じれば、懐かしい笑顔が目蓋の裏に浮かんだ。
「ちょーっと、失礼」
鈴を鳴らす様な涼やかな声の直後、何かが砕ける硬い音が轟いた。