見えざるモノの消失
少し肌寒さの残る昼下がり。四方を山と海に囲まれた閉鎖的な土地にあるここ四ノ季市も、大雪で交通網が麻痺した事件から一月も経つと、日陰に身を潜めていた小さな積雪も姿を消し、すっかり寂しくなっていた街路樹の枝にも小ぶりな蕾がつき始めた。まだまだ冬は続いているが、少しずつ春の色も街の中に垣間見えるようになってきている。
それでも、街を行く人はみな速足で、早く暖房の効いた暖かな室内へ入ろうと先を急ぐ。市の西側にある人口の集まりがちなビル群の中、大通りに面したカフェのテラス席が無人なのもこの時期では普通のこと。
そんな西側から東へ、ゆったりと流れる広くて大きな河が市の中央にある。柔らかな日差しが満遍なく降り注ぐその河川敷を愛犬と散歩する高齢の男性は、ニット帽とマフラーでまだ冷たく鋭い風から身を守っている。
その河の近くの商店街でティッシュを配るアルバイトの若者も、数少ない通行人に声をかけ、ティッシュを渡し、かじかむ指先を擦り合わせてはほんのり赤くなった鼻をすすっている。
街はのんびりとした静けさに包まれているが、市内に点在する教育の場はまた別だ。昼休みにはボールを追って校庭を駆け回る子どもたちの賑やかな笑い声が溢れ、放課後になれば部活動に励む力強い掛け声や笛の音が響く。
今日も、どこかの小学校では午後の授業が始まると、袖や裾の短い体操服に身を包んだ児童たちがぞろぞろと校庭に姿を現した。ひんやりとした空気に身を震わせ、寒いと騒いだり体育館でやろうと言い出したり、いつも通りの、何の変哲もない光景が繰り広げられる。
「ねえ、聞いた?今度来るっていう新任の先生の話」
「ああ、確か――」
その小学校の裏手にある小さな公園にも、幼稚園帰りの二組の親子の姿があった。新しくくる先生の話、共通の知り合いのママ友の話、お薦めの喫茶店の話など、噂話からただの世間話まで、止まることなくお喋りを続ける母親たち。
「ブランコあきた。すべりだいやろー」
「うん、いいよ」
その傍らで勢いよくブランコを漕いでいた子どもたちは、砂ぼこりをあげながら揺れを力ずくで止める。その際に脱げた小さな靴を履き直すと、競う様に奥の滑り台へと駆け出した。所々ペンキが剥げて錆びついた滑り台の梯子を登っていく。象を模したその遊具は、長い鼻を滑っていくとその先がクッション代わりの小さな砂場になっている。先に登った男の子を脇へ押しやり、女の子が一気に滑り出す。
底には幾つものローラーが連なり、ガラガラと喧しい音を立てながら、女の子は勢いよく砂場へと飛び出した。
『っ、あっぶね!!』
女の子が着地した場所へ、重なる様に一つの影が躍り出る。
一秒の、間。
「ひろくんも、はやくおいでよ!」
派手に砂場へ飛び込んだ女の子は、後方を振り返って何事もなかったかの様ににっこりと笑った。自分と擦れ違った影には一瞥もくれず、滑り台の上で立ち往生している男の子へと手を振ってみせる。
「さっちゃんがそこにいたらぶつかっちゃうじゃん……」
同様に、上から彼女を困った顔で見つめる男の子も、彼女と擦れ違った存在を気にする様子はない。
『はっ、はぁ……くそったれ』
突然視界に現れた女の子に対して止まりかかっていた足を前に出し、その影は短く言葉を吐き捨ててそのまま公園の奥、深い山の中へと潜っていった。
――時を遡ること一時間前。
市の中央にそびえ立つ、巨大な時計塔。街のどこからでも目にすることができるレンガ造りの洋風なそれは、ここ四ノ季市のシンボルだ。この時計塔が十二時間おきに鐘を鳴らし時間を知らせるというのはここに住む者にとっては常識で、二時間前にも正午を伝える鐘の音が市内に響き渡っていた。暖かくなれば、正面の広場も散歩や食事、運動にくる人々で賑わってくる。
「あーもー!サイ、アク、だっ」
そんな市の象徴に向かって伸びる一本の橋。その手前で不満と苛立ちを吐き出した一人の少年は、その先へ渡るか否か二秒ほど悩み……九十度くるりと身体を翻した。その視線の先は、建物の多い住宅街。少年は一度大きく深呼吸すると、表情を引き締めて駆け出した。
耳を隠す程度の艶やかな黒髪が踊り、彼の耳元で風がうなる。対照的に色白な肌の上を、真夏の炎天下で長時間運動したかのように止めどなく汗が流れていく。衣服もびっしょりと濡れ、色が濃く変わっている。
額を伝う汗を乱雑に拭いながら、ゼーゼーと荒れる呼吸を無視して走り続ける。ほんのり赤らんだ頬、アスファルトを蹴る度ふらつく両足、空気をもかき分ける様に振り回される腕、そのどれもが、少年が決して短くない時間走り続けていたということを物語っている。
それでも、少年は足を止めない。否、止めることができないのだ。
「きゃあああああああああああああああああ」
絶叫。穏やかで平凡な街並みにはおおよそ似つかわしくないそれは、少年の後方で響き渡った。その声に、少年の身体がビクリと揺れる。
「っ、くそ!」
誰もいないバス停を通り過ぎ、少年は手近にあった一軒の民家の敷地に飛び込んだ。綺麗に手入れされた植木など気にしている暇はない。玄関まで点々と伸びる飛び石を無視して真っ直ぐ突き進み、半ばぶつかりながら思い切りドアを叩いた。
「おい!誰か!誰かいないか!!」
助けてくれ!と、少年は叫ぶ。声をあげる度に喉が裂けそうなほど痛み、精悍な顔が歪む。躊躇いなくドアに叩きつけている拳もジンジンと痺れ赤くなっていく。
――しかし、無反応。
家の中から誰かが応じる気配もなければ、隣人が顔を出してくることもない。
舌打ちして、少年は敷地外へ引き返した。危険は着々と彼に迫っている。この場に留まり続けるのはリスクが高いうえに、助けが来る見込みも薄い。ならば次へ、と少年はまた重い足を引きずりながら走り出した。
二軒、三軒、ブロックが変わる毎に民家のドアを叩いては助けを求めて声を振り絞った。しかし、結果は最初の家と同じ。人が出てくることは、一度もなかった。
試しに何度か道の真ん中で叫んでみたりもした。もちろん、何事かと駆けつけて来る者はなかったが。
「……いってぇ」
鼻を擦りながら、鈍い痛みに小さくうめき声を漏らす。少年が民家の次に助けを求めたのは、二階建てのスーパーだった。
さすがにこんなに大きな建物にならば誰かしらいるに違いないと踏んだ彼は、店内に入るためガラス張りのドアに向かい……顔から衝突した。押せば開くのだろうと考え、勢いそのままにドアへ体重をかけたのだ。しかしドアは一ミリたりとも動かず、彼は思いっきり鼻を打ち付ける羽目に。
「……」
気を取り直して、今度は引いてみた。
「は?」
だが、開かない。店内に明かりはついているのだから、普通であればそのまま中に入れるはずだ。だが、彼がいくら押しても、引いても、挙句蹴り飛ばそうとも、鍵が掛かっているのかビクともしなかった。ここでも、異変に気付いた店員がドアを開けに来るなんてことは起こらない。
「……意味、分かんねえ」
ガラス戸を蹴った反動で新たな痛みを訴える足を撫でる少年。そこへ――
「きゃあああああああああああああああああああああああああ」
耳を劈く悲鳴。何度聞いても聞き慣れない、身体の芯から恐怖をもたらす咆哮。
「っ!ったく、早ぇっつの!!」
眉を寄せ口元を歪める少年は、喉が痛むのも構わず短く吐き捨てた。追われるならば、逃げるしかないと、再び前へ。ただ、長時間の逃走は、彼の肉体だけでなく精神までもを確実に蝕んでいた。
彼を苦しめているのは、なにも疲労だけではない。体中の痛みや熱はもちろん、逃げることしかできない無力さにも、自分が置かれている奇怪な状況にも、それを理解する時間さえ与えられない理不尽にも。
怒りや不安、恐怖、焦燥、幾つもの感情が彼の中でせめぎ合い溢れ出ようとし、それでも吐き出す場所もぶつける相手もない。その現状が、彼の気力を奪っていく。
いや、相手はいる。が、それができるかどうかは別なのだ。
「きゃあああああああ」
もう一度、あがる悲鳴。女性の断末魔の叫びにも似たそれは、先ほどとそう変わらない距離から響いた。正確には、逃げ続ける少年に届く悲鳴の発信源との距離が、ほとんど変わっていない。
(一体、どうしろっていうんだよ……!)
その意味を理解した少年が拳を握りしめた。自身の細い顎から垂れる汗が、アスファルトの上で黒いシミに変わる様など気にしている余裕はない。視界の隅を流れていく両脇に並ぶ民家を無視して、舗装された真っ直ぐな道を突き進む。
そんな彼の二ブロック程後ろを進む大きな“赤黒い影”。ズルズルとその身を引き摺りながら、少年と一定の距離を保って追走する。辺りに漂う腐敗臭を、道に滴る赤黒い体液を、そしてその原因である異形を、気にかける者は現れない。その異変に、誰も気付かない。
(どこに行けばいい、誰に頼れば……)
息苦しさに咳き込み、バランスを崩してふらつく足。咄嗟に傍のブロック塀に手をついて身体を支える。
(止まったら、駄目だ……進まないと)
追いつかれる。
少年はそう自分に言い聞かせ、限界を訴える身体に鞭打って足を踏み出した。色鮮やかに小ぶりな花を咲かせるプランターが並んだ家の前を通り過ぎ、その塀沿いに右へ曲がる。
「あっ」
疲労の色に染まっていた少年の目に僅かに光が宿った。
角を曲がった先は今までと同じような歩道と車道の境のない細い道で、しかし、そこには二人の女性の後ろ姿があった。明るい髪を肩の上で跳ねさせている女が、その隣のボブ頭に自身のスマートフォンを見せるように画面を傾ける。噂話に花を咲かせている二人はそのまま少年を振り返ることなく歩いていく。
「お、おいっ」
相手は女性だが、巻き込むのは危険だと想いやれるほどの精神的余裕のない少年は、熱と痺れで感覚が麻痺しつつある足を無理に動かして再び駆け出した。助けを求めようと、道の中央を歩くボブ頭の肩に重くなった腕を伸ばす。
「あ、悪魔が、悪魔が出――」
出たんだ、と。そう告げようとした少年の声が止まる。大きく見開かれる碧色の瞳。その先。
――彼の手が、女の肩をすり抜けた。
「な、んで……」
まるでそこに何もなかったかの様に、幻だとでもいうかの様に、彼の手はその女性の体温すら感じることなく空を彷徨った。
勢いを殺せなかった少年は、そのまま無様にアスファルトの上へ倒れ込む。その瞬間でさえ彼の身体は女性をすり抜けて、一切の感覚も捉えはしなかった。
「いっ、つ……」
擦りむいた手のひらが、打ち付けた膝が、痛む。追い打ちをかけるように、そんな彼の手の甲を、容赦なく青いヒールが踏みつける。
「………………」
アスファルトの冷たさは分かるのに、傷ついた身体の痛みは感じるのに、音もなくすり抜けるヒールの硬さを、踏まれる痛みを、彼が知ることはなかった。
少年が呻く。歯を食いしばって、額を地面に押し付ける。虚しさが、悔しさが、悲しみが、彼の胸の中で暴れ回る。やり場のない感情で、彼の視界がぼやける。
「くそ、っ」
息が、詰まる。
「くそ、くそ、くそくそくそぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!」
地面を、叩く。
「なんで、なんでだよ!!」
何度も、何度も。
「なんで誰も助けてくれない!なんで誰も気づいてくれないんだよ!!」
拳が、震える。
「俺はちゃんと……」
血が、滲む。
「ちゃんとここにいるのに!!!」
――涙が、落ちる。
なぜ、自分はここにいるのか。
なぜ、自分は追われているのか。
なぜ、“アレ”がここにいるのか。
なぜ、誰も自分を助けてはくれないのか。
なぜ、自分は誰にも救いを求められないのか。
見知らぬ場所で目覚めてからずっと、考えてきた疑問。尋ねることができずにいる疑問。それらが、負の感情と混ざり合って、今まで抗い続けていた少年の心を折ろうとする。
(いっそ、逃げるのを諦めようか……)
うずくまりながら、少年は考える。目を、閉じる。
(誰も俺を見ないなら、誰も俺を知らないなら……頑張ることに、意味はあるのか)
耳元で騒ぐ脈は、静まらない。地に押し付けた拳は、震えたまま。
(今ここで俺が死んでも、誰一人気づきはしないのに)
それでも――
「きゃあああああああああああ」
「っ!……くそっ、たれ」
――それでも、立ち上がるのは、本能だ。《《死への恐怖》》には、抗えない。
だからこそ、少年は立ち上がる。涙を拭う。一歩でも遠ざかろうと、身体を前へと進める。どこに行く宛てがなくとも、ただ自身を侵す脅威から遠ざかるために。
恐怖を煽るその悲鳴にすら反応を示さない二人の後ろ姿に、唇を噛む。現実の無情さに打ちのめされ、少年は全てを拒絶するように顔を上げることなく二人を追い越した。
「はあ、は、っ」
住宅街を抜けた先にある小さな公園の更に奥、常緑樹が密集する人気のない山道を、少年は駆ける。
あれから二時間も住宅街の中を逃げ回って助かる術を探していた少年は、年齢も性別も、人であるかどうかさえ関係なく、誰も自分を認識できないのだということを嫌というほど思い知らされた。交番の前で老婦人に道を教える中年の警察官も、公園で遊ぶ子ども達も、屋根に寝転ぶ猫ですら、一切反応を示さなかったのだ。
最初は人気のない山よりは助けてもらえる可能性の高い街の中へと考えていた少年も、自分を認知できる相手がいないならばいっそ視界の悪い山中の方がマシだと、助けは呼ばず無言で山道を登っていた。
山道と言っても、獣道に近いそこにはほとんど定まった行先などない。木々は乱立し、所々に岩が転がり、苔むした倒木にも幾度となく行く手を阻まれた。何度も足を滑らせてはバランスを崩して木々にぶつかった。木の根に足を取られて転んだことも一度や二度ではない。服は土で汚れ、白く綺麗だった腕や顔には擦りむいた跡が赤く残っている。
体中汗と土に塗れて、あちこち傷だらけ。少年の呼吸の乱れも、坂道を登って更に酷くなっている。加速度的に疲労が大きくなっているのは明らかで、もはや走ることもできていないが、それでも後方の異形に追いつかれることを想像しては身震いし、足を進めた。
今まで通りもう一歩、と重い足を持ち上げ――少年は、地表に張り出していた木の根にそれを引っかけた。
「う、ぐ、ぁ」
踏ん張ろうにも、体力の限界を超えていた少年の身体はあっけなく目の前の茂みに突っ込んだ。そのままの勢いで、その向こう側へと転がっていく。
静かに、風が少年の頬を撫でた。
「……こ、ここって」
天地がひっくり返った視界を戻すため、ゴロンと身体を横に転がす少年。
円を描く様に木々が開け、同時に視界も広がる。空は日が傾いたためにオレンジがかり、ゆったりと流れる雲は金色に輝いている。遠くからは烏の声が聞こえ、背の低い草原のあちこちで虫が鳴く。
その中央にある円い池は底が見えないほど深く、透き通っていた。
「ハッ、ま、じ……最っ悪、だな」
(結局俺は、またここに戻って来たのかよ)
そう、ここは少年が目覚めた場所。最初の、出発地点。
這うように身体を引きずって、少年はその池に向かう。池の縁から熱を持った腕を沈める動作に、躊躇いはない。ふぅー、と深く長い溜め息が漏れた。
身体を苦しめる熱が水の中へ溶けていくのにつられ、少年の表情が和らぐ。まだ疲労の色は濃い。それでも、乱れる息を落ち着けるため、彼は目を閉じながら深呼吸を繰り返していた。
呼吸が幾分か落ち着くのを待ってから、ぎこちない動作で水を口元へ運ぶ。少年は服が濡れるのも構わず、せっせと枯れた喉を潤した。水の冷たさが熱をもった身体へしみ渡っていく感覚に、少年の顔が綻ぶ。
身体が少しずつ回復していくにつれて、折れかけていた心が癒されていく。
(そうだ。まだ、まだ大丈夫。俺なら、まだ、進んでいける)
風が吹いた。
草が波打ち、水面がざわめき、虫は合唱をやめる。
空はゆっくりと暗さを増していき、雲も黒いシルエットに変わっていく。
――その時、音が消えた。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああ」
「なっ」
心地よさから軽い眠気を覚えていた少年の意識が一瞬で覚醒した。弾かれる様に飛び起きる。
素早く後方へ向き直り、硬直。
「あ……ああ……」
少年の顔から血の気が引いていく。身体が震え出す。立ち直りかけていた気力が、意志が、揺らぐ。
「・・・・・・」
数時間にも及ぶ逃走の決着。絶望的な結果。彼を追っていた異形が、その空間に悠然と姿を現したのだ。赤黒い影が、少年を見つめる。
皮を失い剥き出しとなった肉は爛れ、黒い体液がねっとりと滴る。大の大人が両腕を広げても抱えきれない程太く長い胴、二又に分かれた青紫色の舌、口から覗く鋭い牙、目玉が有るべき場所に埋まる漆黒の塊――巨大な蛇と形容しても足りないほど悍ましいその怪物は、静かに、少年を見る。
――逃げろ。
ハッとして、少年は怪物に背を向けた。一秒でも早く、一歩でも遠くに、その一心で。
しかし――
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
「っ!?」
怪物もそう簡単に追い詰めた獲物を逃がしはしない。今までの悲鳴の様な咆哮とは一変、低くか細い声を発した。その瞬間、それを聞いた少年の身体が、ピタリと止まる。その場に縫い付けられたかのように、踏み出した足は動かない。
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ、うぅぅぅぅぅぅ」
もう一度、怪物が鳴く。その声は地を這い、鎖の如く少年の身体と意思に絡みつき、縛り付ける。恐怖心を煽るものではない。むしろ、なだめる様に、愛でる様に、少年の身体を這い回る。
「……ぁ」
鳴き続ける怪物の声に、少年の中の不安や恐怖が薄らいでいく。ゆらり、彼の身体が動いた。ふらふらと、己を狙う怪物へと向き直る。
「うぅぅぅぅぅぅ」
「っあ、ぁ……ぅ」
呆然として、少年は動かない。蛇の怪物と向き合い、ただ立ち尽くす。しかし、彼の様子は先ほどまでと違う。その目は虚ろで、表情はない。恐怖も不安も焦りも怒りも、彼の中から薄れ消え失せ、それを埋めるように彼を満たし始めた対極の感情。
「……あぁ」
一歩、また一歩と、少年が足を前へ踏み出す。よろよろと力ない足取りはとても頼りない。まるで花に誘われる蝶の様に、彼は怪物との距離を自ら縮めていく。
「うぅぅぅぅぅぅぅ」
怪物が大きな頭を少年へと近づける。少年も更に前へ詰める。腕を、伸ばす。彼の表情が、緩む。
蛇の口が開く。
「 サ ヨ ウ ナ ラ 」
――最期に少年が浮かべた表情は、穏やかな笑みだった。




