wind
その店を見つけたのは、七月下旬、夏休みが始まったばかりの蒸し暑い日だった。
夏休みであろうとなかろうと時間に余裕のある僕は、その日の昼下がり、何の気まぐれか隣町を見物するようにゆっくりと歩いていた。
日差しが強い。それは何かのゲームに出てきたはずの舞台効果などではなく、じりじりと僕に降り注いでくる。そこまで暑くはないが、やはり視覚的に辛いものがある。一刻も早く日陰に入って目を休ませたかった。一応中学に入って三年目だというのになかなか縮んでくれない学ランの裾を手で握りしめ、僕はやや急ぎ足で日陰を探しにかかった。
案外簡単に見つかった。数十m先にあった森林公園である。「幸輪堂森林公園」というその名前は、頭の中で「知って……るかも知れないけど聞き間違えただけかもしれない」位の位置に存在していた。要するに、全くと言っていいほど何も知らない。
だが、そんなことはどうでもいい。返却された宿題の後始末と同じくらいどうでもいい。僕は一刻も早く日陰に飛び込みたいのだ。
公園の敷地に入ると、目がチカチカした。いきなり暗いところに移動して、目が慣れていないからだろう。
そんな僕の頬を、一陣の風が撫でていった。気持ちが良い。最後にそう感じたのはいつだったか、記憶を遡って思い出そうとしたが、あまりに前過ぎて結局思い出せなかった。
ここでお弁当なんかを食べたらさぞかし楽しいだろうなと思いながら、特に当てもなく公園内を歩き回ってみた。途中、噴水の脇のベンチで若いカップルがイチャイチャしているのを目撃した時はさすがになんだか居たたまれなくなって逃げたけれど。
そんなこんなで数分この広大な森林公園を歩き回って気づいたことが二つある。一つ目は、この公園に「幸輪堂無人販売」なる木箱が置いてあること。「無人販売」と言うだけあり、箱の上部に「ここに三十円を入れて御品物を御取り下さい」と書かれていて、箱の下部から飴やガムなどをセルフで取っていくという、良く言えば客の良心を信じる温かい商売、悪く言えばあまり販売者にメリットのない商売だった。
これだけでも既に絶滅危惧種に認定されそうなシチュエーションなのだが、本題はもう一つの発見だ。
その「幸輪堂無人販売」、それぞれ十五m位の間隔で何個も何個も設置されているのである。オイオイ幸輪堂さん、そりゃないぜ。絶滅どころかそんなシチュエーション、日本中どこ探したって絶対にない。
でも、こういうのをサブリミナル効果っていうんだろうか。何度も何度も類似した木箱を見かける度に「一回、やってみようかな」という衝動に駆られる。そして、その度になけなしの自制心を動員して「いや、いやいやいや、止めとけ」と自制する。別に、お金に困っているわけではない。何となく買ったら負けなような気がしたのだ。ニートと同じだ。働いたら負け。
でも、そんな僕の意思に反し、もう大分見飽きてきている箱からは「買って、買って」という幻聴が聞こえてくる始末だ。どうした、僕は具合でも悪いのか。いや、例え悪かったとしても間違いなく悪いところは頭だろう。ガッデム。
さて、脳内で自制心と欲求が対決すること約三十秒。審判は欲求にジャッジをあげた。迷わず財布から三十円を取りだし、入り口から差し込む。
すると小銭達は一旦箱の中にコトン、と落ちて、コロコロコロ……と移動していった。
いや待て、「移動」って何処にだ。箱にコトンで終わりじゃないのか。
品物を取るのも忘れてもう一度財布を開き、今度は十円玉を一枚だけ入れてみる。するとまたコトン、と落ちて、コロコロコロ……。
ん、ちょっと待て。今箱の外からコロコロ聞こえなかったか?まさか、ここからタイムスリップできるとかそういう感じの箱なのかこれ。途端にときめいたが、周囲の草木を掻き分けてみて納得。
箱の左右に鉄製の管のようなものが微妙に角度をつけて取り付けてあり、小銭は傾きのついた左側の管に転がっていたのだ。右側から来ている管は、恐らくもう十五m程前にある箱から来ている管だろう。ってことは子の管も次の箱に繋がっている可能性が高い。ピタゴラスイッチかおい。
ん、待てよ。さっきから二回くらい待ってるけどもう一回待てよ。もしかして、もしかすると。
――この管、繋がっていて最終的にひとつの場所に集まってるとか?
「天才だぁぁぁ!」
思わず自画自賛してしまった。周りに誰もいなかったのが唯一の救いだろう。ちょっと恥ずかしいけど、まあいい。それはこれから実証してみるんだから。
財布を取り出し、十円玉がなくなってしまったので今度は五円玉を出して箱に投入する。
それと同時にあまり物音を立てないよう、管の音に耳を澄ませつつ、小走りでそれを追った。
こんなわくわくする気持ちはいつ以来だろう。思い返そうとしたが、やっぱりよく思い出せなかった。
随分と遠くまで来た。小銭の音はまだ止まらない。そろそろ足もつかれたきた頃、いきなり小銭の音が止んだ。
なんだかよく分からないが、ここが小銭の終着点らしい。ここまで来たんだから確認ぐらいして帰ろう。管を辿る様にして茂みの中を進んでいくと、
一軒の店が姿を現した。古びた看板に黒で書かれている文字は「幸輪堂」。そうか、これが例の「幸輪堂」なのか。
そのとき、再び一陣の風が僕の側を通り過ぎた。せも、今度はさっきのような風ではなく、竜巻でも起こるんじゃないかというような強い風だった。思わず身構え、両目を瞑る。
なぜか一瞬、今の風で「幸輪堂」が消えてなくなっているかもしれない、という思いに駆られてすぐに目を開いたけれど、所々汚れや錆の目立つ「幸輪堂」の看板と店は、依然としてそこにあった。
それにしても、ここは一体どういう店なのだろうか。見たところ、駄菓子屋か甘味処に近い木造平屋だ。広い入口を外に出た脇にガシャポンが設置されていたので、多分駄菓子屋で当たりだろう。中からは楽しそうな話し声が聞こえてくる。こんな誰も気づかなさそうな森林公園の奥に客が来るんだと、僕は素直に驚いた。
なんとなく入るに入れなくて、僕は入り口の側の草陰で立ちすくんでいた。
だって、話してるところに入り込むとか気まずいじゃあないか。ムリムリムリ、絶対ムリ。
そもそも、ここに来て一体どうするつもりだったのだろう。小銭なんかを追いかけてどこまで来てるんだ僕は。自分の無鉄砲さに少し苛々した。その場でずるっとしゃがみ込んで、一つ大きな溜息をつく。が、前に溜息をつくと幸せが逃げると聞いたことがあったので、もう一度すぉぉ、と吸い込む。何がしたい。もう一度問う、何がしたい。
「……どうしたの?」
そう誰かに声を掛けられたのは、三回目の溜息を吸い込んだ時のことだった。
「ぇはっ……はい!?」
弾かれた様に立ち上がった。
誰かが来るなんて全く考えていなかったので、驚いてのことだ。
「具合でも悪いの?」
声のする方を向くと、そこには一人のおばさんが立っていた。腰にエプロンを巻いているところから見ると、どうやら「幸輪堂」の店員さんらしい。
「あ、いいえ、なんでもないんです」
「本当に?顔色悪いよ」
それは元からだ。何故か僕の肌は何をどう頑張っても焼けないようにできている。きっと傍から見れば病人のような顔色に見えることであろう。
「本当に大丈夫ですから、それじゃっ」
会釈してその場を離れようとするが、何故か一歩前へ踏み出したはずである右足は空を切った。その代わりに、両肩がぐいっと後ろに引き寄せられる。
「う、うわっ、何をっ」
「何をっ、じゃなくて。どう、具合がどうとかはもういいから、せっかくここまで来てくれたんだし、ちょっとうちに寄っていきなよ。ほら」
「え、でも」
「ね?」
結局、店員さんの笑顔の圧力に耐えられずに、僕は「幸輪堂」へと連行されることに決定してしまった。くそぅ、さっき走ってきたときのわくわく返せ。
店内では、小学生位の子供達が三人、仲良くならんでアイスクリームを食べていた。ちなみに、男女比は二対一。
「はいはい、いらっしゃい」と僕の背中を店の中まで押して、店員さんは店内のベンチに腰を下ろした。どうやら店員は彼女一人だけのようだ。
「ささ、好きなもの選んでね」
ややおせっかいが過ぎる店員さん――もといおばさんの言葉通り、小学生と同じアイスクリームを冷凍ボックスから取り出してお金を払った。
ゴミを捨ておばさんから一人分位離れた位置に座ると、僕はさっきからずっと気になっていた事を質問した。
「何でこんなところに駄菓子屋なんか建ってるんですか?」
「ああ、それ」
おばさんは僕から受け取った百二十円をしっかりレジスターに入れてから、にっこり微笑んだ。
「元々ここには森林公園なんかなくてね。森林公園ができるってなった時に――まあ、そのときはうちのお母さんが店持ってたんだけど――ここが奥の方に埋もれちゃうってなって。そしたらね、お母さんが『ふざけるなー』って怒っちゃって。でも決まった事を白紙にする訳にもいかないって言われて、だったら公園の名前に『幸輪堂』って入れてくれって。無人販売の箱だって、お母さんが勝手に取り付けたのよ。
今にして思えば随分無茶苦茶な話よねぇ。まあ、無人販売は面白いからいまだに使ってるけど。でもあれ、葉っぱなんかが詰まったりするとすぐ使えなくなるのよね」
そういう事か。こんな奥の方にあるのに店が続いているのは、どうやらこの親子二代の性格と数々の所業のお陰らしい。
「ところで、なんであなたは夏休みに制服でこんなところに?学校どこ?何年生?」
「制服なのは、まあ色々あって。一応学校は夕日ヶ丘中で、学年は中三です」
おばさんの機関銃のような矢継ぎ早な質問に多少戸惑ったけれど、一つ一つ考えてから答える。
「へぇ、そうなの」
おばさんが笑ったその時、
「ねぇ、おばちゃん。誰と喋ってるの?」
おばさんのエプロンの裾を引っ張りながら、小学生達の中の女の子がおばさんに尋ねた。
「ああ、店の側でしゃがみ込んでたから連れてきちゃったてへぺろ☆」
「ふーん……っていうかおばちゃん、似合ってないよてへぺろとか」
「……あ、やっぱり?」
うん、と小学生全員が頷く。がっくりと肩を落とすおばさん。
「あんたたちの代金だけ二割増しにするわよ」
「二割り増しってなぁにそれ美味しいのー?」
「とぼけたって無駄ですぅー、あんた六年生なんだから割合ぐらいもう習ったでしょうが」
「六年?なぁにそれ美味しいのー?」
「幼稚園からやり直す事をオススメしとくわ」
「幼稚園ってなぁ」
「それ以上言うと五割増しにするわよ。一.五倍よ、一.五倍」
「あ、嘘ですゴメンナサイ姉上」
「誰が姉上だ誰が」
だめだ、笑いがこみ上げてくる。アイスクリームが気管に詰まって思いっきりむせた。
「ん、学ランの人、大丈夫?」
女の子が、僕に話しかけてきた。僕は右手で「大丈夫」と合図を送り、何度か咳き込んだ。全く、散々な目にあった。
そんな会話をきっかけに、「幸輪堂」に今いる五人でのお喋りが始まった。三人いる小学生のうち、女の子は未希、大きい方の男の子が篤也、もう片方が友也で、三人が兄弟なのだということを知った。篤也が六年、友也が四年、未希が三年生らしい。
僕も自分が中学三年生だということを明かすと、「夏休みに勉強してないとか、高校入れねーじゃーん」と篤也に茶化された。
「そんなこと言ったら篤也君も勉強しないと中学ヤバいんじゃないの」と返すと、「俺は天才だからいーんだよ」と威張られてしまった。
だがおばさんはその言葉を聞き漏らしておらず、「天災の間違いなんじゃないの」と横から会話に加わってくる。それを見ている友也と未希がくすくすと笑う。不思議なくらいにすんなりと会話に入れている。
こんなに話が弾むのも久しぶりだなぁ、とぼんやりしていると、今度は友也が背中に向かってタックルをかましてくる。
時間がものすごい勢いで流れていく。
気づいたときには空はオレンジ色に染まり、六時の夕焼けチャイムが辺りに流れ出していた。皆して思わず流れている「あかとんぼ」を口ずさむ。
小学生達三人は急いで帰らないと親に怒られてしまうらしく、「じゃあね!」と台風のように去っていった。
店内には僕とおばさんの二人だけが残された。小ぢんまりとした店内が、なんだかやけに広く感じられた。
ほのかに香る甘い香りを吸いこむように深呼吸すると、僕はレジの確認をしているおばさんの後ろ姿に声をかけた。
「今日は、ありがとうございました。楽しかったです」
おばさんは確認の手を止めて、こちらを振り返った。
「いいのいいの。それより、明日も暇だったらおいでね」
いいのいいのと言っている割に、ちゃっかり宣伝も混ぜ込まれている。だが、特に不快にはならなかった。むしろ、なんだか胸の奥に、暖かい光が灯ったような気さえした。
「はい。また明日も来ます」
軽く頭を下げて、「幸輪堂」を後にした。
太陽は、夕日になっても尚、目に眩しかった。
――“幸”せの“輪”、か。
店の名前の意味を考えてみて、ああ、確かにそうかもなと目を閉じた。
耳元で踊る風は、何かを僕に運んできてくれたようだった。