4 現人神の死
翌日、ボクは風邪を引いて学校を病欠した。
紺野ちゃんの家が中々見つからなくて、寒い冬の空の下を汗かきながら自転車で彷徨い続けた結果である。しかし、健康を犠牲にした甲斐はあり、目的は果たした。紺野ちゃんへのメモの譲渡と伝言。後は彼女が指示通りに動けば、全て上手くいく。
ボクは薄暗い自室のベッドの上で、頭こそ熱でボーッとするものの、満足だった。
紺野ちゃんは、きっと無事に雨橋と結ばれたことだろう。
雨橋もゲイだなんて非生産的な性癖とサヨナラだ。紺野ちゃんのことがきっと好きでたまらなくなる。そして、ボクと雨橋の友情は守られる。
母親が作ってくれた卵粥が美味しい。やっぱり一仕事終えた後の食事というのは格別である。
「駿介、お友達が来てるよ!」
時は夕方過ぎ。階下から響き渡る母親の声。そして聞こえてくる足音。一体誰だろうか。戸が開いた先に立っていたのは、雨橋だった。東ちゃんや紺野ちゃんかとも思ったが、ボクは彼が来てくれたのがちょっと嬉しかった。
「……風邪、具合どうだ」
「熱が八度五分ってとこかな。咳も鼻水も殆ど出ないけど、体を起こすとフラついちまう」
「横になっててくれ。無理に体起こさなくていい」
言われた通り、ボクはベッドに仰向けに寝転んだ。正直、ありがたい。雨橋は差し入れ、と称してコンビニで購入したのであろう赤々としたいちごゼリーとエロ漫画雑誌を取り出した。
前者は分かるが、後者はなんのつもりだ。って言うかよく買えたなそんなもん。
「この時間帯、駅前のコンビニの店員は定年過ぎて暇を持て余した耄碌のジジイだ。煙草も酒も普通に売ってくれるぜ」
「なるほど。覚えておくよ」
雑誌を受け取って適当に開く。反応する程元気がないので、ボクはすぐに投げ出した。粥を食ったばかりなのでゼリーも要らない。二つを重ねてベッドの隅っこに置いておく。
「堂島。なんで今日、俺がお前の見舞いに来たか……わかるか?」
雨橋は不躾にそんな事を言った。感情が見えない冷たい声に、ボクの背筋に寒気が走った。暖房はついているのに、空気は冷たい。何故か嫌な予感を覚えた。
「……紺野ちゃんから告白されたか?」
「されたよ」
雨橋は口元だけで笑っている。こちらを食い入るように見つめるその目はしかし、氷のように冷ややかだ。今の雨橋は、ボクの友人の顔をしていない。能面でも眺めている気分だった。
「だが、振った」
「……は!?」
ボクは思わず飛び起きてしまった。
紺野ちゃんからの告白を断ったのか。断れたのか。そんな筈はない。紺野ちゃんがちゃんとボクのメモを手渡してくれていれば、今までの経験上二人は確実に恋仲になる。
それとも、やっぱり呪いなんてなかったのだろうか。今まで上手くいってたのはやっぱり単なる奇跡か何かだったのだろうか。ボクが呆然としていると、雨橋が顔を近づけてきた。その掌には、小さく折り畳まれたメモ帳がある。
見間違いはない。これは、ボクが紺野ちゃんに託したメモに間違いなかった。
「なんで……これを……」
「お前からのメモだ、なんて渡そうとしてくるから、怪しいんで開かなかったんだが……。今の反応を見てハッキリしたよ。お前が俺と薫を、無理矢理にでもくっつけようとしてるってな」
何も答えられない。完全に看破されていた。ボクの世界を守ってくれる筈だったラブレターは、届いていなかったのだ。
雨橋は、震えるボクの肩をポンポンと叩く。まるで子供をあやすような優しい手つき。それがとてつもなく恐怖だった。
「お前の思い通りにならなくて残念だったな。今日はそれを言いに来たんだ」
「……なんでだよ」
例え気がついても黙って読んでおけば、何もかも上手くいったのに。紺野ちゃんは好きな人と恋人になれて幸せ、雨橋は女が好きなノーマルの男になり、ボクは友達を失わずにすむ。それで良いじゃないか、雨橋。分かっていても受け取れば良かったと、お前だって思うだろうが。なんで突っぱねるんだよ。
「なんで……! なんで……! なんでなんだよ!? 何が気に入らねえって言うんだよっ!」
「俺は、もう自分の性癖に納得している。今更ノーマルに戻ろうとは思わねえ」
「でも、ボクのラブレターを読めばお前は紺野ちゃんのこと、絶対好きになる筈で」
「んなもんで好きになって……それで良かったってか? ふざけんな! 人の心を何だと思ってやがる!」
怒鳴られて、押し倒された。拳も振り上がったが、病人相手に手を出すのは躊躇ったのか、ゆっくりと下がっていく。雨橋はボクに覆い被さった姿勢のまま、烈火の如く怒りを視線に乗せてぶつけていた。
「お前のラブレターはな、人の意志を無理に捩じ曲げる代物なんだよ。お前はそんな物騒なもんで俺の心をこねくりまわそうとしている。受け取れるわけねえだろうが。俺の心は俺のもんだ。好き勝手いじられてたまるかよ」
雨橋は立ち上がり、鞄を拾ってボクに背を向けた。どうやら、帰るつもりらしい。去り際に一度だけ振り返った雨橋は、ボクをまるでゴキブリを見るようなしかめ面で見ていた。
「お前が俺のこと、どう見てるのか良く分かった。……恋人は無理でも、友達ではいられるって思ってたんだがな」
雨橋はそれきり、部屋を出ていってしまった。乱暴に締められた扉の向こうで、足音が遠のいていく。
まるで今生の別れでもしたような気分になった。実際、雨橋とボクは今後口を利くことさえなくなるだろう。何が間違っていたのか。ボクが、間違っていたのだろうか。結局のところ、全部上手くいく結末なんてないんだろうか。
ハッピーエンドの大団円を望んで、何がいけないんだよ。
雨橋。雨橋……ボクはどうすれば良かったんだよ。
「なに泣いてんすか、先輩」
耳に届いた砕けた丁寧語。顔を上げると、水っ気のないパサパサの渇いた髪の毛が目に飛び込んで来た。右目に眼帯をしたその女は、東ちゃんに違いなかった。いつの間に部屋にきたんだこの女。
いや、それより。
泣いていたんだろうかボクは。慌てて目元を拭って、欠伸をした振りをするが、果たして東ちゃんの目を誤魔化すことは出来るだろうか。多分無理だろうな。
「いつ来たんだよ。入る時位言えよな」
「ついさっきっすよ。先輩の友達の……あれ、何つったっけ、名前わかんねえけど、その人と入れ違いだった」
「見舞いか。わざわざありがとうね。君こそ眼、どうした?」
「ん……」
東ちゃんは眼帯を指で軽く撫でて、一瞬だけ渋い顔をしたが、すぐに元の呆れた顔に戻る。
「ただのもらいものだよ。んなことよりこれ、見舞いの品ね」
出て来たのは、雨橋と全く同じいちごゼリーだった。入っている袋は別のコンビニだが。人気あるんだろうか、これ。
「アタシじゃなくって、薫からっすけど」
「……紺野ちゃん、元気だった?」
「んにゃ。……なんか、失恋したんだってな」
やはり、耳には届いていたのか。東ちゃんは呑気にも、「タバコ吸っていい?」などと聞いてくる。ボクが首を横に振ると、彼女は残念そうに胸ポケットにタバコの箱を戻す。
「メチャメチャヘコんでるよ、アイツ。授業中もずっと上の空だったし、折角アタシから話しかけてんのに、殆ど生返事。ありゃ立ち直るまでしばらくかかるだろうな」
予想通り過ぎて辛い。申し訳ない気持ちで一杯だ。下手に背中を押したりすべきじゃなかったのかもしれない。落ち込むボクをよそに、東ちゃんはボクのベッドの隅っこに置いてあるエロ漫画雑誌とゼリーを見て、溜め息を付いた。
「こんなもん読んでる元気あんなら学校来いよ、エロ島先輩」
「……これは雨橋の見舞いの品だ」
「あぁ、さっきの。……うっへぇ、こりゃぁハードだ。先輩、こういうのでヤッてるんすか」
東ちゃんはエロ漫画雑誌を手に取ってパラパラ捲りながらボクを馬鹿にするようにケラケラと笑っていた。大体女子たるものエロ漫画を見たら、もっとすべき反応があるだろう。……東ちゃんに期待するのは無駄か。漫画を読みながら、しかし時折こちらを見る視線が少し優しくて、ボクは何も文句を言えなかった。
「で、先輩なんで泣いてたの? 喧嘩?」
「……まぁ、そんなところだよ」
ボクは雨橋と紺野ちゃんとのことを、洗いざらい全て話すことにした。
紺野ちゃんが痴漢に遭遇し、それを雨橋が助けたこと。
紺野ちゃんが雨橋に惚れたこと。
雨橋が同性愛者で、紺野ちゃんを振るつもりだったこと。
雨橋が好きなのはボクだったこと。
そしてボクが書いたラブレターは受け渡しされず、ボクと雨橋との友情が完全に崩壊したこと。
言葉はスラスラと出て来た。東ちゃんは時折頷いたり、相槌を打ったりして、大人しく聞いてくれていた。そして全部話し終えた後、東ちゃんはボクの頭に軽くチョップを放った。痛みも何もないが、その一撃はボクのモヤモヤを少しだけ取り除いてくれた。
「……アンタはさ、本当にどうしようもねぇ奴だよ」
辛辣な言葉の割には、声は優しかった。それなりにボクに気を遣ってくれているのだろう。とか思っていると、東ちゃんはボクの頭をまるで幼子の母親のように撫で始めやがった。さすがに払いのけようとしたんだが、その手を容赦なくぶっ叩かれる。一方で、撫でる方の手つきはとても柔らかくて心地がよい。この手が普段ボクへの辛辣な暴力に振るわれているのが勿体なく感じる。
彼女は本当に、良く分からない女の子だ。
「前にも言ったけど……自分の納得いく結果になりゃ全部ハッピーって訳じゃないんだぞ」
「……でも、ボクは雨橋とは友達でいたかったし、紺野ちゃんは雨橋と上手くいって欲しかった」
「それは単なる先輩の身勝手っすよ。雨橋先輩はその身勝手に付き合わされるのが嫌だったんだろうよ」
「自分の意志を曲げるくらいなら、ハッピーエンドじゃなくて良いって言うのか?」
ボクは皆を幸せにしようと願っていただけなのに。しかし、東ちゃんはやっぱり首を横に振る。
「違う。先輩は、雨橋先輩の幸福を自分に都合が良くなるようにすり替えようとしてる。雨橋先輩は雨橋先輩にしか分からない幸せがあるんすから。勝手に人に『さあこれが幸せだ、受け取れ』なんて言われたら腹も立つっつの。雨橋先輩が好きなのは、先輩だった。例え先輩の力で薫に気持ちを向ける羽目になっても……雨橋先輩は納得しない」
「じゃぁどうすりゃ良かったんだよ!」
何もしなければ、全員が傷ついた。紺野ちゃんも、雨橋も、そしてボクも。
何もしない訳にはいかなかった。どうにか出来る可能性があるのに、指をくわえて見ているだけなんて、そんなバカな話があるか。だから行動した。ボクは、ボクが望む絆を破壊したくなかったんだから。
ボクは東ちゃんに食ってかかった。肩を掴んで揺すっても、彼女の無愛想な表情は変わらない。
なんと無様だろう。今のボクは、己の身勝手で破滅しても尚、自分の非を認めることができない愚か者でしかない。自然溢れてくる涙を留めるつもりなんて更々ない。人前で泣くのはいつぶりだろうか。
ボクは今、どんなに情けない存在なのだろうか。
「先輩、もうさ……止めようよ」
東ちゃんの腕が、優しくボクの頭を抱きとめた。面食らって顔を上に向けると、目と鼻の先に、少し辛そうに眉間に皺を寄せる東ちゃんの顔がある。風邪をうつしちゃ悪いとか、こんな密着してはしたないとか、押し返そうと思えば理由はいくらでも考えられたのに、ボクはなすがままにされている。
「先輩が、なんでそんなにラブレターにこだわってるのかは、アタシは知らないけどさ。必死にならなきゃいけないのは……それくらいは、アタシも分かったよ。でもさ……これ以上はもう、ダメだ。そんな力、使っちゃいけないんだよ」
「でも……でもボクは……」
脳裏を掠める、太陽のような笑顔。手の温もり。囁き合った愛の言葉。どうしても取り返したい、大切な日々がボクにはあるのに。
……でも、ボクは一体、何度失敗をした?
解決策なんて結局なにも見つからぬまま、一年半もかけてボクは人々に幸運という名の虚偽を配り歩いてきた。
一体何人がボクの呪いの犠牲になったのだろう。
事実を知ったら、何人がボクを恨むのだろう。
ボクのやってきた事は、ボクの目的に果たすのに、一片の役にでも立ったのだろうか。
ボクは今、取り戻したいと称したあの日常を取り戻す為の努力をしていると、言えるのだろうか。
もう、何もわからなくなってきた。
「ボクは……!」
「完全に元通り、とはいかないかもしれない。でもな、傷口はいつか必ず塞がるから……」
東ちゃんは、ゆっくりとボクから離れていく。少し名残惜しささえ感じてしまった自分が居た。
「過ぎたことはもう変えられないんだ……だから先輩、もう本当にこれっきりにしようぜ」
軽く肩を押して、優しくボクを横たえた東ちゃんは、まるで母親がするように布団を首まで上げ、幼子を寝かしつけるように胸の辺りをトントンと拍子をとった。小さい頃に風邪を引いた時の事を思い出してしまい、なんだか心が落ち着いてしまい、瞼が重くなってきた。目を瞑ると、不思議な位眠気が襲ってくる。さっきまで、寝ていたはずなのに。
「これっきり、ラブレターを書くのは止めろ。人の運命を弄るのは、天の神様だけの特権。アタシらみてえな単なる人間が使っていいもんじゃない。だからさ……」
何故だろう。東ちゃんの声が少し、涙っぽい気がする。だが瞼を上げるのが億劫で、彼女の表情は見れなかった。
「もう、休んでいいんですよ、堂島先輩」
いとも簡単にボクの心に沁み込んでいく、その慈愛。
そうか。もう、書いちゃダメなんだ。ようし分かったボクはもうラブレターなんて書かないぞ。
……なんてまるで十年くらい年齢を遡ったかのような、回転の遅い頭で考えていると、段々と意識が薄れていくのが分かった。完全に意識が飛ぶ前に見た夢の中で、雨橋と紺野ちゃんが二人、仲睦まじく手を繋いで歩いていく遠い背中が見えた。
ボクは、酷く疲れていたらしかった。




