3 世界を守れ
雨橋とボクが知り合ったのは高校に上がってからだ。
始めに言葉を交わした時がいつだったかは、もう覚えていない。
気がついたら、向山と八幡と雨橋とボクの四人で、いつも一緒に居た気がする。それぞれ部活も違うし、帰る方向もバラバラだし、性格だって誰も似てない。ウザい向山、寡黙な八幡、冷静な雨橋、そしてボク。
不和が起きても不思議じゃないのに、自然とノリだけは似ていて、なんだかんだで仲良くやってきた。
この先社会に出て、恋人を作って、子供が出来て、年とって枯れ果てても、このままずっとアイツらと変態トークが続けられると思っていた。
でも雨橋は、そうは思っていなかったのかもしれない。
裏切られたような気分がした。
好きな人はボクだ、と雨橋は言った。とんでもない。ボクだってアイツのことは好ましいが、あくまで友人として、に決まってる。恋愛対象だなんて、思えるわけがない。
だってボクは男じゃないか。
男と男の恋愛。そんなものは、遠くの世界で起きている珍事でしかないのだ。当事者になっちゃいけない代物なんだ。
雨橋の泣きそうな顔が思い出された。ボクが気持ち悪い、と思うことは分かっていただろう。それでも、アイツは言った。好きな人への気持ちをずっと胸に溜め込むのは、確かに辛いものがある。それくらいボクにも分かる。でも、それはやっぱり、絶対に言ってはならない言葉だった。言ってしまったから、もうボクと雨橋の仲は終わりなんだ。
多分ボクは今後、雨橋と友人として付き合って行くことは出来ない。
今の今まで、ボクは雨橋からそう言う目で見られていたんだと想像するだけで、自然と雨橋から遠ざかりたくなる。バカな友人ではなく、恋心を寄せる相手として見られていたと思うだけで、やるせない気持ちになる。友達でいて欲しいなら、黙っておくべきだった。何も言わずに、ただ……ボクにも黙って紺野ちゃんを振るべきだった。
ボクから聞いたのが悪い、なんて言ってくれるな。だって、誰にも想像出来ないだろ。同性の、一番の友人だと思ってた奴が自分に恋をしているなんて。
「……先輩、なにかあったんですか?」
今は放課後で、ここは美術室。声をかけてきたのは東ちゃんじゃなくて、紺野ちゃんだった。粘土細工を捏ねる為にエプロンを装備した彼女は、とても心配そうにボクを見ている。だってそうだろう。ボクときたら今日は習字道具を出したっきり、少しも筆を動かしていないんだから。
「東ちゃんはどうした?」
東ちゃんにだったら、ボクはこのことを話していただろう。そんでもって、アイツになじられながらも、心を落ち着けたかもしれない。こういう時にこそ必要なのに、どうしてアイツは今日に限っていないんだ。本当にボクを虐めるのが好きなんだな、アイツは。
「お家の事情……って言ってました」
少し悲しそうな顔で、紺野ちゃんはそう言った。
「そうか……」
「……先輩、顔色酷いですよ? 保健室行きましょう」
そう言って、紺野ちゃんはボクの手を引っ張ろうとする。冷たくて柔らかくて小さな手だった。
自分だって朝の電車のことがあって、きっと心中穏やかではいられない筈なのに。涙が出る程優しい子だ。
「せ、先輩、どうしたんですか……早く」
「紺野ちゃん。雨橋とは、どうだ?」
言葉を遮ってそれを聞くと、今度は紺野ちゃんが泣きそうな顔をしている。悪いが、ボクには彼女を宥める気力はない。
「朝のことは、もう雨橋から聞いている。半ば告られたって、アイツも言ってたよ」
「うううぅぅぅ。やっぱり誤魔化せなかったんだぁ……」
「紺野ちゃん、どうするんだ? ちゃんとした告白、するの?」
彼女の背中を押したのはボクだ。そんな彼女が告白をして、挙げ句振られて傷つくのは嫌だった。だからもしも彼女が告白すると言うなら、ボクはそれを止めたい。
「……言います。今日はちょっとドタバタしちゃったし、決心つかないから、明日の朝の電車で」
紺野ちゃんはもう心に決めているようだった。普通だったらここで『頑張れ!』とか『絶対上手くいくから自信もって!』とか、そんな無責任だけど温かい励ましができただろう。
でも彼女が振られるってことを、ボクはもう知っている。
雨橋は、果たして彼女に付き合えない理由を言うだろうか。自分は同性愛者だから、と。もしくは、適当にでっち上げるか。多分後者だろうな、と思う。アイツは、そうやって振るつもりなんだろう。叶わないと分かっているのに告白をして、一体何があるんだろうか。紺野ちゃんが傷つくだけじゃないか。
若いうちだから傷ついてもすぐ直る、なんてのは年食ったジジイ共の妄言だ。ボクらが生きているのは間違いなく今この瞬間だ。分かっているのに傷つけにいかせるのは、それこそ頭がどうかしている。
傷つくのが怖くて何が悪い。傷つけるのを恐れて何が悪い。付くべき傷なんてこの世にはないのだから。
「……紺野ちゃん、止めておいた方がいい」
気がついたら、口が動いていた。
「アイツは……雨橋は止めておけ」
紺野ちゃんは突然のボクの言葉に、意味が分からぬと首を傾げた。彼女のちょっと曇った表情なんて、ボクは初めて見た。出来れば、見たくはなかった。
「……なんでそんなこと言うんですか?」
「アイツは……」
アイツは最低な奴だ。三股四股当たり前、女は基本ヤリ捨て、金を貢がなきゃぶん殴るDV男……そうやって有りもしないことを出任せに言い散らかして、紺野ちゃんを幻滅させてやろうかとも思った。
でもダメだ。雨橋は本当に良い奴なんだ。何より紺野ちゃんを痴漢の魔の手から救った正義漢じゃないか。そんな偉いこと、実際はそうそう出来たもんじゃない。紺野ちゃんは絶対に信じないし、何よりボクは雨橋を扱き下ろすのに大きな抵抗があった。
ボクの中で、雨橋は一番の友達だったのだから。
だからボクは、もっと最低な行動に出た。
「……大体君は、どうして雨橋を好きになったんだ?」
「そ、それはだって、その……助けてもらったからで」
「そうそう、それがまず意味が分からんよね」
紺野ちゃんの眉毛が僅かに動いた。不穏な空気は完全に無視して、ボクは言葉を続けてしまった。
「そもそも痴漢に襲われたところを助けてもらったからって、コロッとソイツに恋するなんて、軽過ぎるんじゃないか?」
「…………」
「雨橋だって、もしかしたら下心があって助けたのかもしれないだろ?」
「…………先輩」
「ほんと、チョロいって言うかなんていうか。そうやって自分はこの人が好きなんだー、なんて思い込んで楽しいかい? それは本当に雨橋のことが好きだって言えるのか? 君、ただ単に悲劇のお姫様気分に浸りたいだけなんじゃないのか?」
「先輩っ!」
「それに付き合わされる雨橋も可哀想だよなぁ。君みたいなタイプって、いっつも付き合い始めたら相手に幻滅するんだ。私が好きになった雨橋先輩はこんな人じゃなかった、とか勝手なこと言い始めて」
言葉は途中で打ち切らざるをえなかった。
頬に、静電気でも走ったのようなか細く鋭い痛みを感じる。
紺野ちゃんの平手打ちがボクの頬に思い切り振り抜かれていた。いっそ清々しい音が美術室に響き、他の美術部員が何事かとこっちを見ている。
「……ひどい」
小さく、本当に小さな声で、彼女は呟いた。
張られた頬の痛みは、まるで全然、後を引かない柔らかな痛みだ。元々紺野ちゃんは、こうして人を打つことは稀……もしかしたら、初めてなのかもしれない。叩いた掌を押さえ込んで、紺野ちゃんは脇目も振らずに部室から走り去って行った。
幽かに盗み見た表情は、間違いなく泣いていた。
周りの部員達が、すぐに自分達には関わりないことだとばかりに自分の作業に戻って行く。痴情のもつれに首を突っ込むのは御法度。久米先輩が襲撃してきた、と言う噂が前に流れてから、ボクは美術部の部員に避けられているのだ。
でも今はそれで良かった。多分ボクは今、なんて声をかけられても返事なんて出来やしないんだから。
*
その日の夜、ボクは夕飯も碌に食わずに、部屋にこもっていた。
親が風呂だなんだと声をかけにきた気もするが、あんまり覚えていない。叩かれた頬に……実際は痛みさえほぼ感じないような軽い衝撃だったんだが、まだ違和感が残っている。
今日のボクはつくづく酷い。
雨橋の告白を聞いてアイツとの友情を見限ろうとし、振られると分かっている紺野ちゃんの告白を止める為に、何故か紺野ちゃんを扱き下ろし。
頭じゃ分かってるんだ。
雨橋とはこれからも友達でいるべきだ。紺野ちゃんの告白だって、させてやればいい。傷ついた彼女を精一杯慰めるのが一番円満に済む方法だ。
でも、心はままならない。
雨橋は気持ちが悪い。紺野ちゃんの傷心する姿だって、ボクは見たくない。そんな自分の我が儘を押し通そうとして他者を傷つけるボクは、人類史上稀に見るクソ野郎なんじゃなかろうか。
……と、そんな自虐も虚しくなってきた頃、携帯電話が震えた。
メールである。差出人は……なんと、紺野薫となっているではないか。
『今日は、叩いちゃって本当にごめんなさい。でも、告白は止めません。私、本当に雨橋先輩のことが好きなんです。彼以外の男の人は、もう考えられないんです』
死にたくなった。
叩いちゃってごめんなさい? 叩くべきだったんだ。もっと叩いてくれ。
ボクこそ謝らなければならない。君は最高だ。君が幸せにならなきゃ、世の中本気で狂ってやがる。なのに、何でだ。なんで紺野ちゃんは雨橋に恋をしてしまった。
この恋は叶わないのに。
「……雨橋のバカ野郎がっ」
ボクは雨橋に電話をかけた。間もなく日付も変わりそうな時間なんだが、構うことはない。今はアイツに迷惑をかけなきゃ気が済まない。雨橋は、すぐに出た。向こうからの第一声は飛んでこなかったので、しばらく沈黙が続いた。
「雨橋ぃ!」
口火を切ったのはボクだった。
「……どうした、堂島。こんな夜中に」
雨橋は落ち着いていた。とても穏やかで、ちょっと眠そうな声。いつも通りのコイツの声だ。
「明日、紺野ちゃんは君に告白するそうだ」
「……だと思っていたよ。ついさっきメールが来た。『明日も絶対一緒に学校に行きましょう』って。はは、このところ毎日一緒なのにわざわざ念を押してくるなんて、本当に可愛い奴だよ。……俺にはもったいない」
憂鬱そうな溜め息と、自虐めいた渇いた笑い声が悲壮感を煽る。雨橋はやはり、紺野ちゃんを振るつもりらしい。
「……どうしても、ダメなのか?」
「今日の昼も言ったが、俺は」
「言わなくて良い。……ボクは、お前のその気持ちには応えられん」
「…………あぁ、そうだろうな」
雨橋の声は酷く落ち込んでいた。だが、ボクは申し訳ないとは思わない。ボクは、本当に雨橋のことを良い友達だと思っていた。無論、恋人なんて思う日は永遠に来ない。
「……ならなんで、電話してきた?」
「紺野ちゃんと付き合ってくれ……!」
ボクは懇願した。
「振られると分かっている告白をさせたくないんだよ!」
「お前、失恋した俺の気持ちもちっとは考えろよな……」
自嘲するような渇いた笑い声が受話器の向こうで響き渡る。
「……薫は先輩に恵まれてやがるな」
雨橋ははぐらかそうとしているのだろうか。ボクは、惑わされるつもりはない。
「断らないでくれ。彼女、もう君しかいないって……」
「……」
「痴漢から助けてやったんだろ」
「助けねえ方がおかしいんだよ」
そこまで即答で言い切るか。なら、その満員電車の中の乗客全員がおかしいことになっちまう。おかしいわけじゃないんだ。お前がすげえ奴なんだよ。
「お前が何を想像してるのか知らんが……あれは、ほとんど強姦だった」
「なら、それ止められたお前はもっと上等だ」
「……んな事無いさ。お前だって、きっとそうしてたはずだ」
雨橋は、別に誇ることもせずに淡々とそう言ってのけた。
謙遜をするな。お前は、自分が思うよりも遥かに立派な人間だ。人として尊敬に値する。紺野ちゃんがガチ惚れするのも、頷ける。
「ただ、すべきことをしただけじゃねえか。それだけ……なのに、薫はなんで俺なんかに……」
自虐がうっとおしい。コイツはこんなにネガティブな男だっただろうか。まっこと、色恋沙汰は人を狂わせる魔力を持つ。今回は、非常に悪い意味で、だが。
「紺野ちゃんの事、嫌いなわけじゃないんだろ?」
「……あぁ、まぁ、そうだな。良い子だと思うよ」
「だったら!」
「恋人と友達は違う……だろ?」
「……お前がゲイだってことは隠せばいいじゃないか」
「すぐにバレる。……俺は多分、あの子とキスするのも出来ない」
筋金入りか。なんでこんなに夢も希望もないんだろうか。雨橋が、紺野ちゃんが、なにか悪いことでもしたんだろうか。
「…………すまない、堂島」
長い沈黙の後に雨橋はそう言って、電話を一方的に切った。掛け直そうかとも思ったが、ボクにもそんな気力はなかった。
携帯電話をベッドの上に放り投げ、ボクは床に寝転がって真っ暗な天井を眺めた。何だか、もしかしたら明日にでもこの世界が終わってしまうんじゃないんだろうか、と場違いな予感が脳裏をよぎった。あながち間違っていないかもしれない。ボクと雨橋の関係は、恐らく今までと同じとはいかないだろう。大事な人達との繋がりは、自分を取り巻く世界そのもの。それが崩れるのは、世界が崩壊するのと同義だ。
嫌な話だ。
雨橋が普通に女が好きで、それで紺野ちゃんの告白をちゃんと受け入れてくれてくれさえすれば。
ボクの世界は壊れない。
「…………」
気がついたら立ち上がって、電気スタンドを点灯し、机に向かっていた。
普通の人間だったら、多分何も出来なかっただろう。これも運命、と受け入れる覚悟をするのが精々だったろう。
だがボクは違う。ボクには、普通じゃない……ファンタジーめいた力がある。
「堂島君にラブレターの代筆を頼むと、必ず恋が叶う」
差出人は、紺野薫。受取人は雨橋康治。紺野ちゃんの気持ちは、知っている。雨橋の事以外には、考えられないと言っている。
ならば、書けば良い。
条件は満たされている。
書けば良いのだ。
ボクがやろうと思えば、この二人をくっ付ける事なんて、実に容易い事じゃないか。初めてこの力の存在を、肯定的に受け止める事態である。
「……雨橋康治様へ。私は、貴方を本当に愛しています。紺野薫より」
長文を書く元気はなかった。単なるメモ書きだが、これだけでも十分過ぎるくらいだ。
あとはこれを明日の朝までに紺野ちゃんに渡せばいい。家のポストに突っ込んでおくのがベストだろう。
そして紺野ちゃんに、『これを告白の前に雨橋に渡しておいてくれ』と、謝罪も合わせてメールで伝えておく。多分紺野ちゃんは疑問に思いながらも、指示には従うだろう。彼女は純粋過ぎるくらい純粋な子だから。
現在時刻は夜中の十二時。紺野ちゃんの家はここから電車で四駅程離れたところにある。行ったことはないが、部員名簿に住所が載っている。辿り着くのは難しいことじゃない。このクソ寒い時期のクソ寒い時間帯にチャリンコで行かなければならないのは少々鬱だが、躊躇いはなかった。
ボクは親を起こさぬように慎重に家を出た。コートのポケットに入った小さなメモ帳を強く握りながら。