2 雨橋康治という男
その日は雨橋の様子が朝からおかしかった。
挙動不審気味に周りを見回しているし、時折何か物憂げな溜め息を吐いたり、前触れなく頭をバリバリ掻いたり。授業中もそんな感じなのだから、これはもう大変な事件があったに違いない。
ボク、八幡、向山の三人は既に雨橋と紺野ちゃんが一緒に登校していることを知っていたので、すぐに感づいた。授業合間の休み時間、僕たちは机に突っ伏している雨橋の肩を叩いた。
「やーやー、雨橋クン、何があったのかね?」
大体いつもこういう場面で先陣を切るのは向山である。ダチョウ倶楽部の竜ちゃんポジだ。別名貧乏くじ係だが、彼はすすんでやってくれる。そう言う意味では得難い友人だ。
「……別に、何にもねぇよ」
「とか言っちゃってー! 実は薫タンと何かホニャホニャなことがあったんと違うんー?」
向山は太った体をくねらせながら声高に聞き続ける。さすがだぜ向山。君はボクらとは違う、真の勇者だ。見ろ、周りの女子達を。本気で気持ち悪がって口を押さえているのまでいるぞ。ボクにも八幡にも出来る真似じゃあない。
「お前にだけは話す気にゃなれん。さっさとどっか行け」
「雨橋さん、そりゃないっすわ、漏れら三人、お前のこと心配してるんですけどー」
「…………はぁ」
向山ではやはり頼りにはならなかったので、ボクが助太刀をすることにした。先発隊は飽くまで先発隊。後発隊の足場を作るのが役目だ。
「雨橋、別に茶化す気は無いけど、なんか元気ないぞ」
「……うるせぇ」
雨橋は溜め息混じりに吐き捨てて、すぐにボクから顔を逸らしてしまう。いつものノリならさっさと折れて勝手に話し始めるはずなんだが、こりゃ思った以上に深刻な問題なのだろうか。
「友達だろ。話してくれよ」
「……そう、か。やっぱり、そうなんだな」
何に納得がいったのかはボクには分からないが、雨橋はお通夜みたいな顔で頷いてから、蚊の鳴くような小さな声で続けた。
「昼休みになったら、堂島。屋上に来てくれ」
「屋上? このクソ寒い時期に」
「…………」
「……分かったよ。行ってやるから人気の無い路地裏に捨てられたひもじい子犬みたいな顔すんな。お前らもそれで」
八幡と向山に振り返ったボクのブレザーの裾を、雨橋は小さく摘んで引っ張った。お前は女子か。
「堂島だけでいい。……堂島だけがいい」
「……はぁ? 何で?」
雨橋はそれには何も答えず、また机に伏して、腕で顔を隠してしまった。肩を叩いても足を小突いても反応無し。ボクは困って、八幡と向山の顔を見た。
「雨橋がそう言うなら俺は構わん」
「……俺もそれで良いけど」
二人とも、戸惑いを隠せぬまま、しかし雨橋にはそれ以上の追求を出来ずに、結局休み時間は終わってしまった。何故ボクだけ。別に愚痴でも何でもない。ただ単に、それが疑問だった。
*
雪が降っていなかったのは幸いだった。
今日はこの季節にしては比較的温暖で、風もあまりない。コートを一枚羽織ればそれで十分だ。ボクが屋上に行くと、雨橋は既に屋上の手すりに背を預けて、白い息を吐き出しながら曇天の空を仰いでいた。
こんな季節だからだろう、屋上にはボクと雨橋の二人しかいないし、多分誰かが来ることもない。だからこの場所を選んだんだろうか、とボクはぼんやり考えていた。
「すまんな、寒いのにこんな所で」
雨橋は申し訳なさそうに眉を下げながら、学校の自販機で買ったらしいホットの缶コーヒーをボクに投げて寄越した。買ったばかりの熱さはもう抜けており、手で握ると人肌より少し温かいくらいで、逆に丁度良かった。ボクはそれをコートのポケットに仕舞い、雨橋の隣に並ぶ。
「構わんよ。……それで、何があった。紺野ちゃん絡みなんだろうが」
雨橋は頷いた。やはり、彼女と何かあったか。喧嘩でもしたか。
「……薫とは、仲良くやってる」
たった一週間程度なのに、もう下の名前を呼び捨てにする仲にまで発展しているらしい。紺野ちゃん、中々やるな。
「ただ……今日の電車でさ」
「ん。電車でどうした?」
「……多分、薫はそんなつもりも無かったんだろうけど、半ば告られた」
「……詳しく聞かせろ」
ボクがそう言ってやると、雨橋は答えてくれた。曰く、朝の電車の中でこんなやり取りがあったらしい。
*
『先輩、いっつも朝早くからすみませんです』
『俺は別に。早い電車を勧めた俺にも責任はある』
『そう言ってもらえると私も嬉しいです……でも、引き受けてくれるとは思いませんでした』
『俺も、まさか頼まれるとは思ってなかったぜ。普通あんな事されたら、男と接するのも嫌になりそうなもんだけどな』
『先輩は助けてくれたもん。だから、別です』
『…………』
『……先輩?』
『どうして薫は俺に頼んだのかなって。家近い女の子だって結構いるだろ?』
『そりゃ、いますけど……けどもしまた痴漢が出たら……』
『こんなガラガラなのに痴漢なんていねぇよ』
『……先輩、やっぱり嫌、なんですか?』
『嫌ってワケじゃねぇが、ただちょっと不思議でな』
『私は先輩が良いんです。先輩と一緒じゃなきゃ嫌です』
『……お、おう。そりゃぁ嬉しいけど……なんか、アレだな』
『アレって?』
『いや、今の言葉、なんか告白みてえだなー、なんて……』
『……あ! いや、その! 別にそう言うつもりはないって言うか……何て言うか……』
『はは、分かってるよ』
『あ、でもでも、私は別に先輩と付き合いたくないとかそう言うのじゃないですよー?』
『そっかー…………ん?』
『……どうかしました?』
『…………今、なんて?』
『え……あっ!』
『それは一体どういう』
『いや! あの、違くて! ただ私はその、先輩と付き合いたい……とかじゃ、じゃなくって! あ、でも、違うんです! 私先輩のこと嫌いじゃなくてむしろ大好きで、それで……って、そうじゃない! そうじゃないのおおおぉぉ!』
*
それからも紺野ちゃんはあたふたと必死に取り繕おうとしたのだが、結局ボロばかり出てくるだけで、遂には泣き始めてしまったそうだ。雨橋もどうしていいのかさっぱり分からず、結局二人はそこから大した会話も出来ぬまま学校に登校してきた。その結果、雨橋は朝からぐったりしていた、らしい。
「……別に草臥れる要素なくね?」
ボクは率直な意見をぶつけてやった。朝から電車ん中でイチャコラしやがって。むしろ元気になるぞ。
「…………俺はどうしたら良い」
「付き合えばいいだろ。あんな可愛くて純粋な子、滅多にいないぜ。ったく、アホらし」
単なる恋愛相談。しかも、全く無意味だ。向こうが好いてくれるのが明白なのに、どうしたらも何も……。ここでボクははたと気がつく。
紺野ちゃんは誰からも好かれていて当然、だなんてデレた思考が阻害して、今の今まで分からなかった。
もしかして雨橋にその気がないのだろうか。
「薫とは、付き合うつもりはない」
苦虫を噛み潰すような表情で、雨橋はしかしハッキリと言い切った。
「……理由、言えよ。拒否は認めんからな」
あんな理想的過ぎる女の子を振るとなれば、それなりに大きな理由が必要だろう。と言うか、もしもボクの可愛い後輩を適当な理由で振るってんなら、ボクもそれなり以上に腹が立つ。雨橋からは見えない角度で固く拳を握るボクに、雨橋は小さく頭を下げた。
「言いたくないってのは」
「許さん」
ボクは即答した。言いたくない、なんてあまりにも身勝手じゃないか。
理由も分からぬまま振られる紺野ちゃんの気持ちも考えてやれ。ボクの本気の怒りが堪えたのか、雨橋は更に顔を俯けて、片手で頭を抱えた。
「……いや、すまん。実は、その理由もお前には話すつもりでここに来たんだ」
雨橋は意味深なことを呟きながら、真っ直ぐに立ってボクを見た。
なんだか少し悲しそうな顔をしている。雨橋がこんな表情をするのを、ボクは初めて見た。コイツはいつも笑っているかニヤついているか微笑んでいるか……そんなバカみたいな男のはずなんだ。
なのに、どうして今更こんな真剣な表情をしやがるか。
「先に言っておくが……頼む、出来れば聞かないで欲しい」
「何言ってんだお前」
「自分でも気がついたよ。アホか俺は。……でも、引かないでくれ」
「ボクとお前の仲じゃないか。今更何を気にする必要がある」
「……ありがとう。やっぱお前、基本的には良い奴だよな」
「余計な一言が付いてやがんぞ、ははは」
茶化してみせても雨橋はクスリとも笑わない。出来れば聞きたくなかった、と思うのはボクも同じかもしれない。
何か様子がおかしいのだ。
雨橋は、言ってはいけない何かを抱えているんじゃなかろうか。でも、雨橋は話すつもりなんだろう。ボクだけには話すと、彼は言ってくれたんだからそれに報いるにも、ボクは聞かねばならない。
一瞬の間があった。
雨橋は静かに、小さく、こう言った。
「俺……女の人は、愛せない」
ボクは意味を把握しかねた。
時がゆっくりと流れていく。段々と遅くなり、やがて停止して、ボクはこの寒空の下永遠に雨橋と二人っきりになるんじゃないかという意味不明な懸念に囚われた。
「すまん。何だって?」
「俺は、男じゃないと愛せないんだよ……」
今にも泣き崩れそうな震えた声だった。
まだ混乱は取り除けない。聞き返したかったが、その勇気もない。
今聞いた言葉を、それでも脳は勝手に雨橋の言いたいことの解釈を開始する。
女は、愛せない。男じゃないと、愛せない。
同性愛。
話に聞いたことはあったし、テレビで見た事もあった。
だが、そこまでだ。所詮架空のものと何も違わないレベルの認識しかした事はない。現実のものだと真剣に考えた事など、ない。訳が分からない。心が浮遊する。苛つき、落ち着きが奪われていく。
「冗談は、もっと明るく言えよ」
「冗談じゃないんだよ……」
二人とも、面白い位声が震えている。あぁ、きっと寒さのせいだ。そう、この悪寒だって、寒さのせいに決まっているのだ。だって信じられないじゃないか。男だったら女が好きだろ。そうじゃなきゃ男じゃねえだろ。
それが大前提の当然。この世の原理だろ。
お前は、そうじゃねえだろ。そんな訳ねえだろ。
「……でも、お前。ボク達の下ネタ話にはきっちり反応してたじゃないか」
「自分からその手の話を振ったことはねぇ。返すのくらいは誰でも出来る」
思えば確かに、雨橋はいつもツッコミ役だった。常識人ポジションだから全く気がつかなかった。
「お前は、黒髪ロングと健康的な脚線美と控えめな胸が大好物だって、言ってたじゃねえか」
「……お前らに合わせるための嘘だ。本当は、ばらすつもりもなかった」
「……マジなのか?」
「俺も、悩んだよ。けど……やっぱりダメなんだよ」
雨橋の顔を見られない。そりゃそうだろ。今の今まで親友だと思っていた奴が……。ここでボクは一つの懸念を思い浮かべていた。嫌な予感と表現するのに、間違っていない。
「…………誰か、好きな人がいるのか?」
口にしてから後悔した。
なんで聞いた。
なんで聞いたんだよそんなの。
別に興味ないだろ。
いいだろ、友達が同性愛者だって。
一万歩譲れ。足りないなら一億歩だ。一兆歩でもいい。譲ってやれ。そんで、友達を続けてやれ。
だってボクらは親友なんだから。
飽くまでも、単なる、親友、の筈なのだから。
でも、雨橋がどこを見ているのか、ボクにはなんとなく分かってしまった。
伊達じゃなく、ボクは色々な男女の仲が恋人に発展していく様を見てきた。分かるのだ。肌で感じるのだ。誰かが誰かを好いている、と言うのを、何となく。
「……いる」
案の定にも程がある。
沈黙が続いた。この際ボクらが風化するくらい永い沈黙が続けばいい。
雨橋のカミングアウトなんてなかったことにする位、永い時間があれば、きっとボクも平穏な心を保てる。雨橋がこっちを向いた気配を感じた。止めてくれ、と言うのは簡単だった。しかし雨橋が今、どんな気持ちで話をしているのかを想像してしまうと、途端に口は勝手に閉じていってしまう。
だから、何も言えなかった。
「……お前だ」
震える声は、確かにボクに向けられていた。
ボクらは、この瞬間友達であることを放棄せざるを得なかった。
当然だが、ボクは毛頭その気はない。想像したら吐き気さえ覚えた。雨橋と? 馬鹿げてやがる。雨橋だってそれは分かっていたんだろう。それきり何も言わぬまま、一人で屋上から逃げるように去って行った。後ろ姿はどうしようもなく男だ。ボクの親友の見慣れた背中以外には、どうしても見れなかった。
残されたボクは一体どうすりゃいいんだ。八幡、向山、教えてくれよ。
雨橋、投げっぱなしは卑怯じゃねえか。自分の言葉には自分で責任とってくれよ、雨橋。
お前は、これからどうするつもりなんだよ。