3 豚を愛する
「書き終わりましたか?」
執事がバスケットを片手に部屋に顔を覗かせた。ボクは椅子に腰掛けたまま黙って執事に封筒を突きつけて、わざとらしく溜め息をついてみせた。執事は封筒を受け取って、それを興味深げにまじまじと眺め始める。色がブラックになったりするような分かりやすい変化はないのに。
「中をあらためさせて頂いても?」
「ダメでーす」
突き出した封筒をボクは取り上げて、意地悪く言ってやった。執事の渋面と不満げな視線が心地よい。
「何も変なもんは入っちゃいませんよ。この部屋にはカミソリとかもないし」
「……それもそうですね」
再び執事に封筒を返す。今度は眺めることもなく、さっさと胸ポケットに差し込んだ。
「じゃそれを、凉香お嬢に渡して下さい。あ、お嬢には中を見てもらって下さいね。色々適当なこと書いちゃったから、最後の添削してもらって下さい」
「仰せの通りに」
「あと、必ず凉香お嬢が朱鷺乃宮さんに直に渡す事。人伝じゃ、呪いはかかりませんから」
「承知いたしました」
執事が何度目になるのか分からない低頭の姿勢を取る。
やはり彼の表情は浮かばれない。必死に無表情を作っているが、滲み出る悔しさが隠し切れていない。一方こんな状況でも、何となくボクは浮かれ気分だった。一筆終えた達成感もあるのかもしれない。
「……執事さん。お嬢の事、好き?」
不躾に唐突に出し抜けに、ボクはそんな事を聞いてみた。執事はバスケットをボクの書斎机に置いて、開けた。中身は美味そうなサンドイッチだ。
「もちろんです。主のご息女であらせられる方をどうして嫌うことなぞ出来ましょうか」
「そうじゃなくって……なんだ、女の子としてと言うか、異性としてと言うか……」
執事はボクの言っていることが分かっているのかいないのか、口をぽかんと開けたまま瞬きを繰り返している。ここはちょっと慌てふためくとか、そういう初々しいリアクションをすべきだろうが。分かっていないなこの男は。
「じゃぁ、質問を変える。今好きな人は?」
「………………いません」
不自然な間。
「近い将来、結婚の予定は?」
「ありませんが……なんなのですか、この質問は。意図を汲みかねます」
「大したことじゃないさ」
サンドイッチを一つ摘んでみる。ハムもチーズもレタスも良いものを使っているんだろう。鼻を抜ける香りがとても濃くて、美味しい。あっという間に二つ、三つと食べているうちにバスケットは空になってしまった。全部食べて満腹になってからようやくボクは攫われて以来何も食べていなかったことに気がついた。
「それじゃ、帰らせてくれ。もう用事は済んだでしょ」
「そうでございますね。では、先程の前金を……」
執事がベッドの下から諭吉の束を差し出してくる。やっぱり厚いし、重いし……ちょっと、受け取る勇気がない。
だからボクはその差し出された札束の上から十枚程適当に抜き出してポケットに突っ込んだ。
「これで十分大金ですよ、ボクにとっては」
「……本当に、ですか? こちらとしてもそれでは少々不満なのですが」
ボクは部屋の扉に向けて歩き始めた執事の困り顔を見て笑っていた。
うん百万、うん千万の金があれば、そりゃあもう色々な事が出来るんだろうとは思うけど、やっぱり今は欲しくない。それにボクのしたことは、ただ単に手紙を書いただけだ。そんな分不相応の報酬を受け取ったら、自分がダメな人間になる気がしてならない。
「では、今回の件は我々の借り、と言うことで」
「それ普通ボクから言うべき言葉ですけどね。『これは貸しだ』って」
「もしもお困りなことがありましたら、いつでも私共に御一報下さい。中原一族が全霊を以て貴方をお助け致しましょう」
ありがたい限りだ。多分、お金をもらってハイさようならよりもよっぽど良い報酬をもらったと思う。
「執事さん」
「はい、なんでございましょう」
最後に一つだけ、彼には言っておいた方が良い言葉があると思ったので、ボクは口を開いた。
「耐えて、待ってあげて下さい。きっと良いことがあるから」
「……心得ておきましょう」
執事はそれだけ言って、もう二度とボクの方を見なかった。
*
ボクが家に帰ってきたのは、攫われて二日後の朝のことであった。
親には中原製薬の方から連絡がいってたらしく、なんの心配もされなかったのはかえってありがたい。別に体に不調をきたしていた訳でもないので普通に学校に行き、その放課後のことだ。
今日も今日とて美術部の部室で活動をしていたボクと東ちゃんは、二人並んで下校の道を歩いている。他の部員達も同じ時間に終わったのだが、何故か周りは東ちゃんをボクに押し付けようとする。東ちゃんは見た目もヤンキーっぽくてちょっと怖いし、言動はマジでヤンキーだから、まともに接しているのは美術部ではボクと精々あと一人だけだ。
いつの間にか世話役にされているのは少々癪だが、別に嫌ではないので口は挟まないようにしている。
「へぇ、ラブレター書かされるために攫われてたんすかぁ」
東ちゃんは本当に驚いたようで、土を被ったドングリみたいに丸くてくすんだその目を見開いていた。
ボクは、彼女にはいつも全てを話す。一人で抱えていてもつまらないし、なにより東ちゃんは結構真面目に聞いてくれる。その上不用意に他人には話さない。これほど相談役として向いている人間も珍しいと思う。
この事は口外するなとは執事の神山さんに言われたが、知ったこっちゃない。この子はボクがこの世で親よりも信頼している子なんだから問題ないのだ。
「お嬢様がジジイの愛人に差し出される……酷いラブレターもあったもんすねぇ」
「まぁ、凉香お嬢もその覚悟はあったみたいだし、それを無駄にも出来ないからね。書いてあげたよ、ラブレター」
「うへー。お嬢様すげーなー。アタシがそのお嬢様だったらぜってぇ好きな人宛のラブレター頼むわ。そうすりゃ、多分何があってもそのジジイの愛人にはならないだろうし。会社とか従業員とか知ったこっちゃねぇっすよ」
東ちゃんがお嬢様だったら……か。東ちゃんが凉香お嬢と同じ格好で泣いている姿を思い浮かべて、ボクは吹き出してしまった。
似合わねぇ。
彼女程泣き顔の似合わないと言うか、面白そうな女がいるだろうか。そんな事を考えていたら東ちゃんが、「何か今すげー失礼な事考えたろ、先輩」ボクの後頭部を思いっきりグーで殴りやがった。本当に暴力的な女である。
「……ボクも東ちゃんの発想はあったんだ」
「でも、やらなかったと」
「いや? やったよ、それ」
並んで歩いていた筈の東ちゃんの脚が止まる。振り返ると、東ちゃんは訝しげな目でボクを見ている。
「もしやさっき頭殴ったから記憶が混乱」
「してない」
「だって先輩、お嬢様からジジイ宛のラブレター書いたって」
「それも書いた。でも、もう一つあるのさ」
実はボクは手紙を二通書いた。ラブレターの端を千切って書いたもう一通が存在するのだ。
一つは、凉香お嬢から朱鷺乃宮秀久へ向けた、頼まれた通りのラブレター。もう一つと言うのは……。
「執事の神山さんから凉香お嬢に向けて当てたラブレターを一通書いてやった」
凉香お嬢が執事神山の事が好き……って言うのは、ボクの推察である。凉香お嬢は神山さんに容姿を褒められたことをえらく喜んでいたから。これで間違ってたら本気で悲劇だけど、伊達にラブレターの代筆なんてことはやってない。
自分自身の恋愛はからっきしでも、他人の恋愛に対しての感覚は結構鋭敏だと自負している。
……神山さんはどうだか知らないけど。凉香お嬢のことは少なくとも嫌ってはいない筈だ。やんわりとした好意を抱いている……程度に仄めかす恋文を記しておいた。
「……お嬢様に向けて、すか?」
「あぁ、そうさ。執事からお嬢に向けて」
お嬢様から執事に向けて、ではない。飽くまでも執事からお嬢様に向けて。一応、ちゃんとした意味はある。
「全部終わった後、執事にラブレターを託したんだ。お嬢様に渡して、中身を確認してくれって」
「……その中身に、執事からお嬢様に向けたラブレターも入ってるっつぅ事っすか」
「そう言うこと。多分、無事執事からお嬢様に向けての愛の手紙は手渡されてるはずだ。本人にその気はなくてもね」
無事『差出人』の執事神山から『受取人』中原凉香へのラブレターの受け渡しは成功した。これでお嬢様は好きな人と相思相愛。めでたしめでたしっと。
「あれ? お嬢様からジジイに向けての手紙も書いたんすよね?」
「一緒に入っているよ。だから、多分その手紙も無事、秀久さんの所へ行くだろうな」
「…………それ、どうなるんすか?」
凉香お嬢は秀久さんの愛人になる。それが、彼女の望むことだった。そうしなければ中原製薬は倒産の危機に晒される。それを防ぐ為に、彼女は己を投げ出す決意をしたのだ。その決意をボクの一存で無碍にして、一万人の従業員の人生をボクの身勝手で歪める訳にもいかない。
だから、その手紙も一緒に入れた。
「村井先輩の例を考えると、答えは明白だろ」
「お嬢様は、ジジイと執事の両方と……」
「二股をかけてもらうことになる」
これがボクの中での、最善の答えだ。
凉香お嬢から秀久さんへの手紙だけでは、凉香お嬢の本当の気持ち……執事神山への恋慕の気持ちがかすれて消えてしまうかもしれない。凉香お嬢はそれも甘んじるつもりだったのかもしれないけど、ボクは容認出来なかった。
だから凉香お嬢には、二人とも愛してもらうしかない。
そうすれば、彼女本来の感情は生き続ける。執事への想いを断ち切らずに済むのだ。
「それに、秀久さんはもう八十の老人だ。いくら絶倫とはいえ、精々あと十年だろ。彼が死んだ後、凉香お嬢は堂々と執事神山と愛し合えばいいさ」
それがボクの計画が上手くいったときの理想像である。凉香お嬢はまだ二十前後。十年経ってもまだまだやり直せる歳だ。そこから傷ついた心を執事と愛を育むことで癒していけば良い。
「…………平然としないで下さいよ。人死にの期待とか、先輩の考えてることって結構最低なんだし」
ボクは自分の壮大な青写真を語ったんだが、東ちゃんは眉を下げて、悲しそうな顔をしていた。本気で憐れんでるような表情である。
「……二人とも愛する……って、それ、本当にお嬢様の本来の感情が生きてるって言えるんすかね? アタシは『誰々が嫌い』って感情だって、その人の人となりを作る立派な……大事にすべき感情だと思います」
東ちゃんはボクの作戦には否定的なようだ。えらく真面目な声を出す。似合わないよ、東ちゃん。
「先輩ってホント自己中っつか、独善的っつか……マジで頭ぶっ飛んでますよね。自分で勝手に解釈して、自分で勝手に善かれと思って余計なことして……自分の納得いく結果になりゃ全部ハッピーって訳じゃないんだぞ」
「……こりゃエラく辛辣な評価だな」
これでも一応考えられる計画では最良の物を選んだつもりなんだがな。それとも東ちゃんは、ボクがラブレターを書かないまま死ぬまで中原家の一室に引きこもってれば良かったとでも言うのか。
「知ってるんだぜ、東ちゃん。君、ボクが行方不明になってたことメチャメチャ心配してたんだろ」
「……してねぇし」
顔が赤い。説得力は全くない。ボクは自分の携帯電話を取り出して着信履歴を呼び出し、東ちゃんに突きつけた。
「他の奴もちょっとはあるけど……十回もかけてきたのは君だけだぜ。日付は全部昨日。大体部活開始時刻から……あらら、深夜二時まで」
「………………」
「メールも来てる。五通も。『先輩、部活こねーの?』『先輩、学校休みっすか?』『風邪でも引いた?』『返信してくれよー』『頼むから返信して。心配になってきた』……ふふ、萌えるな」
「フンッ!」
東ちゃんの気合いの入った声と共に、ボクの視界が真っ暗になった。
コイツボクのこと好きなんじゃないかとかたまに本気で思うんだが、好きな相手にはサミングなんてえげつない攻撃をしないだろう。ツンデレにしちゃやり過ぎだよ。……って言うか東ちゃん、本気でボクの眼球を潰す気で来やがった。両目が尋常じゃなく痛い。こりゃ視力落ちかねん。
あまりの痛みにアスファルトの上でもんどりうってるボクの背中をつま先で蹴っ飛ばしてから、東ちゃんは大股で先を歩いて行ってしまった。
「可愛いんだか可愛くないんだか……」
起き上がって目をしばたかせていると、ぼやけた視界の真ん中に手が差し出されているのが見えた。
東ちゃんかと思って握ってみるのだが、感触は男のそれに近い。って言うか男の手だった。顔を上げると、執事神山が目の前に居た。情けなく眉毛を下げるその表情は、ボクの初めて見る弱々しい顔だった。
「大丈夫ですか? 彼女さんと喧嘩でしょうか?」
「そんなとこです。彼女じゃないけど」
助け起こされるボク。振り返った先では、ロールスロイスが狭い道路の大半を我が物顔で占拠していた。
凉香お嬢も中に居て、助手席から窓ガラス越しにボクの方に手を振っている。ボクは彼女を何となく直視出来ず、曖昧な微笑みを浮かべながら顔だけ向けることしか出来ない。
折角のロールスで助手席とか何考えてんだよ。後ろに人が居なきゃこんなのただのデカい車じゃないか。なんてことを心の隅で思っていたら、凉香お嬢は自分から車を降りて、ボクに小さく頭を下げた。
「堂島様、ありがとうございます。ラブレターを送って以来、何だか秀久様の容姿がまるで子豚の様に妙に愛らしく思えて」
「…………」
「本当に、どうお礼を申して良いものか……」
嫌いって感情も大事。
東ちゃんに言われたその言葉がまだ耳の中で反響している気がした。
ボクは彼女の『秀久さんを嫌う気持ち』を殺してしまった。彼女の心を形成する感情を、無理矢理に捩じ曲げてしまった。
洗脳。
そんな不吉な単語が思い浮かんだ。ボクは頭を振ってその考えを追い出す。だって、他ならぬ彼女が望んだことじゃないか。だったらボクは何も間違っちゃいない。……とは思うんだけど、やっぱりボクは凉香お嬢と目を合わせられず、思わず執事の方を見てしまった。
執事はと言うと、彼は彼で凉香お嬢の言葉に少々苛立っているのか、小さく拳を握りしめている。男の嫉妬は見苦しいぞ。
「それに……まさか神山との仲も」
「お嬢様、それ以上は」
「良いではありませんか」
凉香お嬢は、執事神山の耳元で小さく囁きながら、頬に啄むような軽いキスをした。挙げ句やったお嬢もやられた執事も、二人とも真っ赤っかで視線を逸らし合う。中学生カップルか。微笑ましいったらない。
「神山との仲まで取り持って頂けるとは。私の長年の夢が叶いました」
「やっぱり、ボクの予想通りだったみたいですね」
「……そんなに分かりやすかったかしら」
凉香お嬢は自分の頬を引っ張ったり上下に振ったりしている。社長令嬢の変顔なんてそう拝めるもんじゃない。執事神山が止めさせるまで、ボクはしっかり堪能させてもらった。
「凉香お嬢」
「はい」
ボクのやったお世話は、やっぱり大きなお世話だったんでしょうか。それを聞いて確認してみたかった。でも、やっぱり聞きたくない。曖昧にしておいた方が良い事だってある。それにお嬢はボクに感謝しているって言ってるじゃないか。きっと、ボクのしたことは正しかった。そう信じ込みたかった。
「……幸せになって下さい」
「ふふ、ありがとう。可愛いキューピットさん」
凉香お嬢は、そっちがキューピットなんじゃないかとツッコミを入れたくなるくらいに愛らしい微笑をボクに向けた。
そうか。この人は、こんな綺麗な笑顔が出来るのか。それを知れて良かった。笑ってくれて良かった。それだけで肯定された気分になるボクも単純だが、もうそれで満足させてくれ。
くそぅ、東ちゃんが変なこと言い始めるからボクが混乱する羽目になるんじゃないか。見ろよ、この二人の幸せそうな笑顔! 仲睦まじい様を! ボクの何が間違っていると言うんだ、東!
「執事さんも……凉香お嬢が秀久さんのところに行く以上、しばらくはお預けでしょうけど」
「……いやなに。待ちますとも。何十年でも、ね」
……彼は、待つ。愛しい人が醜悪な老人を愛するのを、端で何年も見続けることになる。一体、どんな気持ちで……。いや、もう考えない。これで良かった。何もかも上手くいく。全員ハッピーな人生を送ってくれるに決まっている。
「では、我々にも用事がありますので、これで」
執事はそう言いながら、ボクの制服の胸ポケットに何かを突っ込みながら立ち上がり、リムジンに乗ってさっさと住宅街の彼方に消えていった。一体何をポケットに入れられたのかと取り出してみると、それは小さな紙切れだった。
「『フランス料理クレセント 料理長花村肇』」
さすが、金持ちは食う物も格別らしい。
裏には「とても良い雰囲気の御店です。是非愛しい人と」と走り書きがなされている。いつの間に書いたのだろう、恐るべき早業である。一般高校生風情が高級フレンチなんて食う訳ねぇだろ……と言いたいところだが今のボクはそう言えば妙に懐が温かい。
ウン百万のうちの十万程度だが、十万円は十万円だ。
折角紹介してもらったんだから、さっきのあの暴力女の心配料と御機嫌取りに使わせてもらおう。ボクは着信履歴の一番上に残っていた東奈々の番号に電話をかけた。