1 中原製薬株式会社
「堂島君にラブレターの代筆を頼むと、必ず恋が叶う」
人の噂も七十五日と言うが、一年以上経った今でも代筆依頼は後を絶たず、ボクが書いたラブレターは通算三十通。ボクがくっ付けたカップルで別れた人は今の所ゼロ。
「堂島君にラブレターの代筆を頼むと、永遠の愛が手に入る」だなんてうさんくさい宝石店のキャッチフレーズもいよいよ現実味を帯びてきた。いわば呪いの手紙である。大抵の人間は幸せの手紙と思うかもしれないが、それは間違っている。
例えば村井秀和生徒会長は今、四股をかけている。四人とも、ボクのラブレターが切っ掛け。彼女のうちの一人を除いて、三人は村井先輩の四股を知っている。
なのに、別れない。
別れたくない、と申す。
理由は各々様々あるはずなのだが……
「これは、先輩のラブレターの呪いですよ」
とどのつまりはそう言うことだ、とボクの後輩の東ちゃんはタバコを吹かしながらそう言った。ボクがラブレターを代筆してやったと言う事実そのものが村井先輩と四人の女の関係を縛り付けているのだと、大真面目に宣った。
洒落にならないのだから困る。
そんな呪いなんてきっとぶっ飛ばせる、とボクは必死に否定したいが為に、今でもラブレターの代筆を承っている。数をこなせば一組くらい別れるに決まってる。東ちゃんは渋面だが、ボクはそれを未だに期待している。
そんなボクに一際異彩を放つ依頼が舞い込んだのは、間もなくクリスマスを迎える十二月の頭の頃だった。
「アナタが堂島駿介様でございますね?」
部活を終えて帰宅したボクの家の前で、かっちりとした執事服に身を包んだ、二十代後半くらいの背の高い男が待ち構えていた。町中で一人そんな格好をしているとは中々勇気ある男だが、どうやらソイツは伊達や酔狂でそんな格好をしているわけではないらしい。
彼の傍らには……というか彼が傍らに佇むように、狭い住宅街の道路にファントムが停まっているのが目に飛び込んできた。
中流程度の住宅街にロールスロイスが停車している異常な光景は、もしかしたら印象派に傾倒した美術部部員の誰かが興味を抱くかもしれない。思わず携帯電話の写真機能を呼び出しかけたところで、ボクは我に返った。
「ど、堂島はボクですが」
「大変不躾とは存じておりますが、少々お時間を頂きたい。ご同行願います」
執事服の男はオペラのテノール歌手のように爽やかな声で、しかし反論を受け付けぬと言わんばかりに強い語気でそう言った。
逃げたい。
だが、生憎ボクの家の入り口は男に塞がれている。徐々ににじり寄る男。後ずさるボク。
「……一応家の人に言ってから」
「いえ、その心配はございません。貴方様の家人からは既に許可を頂いております」
男は胸ポケットからチラリと諭吉大先生を覗かせて、小さく頭を下げた。買収でもされたのか、ウチの家族は。ボクはいつの間にか歩幅が大きくなっていたようで、男とロールスが少し遠のいた。
「警戒されるお気持ちも分かりますが……私は決して怪しい者ではありません」
「怪しい人はみんなそう言うんですけどね」
「では、これをどうぞ」
男は格闘技経験者かと思う程素早い足取りでボクとの間合いを一瞬で詰め、ボクの手に何かを握らせる。てっきり先程の諭吉かと思いきや、ボクの掌に乗っかってたのは小さな名刺だった。白地に黒でシンプルなその名刺に書かれている名前を、ボクは無意識的に読み上げていた。
「株式会社中原製薬代表取締役社長 中原和人」
中原製薬と聞いてピンとこない人間の家には、きっとテレビがないのだろう。
連日ガンガン風邪薬、栄養ドリンク、胃腸薬、清涼飲料水など多様な商品のCMを流しているのはボクでも知っている。要するに日本の誇る大企業だ。そして今ボクの手に握らされているのは、その大企業の社長の名刺である。
途端に冷や汗が頬を伝った。
「……これ、なんですか?」
「私の主にございます。主はどうしても貴方に頼みたいことがあると仰せておられます」
恭しく頭を下げた執事は、得意げな顔をするでもなく淡々と述べた。余計に現実離れした話になってきた。
そんな日本の誇る企業のお偉いさんが、どうしてボクの身柄を欲しがる。
「さ、それでは……」
男はボクの腕を掴んで、軽く引っ張った。
力こそあまり強くはなかったんだけど、不思議と体の重心がぐらりと揺らぐ。つんのめった。このままだと転ぶ、と手を突き出すまでもなく、男がボクの体を支えた。
全身を彼に預ける形になったボクの首筋に、軽い衝撃が走る。
痛みはなかったんだが、急に頭の働きが鈍くなったように、目の前がぼやけていく。まさか手刀だろうか。そんなの時代劇の殺陣とかでしか見たことがない。
「手段は選ばぬ、と主は申しておりますので。どうかご容赦下さいませ」
執事の声が遠く聞こえ、ボクは意識を手放した。
*
目が覚めたボクは、キングサイズのベッドの上に仰向けで寝転んでいた。
思わず飛び起き、辺りを見回す。
部屋の広さは……良く分からない。パッと見て畳数で表現出来ない位広い。多分、この一室だけで我が堂島家で一番広い部屋、リビングを超えている。そして天井にはシティホールかと勘違いしてしまいそうな豪奢なシャンデリア。床の赤いカーペットはよく手入れが行き届いているのか、シャンデリアの明かりに照らされて輝いてさえいるようだ。
「金持ちの寝室」と言われて庶民が即座に想像するようなきらびやかな寝室に、ボクは居た。
今更気がついたけど、ボクが寝かされていたベッドの肌触りが薄気味悪いくらいに心地良い。
子供の頃、雲に乗れたら良いなと言う妄想をしていたことが有る。きっとふわふわで温かくて気持ちいいんだろうと有り得ぬ夢想をしたもんだが、その夢想がまさに現実となったらきっとこんな風なんだろうな、とボクはぶっ飛んだ頭でそんな事を考えた。
寝起きで頭がボーッとしている。全てが現実離れしていて、未だに夢を彷徨っている気分が抜けない。
「おはようございます、堂島様」
部屋の隅っこにある入り口が開くのと同時に、先程の執事がティーセットを片手に現れた。しずしずと、ネコみたいに足音を立てない。さっきの体術といい、彼は忍者の末裔かなにかなんだろうか。
「御気分はいかがであらせられますか?」
「……気持ち良過ぎて気持ち悪いです」
「それは何とも複雑なご様子。目覚めのアロマティーはいかがでしょうか?」
執事は爽やかにスマイルしながら茶をカップに注いで、ボクに差し出していた。
変なものでも混入しているんじゃないかと気がかりだったが、執事はまるで時を止めたかのように、カップをさし出したまま微動だにしない。渋々受け取って匂いを嗅ぐと、バニラの甘い香りとショウガの爽やかな香りが一体となってボクの鼻をくすぐった。
「一服盛られているのを懸念しておられるのならば、今私がここで一口飲んでもいいのですが」
「別にいいです」
そこまで警戒してるわけじゃない。先程見た名刺と言い、ファントムと言い、この部屋と言い、ボクが身代金目的等で犯罪者集団に誘拐された訳じゃない事は承知だ。
素直に口を付けて、軽く啜る。それだけで紅茶の匂いが口から溢れて鼻から抜けていく。目を瞑ると、行ったこともない様な異国情緒溢れる山間の村々で、収穫祭に浮かれる農民達がマイムマイムを踊っている景色が見える気がした。
この茶の値段は絶対に尋ねまい。
「お茶、ありがとうございました」
「おや、もうよろしいので?」
「なんか美味し過ぎて、ボクには合いません」
まだ半分程残っている紅茶を突き返して、ボクはようやくベッドから降りようとすると、執事が素早い身のこなしでボクの足元にスリッパを滑り込ませる。
「あ、スリッパありがとうございます」
「お客人をもてなすのは当然の義務です」
拉致してきた人間のことをお客人と言っていいのだろうか。この人のルールじゃぁいいんだろうな。
「大変な乱暴を働いてしまったことは、深く陳謝致します。しかし事態は急を要しておりますので」
「何の話かさっぱり分かりませんね」
「貴方にラブレターを書いて頂きとう存じます」
執事は端的にそう言って、一度小さく頭を下げた。
ボクは顔を顰める。
ラブレターを書けだ? なんで? 誰に?
次に執事が顔を上げた時、彼は一歩ボクに歩み寄り、耳元に口を近づけた。
「Love Letter……です」
巻き舌の利いたバッチリの発音だった。リスニングのCDの声かと思った程だ。別に二人しかいないんだから寄る必要はないし、小声で愛を囁くように言う必要もないし、言い直す必要さえない。ぶっちゃけ男にこの距離から話しかけられるとアレな感じなので、マジホント勘弁して下さい。
「ちゃんと聞こえてます」
「そうですか。ならば、話は早い」
執事は胸ポケットからクリーム色の厚手の和紙封筒と、金縁で彩られた便箋を取り出し、ボクに押し付けた。
多分便箋も合わせてボクの月の小遣いくらいの値段なんだろう。そんなのが有るかどうかは知らんけど。
「貴方には、我が主のご息女であらせられる中原凉香様の恋文の代筆をお願いしたいと思います」
「……ラブレターの、代筆ですか」
「貴方の噂は存じておりますとも」
能面のような無表情執事だが、その顔の奥にドヤ顔が浮かんでいるような気がするのはボクの気のせいだろうか。執事はまたしても胸ポケットに手を差し入れ、掌大のメモ帳を指で摘んで取り出し、開いた。そのポケットは四次元にでも繋がっているのだろうか。
「公立緑森高等学校二年一組の堂島駿介にラブレターの代筆を頼むと、必ず恋が叶う。これまでに貴方の手で生まれたカップルは三十組を超えており、破談に至ったカップルはゼロ。最近では堂島のラブレターは永遠の愛を約束してくれる、堂島は縁結びの現人神、堂島先輩はカエルの干物とイモリの黒焼きで呪いを生み出す呪術師、などの噂も」
「……最後のは東ちゃんだろ」
「御名答。東奈々様が、貴方の崇高なる特異能力を貶めるような発言をなさっていたようなので、私がこの手で……」
執事はそこで言葉を切って、音を立てながらメモ帳を閉じ、わざとニヤリと微笑んだ口元を一瞬ボクに見せてから、手で首を切る動作をしやがった。ボクは今、どんな顔をしているんだろうか。執事が笑ってしまう程へんてこな顔なんだろう。
全く、面白くない。
「堂島様、顔色が優れぬご様子ですが、これはただの戯れにございます。東様にはお話を伺っただけですよ」
「……あのねぇ、ボクは無理矢理こんなとこ連れてこられてイライラしてるんですよ」
「これは大変な失礼を。では、早々に事を運びましょうか」
執事がボクの腕を軽く引く。今度は蹴つまづくこともなく、ボクは部屋の隅にあった漆塗りのテーブルに座らされた。そしてインク壷と羽ペンを手渡され、実時はもう一度小さく頭を下げる。
「では、よろしくお願い致します」
「……何を?」
「ですから、凉香お嬢様の恋文の代筆です」
そんなことも分からないのかこのバカ野郎と言外に言われている気がした。それはさっき聞いたが、凉香お嬢様って言うのは、中原製薬の社長の娘って認識で良いんだろうか。そう尋ねると執事は小さく頷いた。
「差出人は中原凉香、と。宛名は朱鷺乃宮秀久様、でよろしくお願い致します」
「朱鷺乃宮……どっかで聞いたことある気が」
「朱鷺乃宮化学株式会社の現社長にして、朱鷺乃宮グループの会長です。実質的な朱鷺乃宮グループの最高権力者にあたります」
朱鷺乃宮グループ。当時のボクはとりあえず、すごい金持ちなんだな、くらいの認識しか抱いていなかった。
後にWikipediaで調べた所、旧財閥系の企業グループの中で財閥解体後も結束が固い……んだそうだ。ついでにそのままWikipediaで関連企業を眺めていくと、銀行、自動車工業、化学、運輸、食品系の企業がずらずらと並んでいて目がチカチカした。
特にグループの中でも朱鷺乃宮化学は中原製薬に並ぶレベルで良く日常に耳にする会社である。なんにせよ、やんごとなき家柄と言うことに間違いはない。
「我が中原製薬と朱鷺乃宮化学は互いにしのぎを削り合う間柄でして」
「ライバル企業ですよね。どっちも似たような風邪薬とかスポーツドリンクとか出してるし」
「ですが、現在不景気の煽りを受けて中原製薬の取引先が相次いで倒産、我が社の関連子会社にも、不渡りがちらほら。……ここからはオフレコでお願いしたいのですが」
執事は声を潜めた。辺りに視線を配った所で誰も居ないし、ボクはレコーダーなんて持っちゃいないが、それほど警戒して話す必要がある事なのだろう。
「今期の業績は朱鷺乃宮化学に大きく水を開けられることでしょう。事業縮小化計画も水面下で進行中です」
「……で、それがボクのラブレターとなんの関係が?」
執事は最早呆れ果てたと言わんばかりに眉を少しだけ下げた。ボクには何の話をしているのかはさっぱりだ。企業経営の話は公民科目で間に合っている。
「腐った枝葉は、やがて幹に通じ、樹木全体を腐敗させる。今はまだ目に見えてはいませんが、やがては中原製薬の倒産も考えられます。我が主はそれを懸念して手遅れにならぬうちに、秘密裏に朱鷺乃宮化学と取引をしました」
「……取引」
「はい。ここからは、重ね重ね、くれぐれも口外なさらぬよう。もしも情報が漏洩した場合は、最悪の事態を考えて下さい」
執事は、また親指で首を切る動作をした。今度は真顔で。
全身が毛羽立った。
聞きたくねー! なんだよその最悪の事態って! ボクは殺されでもするのかよ! ……と大騒ぎしかけたが、執事に肩を掴まれて動くことさえままならず、ボクは唾を飲み込んだ。
「中原製薬が朱鷺乃宮化学に企業合併を持ち掛けたのです。事実上、吸収されることになりますが……倒産よりはマシです」
「……偉い大規模な合併ですねぇ」
「ですがこちらの経営不審は明々白々。当然秀久様も渋られていたのですが、ある条件を提示されました。これを満たせば合併の話は前向きに見当する、と」
「……その条件は?」
「中原凉香お嬢様でございます。お嬢様を……愛人として迎えたいと」
執事が肩を握る力が強まった。骨が軋むかと思った程だ。ボクがタップして痛みを訴えると、彼は慌てて手を離して、一つ咳払い。眉間に寄ってしまった皺を、必死で指で伸ばしている。元々難しい顔してるのであまり効果はない。
「屈辱的な条件ですが……主はこれを了承しました。確かに、これを機に経営の立て直しはおろか、朱鷺乃宮グループとのパイプを繋ぐことも出来る。経営者としては強かと言えましょうが、実の娘をよりにもよって目の敵にしている、自分と同世代の男の妾に送るなど、これが果たして親の所業と……」
執事は慌てて口を押さえる。今更であるが、この男自身は恐らくその交換条件には反対なのだろう。ボクは彼の慌てぶりには気がつかない振りをして、話を続けた。
「で、そのお嬢様は愛人として迎えられるのには?」
「喜んでおられるとでもお思いですか? 誰が好き好んであんなタヌキジジイの愛人になど」
「んじゃ、なんでボクは彼女のラブレターの代筆をしなきゃならないんですか?」
「お嬢様のご意志とは無関係でも、貴方が凉香お嬢様の名義で秀久様にラブレターを書けば、それで良いのです」
そうはいかないのだが。
『差出人』の正直な気持ちを込めなければ、ボクのラブレターの呪いは成立しない。
「せめて……お嬢様が苦しまぬよう、一息に……」
サイボーグ染みた仏頂面に、手で作ったハートマークの組み合わせは非常にシュールだ。口を挟むタイミングを失ってしまい、ボクは迷った挙げ句話を変えた。
「一企業の経営が関わってるのにそんなオカルト話信じちゃっていいの?」
ボクがラブレターを書けばそれで何もかも万事オッケーって、いくらなんでもファンタジーだろう。俄には信じ難い話だと思う。ボク自身さえ疑っているのだから。
「実際の所、私もこんな眉唾話に飛びつくのは如何なものかとは思いましたが……何しろお嬢様のお気持ちを秀久様に向けるのは、それこそ超常現象にでも頼らねば不可能でして」
「なんです、それ」
「どうやらお嬢様には、別に意中の殿方がおられるようなのです」
話が更に面倒臭いことになってきた。
老人の愛人へと身を堕とす病弱の深窓の令嬢(この辺は若干ボクの妄想と願望が混じる)には、好きな人がいた。しかし愛し合う二人の仲(片想いと言う発想はなかった)を、ボクは手を尽くして無惨に引き裂かねばならないらしい。
『実験台』には相応しい。他に好きな男が居る女性を差出人として、嫌っている男にラブレターを送ると、どうなるか。
興味がないとは言わないが、そこまで完全無欠な悪役に徹した事はかつてなかったので、どうにも気が引ける。
「ちなみに、その意中の殿方ってのはどっかの御曹司だったり?」
「お嬢様は、それはそれは箱入りに育てられておりまして、ご友人やお知り合いは皆無なのですが……立食パーティ等でお知り合われる機会もあります。……恋をすると女は綺麗になるとよく聞きます。お嬢様は最近は殊更にお綺麗になられました。いえ、元々容姿、お心ともに天使のように麗しゅうお方なのですが、やはり恋をするとそれに一段と磨きがかかると言いましょうか」
「もういいです」
なんか惚気話がはじまったので、さっさと切る。野郎の惚気を聞いて喜ぶ人間なぞこの世には存在しないのだ。執事は話をぶった切られたのが不満なのか、苛立たしげにつま先を鳴らしている。段々遠慮なくなってきやがったなこの野郎。
それはボクの方もなんだが、それはこの際置いておこう。ここはアウェイなんだからちょっと緊張しているのだ。
「とにかく……よろしくお願い致します」
「お断りしてもいいですか?」
ボクの遠慮ない一言に、執事はかえって冷静さを取り戻したようだった。この返答は恐らく彼の予想通りだったのだろう。
「タダで、などとケチ臭いことは言いません。報酬は弾みますよ。もっとも、我が中原製薬は今が踏ん張りどころですので、少々お支払いには時間がかかるかと思いますが」
「詐欺の手口じゃないんだから」
「ご安心を。前金の用意は出来ております」
執事は小声で囁きながら、ベッドの脇にしゃがみこんだ。何をするのかと思いきや、執事はベッドの下から札束を取り出し、静かにボクの手の上に乗せた。
……厚みが尋常じゃない。なんじゃこりゃ。ティッシュ箱かよ。
そして、重い。普段ボクが英語の授業の際に用意している英和辞典並みに重い。札もここまで集まるとそれなりの重さをもつようである。多分死ぬまでに一度も直に手にする機会のない額を目の当たりにして、ボクは思わず呼吸さえ忘れかけた。
「ご不満がおありでしょうか……?」
「いや、その……」
これが三万とか五万円とかだったら、ボクは二つ返事で了承していたかもしれない。
だが、これはあまりにも金額が大き過ぎる。受け取ったのに失敗したらどうしよう、とか誰かに盗まれるんじゃないか、とか良くない金を受け取ったとして警察に嗅ぎ付けられたりするんじゃないか、とか無意味な懸念が膨らんでいく。
要するに、ビビってた。
一介の高校生風情がこんな大金手にしたら、金銭感覚とか価値観とかがぶっ壊れかねない。震える手で、執事に返さずに一先ず金は脇に置いて、執事を見上げた。
ボクが情けない顔をしているのを見て、執事はいやらしく微笑んでいる。所詮一般庶民、ちょっと大金を見せればすぐに媚びへつらい平伏する……そんな考えが表情に現れているのがよく見える。
この男、結構正直な性格の持ち主なのだろう。
「足りないようであれば、主には三倍までなら譲歩すると言いつけられておりますが」
「受け取れません」
気がついたら突き返していた。いや別にくれるっつーんなら貰ってもいいんじゃね、とちょっと下衆っぽいけど発想もちゃんとあるんだけど。受け取ると、なんか色々と取り返しがつかない気がしてならない。だが執事は、ボクの言っていることが何一つ理解出来ないと言いたげに、興味深そうにボクの顔を覗き込んでくる。
「金を積まれても動かないなんて、貴方は聖人でも気取っていらっしゃるのですか?」
「いよいよ失礼になってきたなアンタ」
「書いて頂けるまで貴方の身柄は私どもが預かると言う形になりますが」
「初耳だよそれ! 要するに監禁じゃねぇか! 通報するぞ!」
「そう仰られると思いまして、携帯電話はこちらの方で預からせて頂きました」
言われてポケットを漁って見ると、本当に空っぽだ。執事はいつの間にか俺の携帯電話を顔の脇で振ってニヤニヤ笑っていやがる。
「事後に訴えて頂いても構いませんよ。そんな気も起きない額を用意しますが」
本当に財政難なのだろうかこの家は。
なんかもうこの男には何度頭を下げられても承る気にはなれそうにない。イライラムカムカ、ここまで腹立つ野郎は恐らく未来永劫出会うことはないだろう。
ようするに、もう顔も見たくない、と言うやつだ。
「執事の兄さん、さすがのボクも差出人の顔も知らぬままラブレターなんて書けません。ですから、その凉香お嬢様って方に会わせてもらえませんか? 出来れば二人っきりで。っつーかアンタが居なければそれで良いんですが」
「…………」
「そんな怖い顔しないで下さいよ。会わせてくれたら書きますから」
「……少々お待ち下さいませ」
執事は逡巡した後、恭しく頭を下げて部屋を出ていった。