10 もう一人の現人神
アパート『ひまわり荘』の102号室の部屋の鍵は無防備にも開いていた。
女の一人暮らしなのにそれってどうなんだ、と思いつつも今は感謝して、ボクは強引に部屋に押し入る。玄関に並ぶ靴はつっかけと合わせて三つ。コンロに乗っかった、少しへこんだフライパン。奥の部屋からは、物音が聞こえてくる。
「邪魔するぞ!」
靴を放り出して上がり込む。
咎める声など聞こえなかったので、ボクは一切の遠慮をかなぐり捨てていた。足音を踏みならし、犯人を追いつめる刑事のような心境で薄戸を開けると、東ちゃんは間もなく登校完了時刻だと言うのに呑気にカップ焼きそばを啜ってぼんやりテレビでニュースを眺めていた。
服装は前も見た部屋着のジャージ。頭で好き勝手に跳ねる寝癖とこちらを見つめる無気力な瞳が相まって、異常なまでのだらしなさを演出する。
「んだよぉ先輩、朝からでけえ声出して。あんま騒がしくすっと隣の大家のジジイが来んぞ。『またお前さんかー!』っつって、入れ歯カタカタ鳴らしながら」
「知るかっ」
どうでもいい。
「さっき吉田さんと会った……!」
「ん……」
ボクの言わんとしている事に気がついたのか、東ちゃんは一瞬だけ箸を止めたが、また焼きそばを啜る。ボクは彼女の腕を強引に掴み取ったが、軽く腕を捻られたかと思うと、あっさり押し戻された。座ったままなのに、ボクは彼女には勝てないようだ。
「暴れんなよ、先輩。どうせその話だと思った」
「……お前、何を知ってるんだ」
「なにって……」
カップ焼きそばの容器の端に口を付けてキャベツの屑を掻き込んだ東ちゃんは、割り箸と一緒にそれをゴミ箱に投げ捨てて一つ大きな溜め息をついてから、ようやくボクを見た。
「吉田先輩とその四股彼氏が別れたってことくらいかね」
口元から八重歯の覗く、悪辣な微笑みをした東ちゃんが、ケラケラと笑った。
心臓が嫌な脈を打つ。得体の知れないものに近付く恐怖と先を知りたい好奇心とが複雑に混じり合った時に響く、筆舌に尽くし難い独特の鼓動だ。
それを感じ取るのは、初めての経験ではない。
ボクだって有り得ない奇跡を何度もこの手で成し遂げてきた。有り得ない出来事を何度も目の当たりにしてきた。
そして、今回だってそうだ。有り得ない事が起きて、ボクは奇妙な興奮を得た。そしてきっとそれはボクだけじゃない。
「お前、何をした」
「……簡単だよ。呪われてるのは先輩だけじゃねえってこった」
東ちゃんはテーブルの端のタバコの箱から一本取り出し、ライターを捜して目を泳がせた。ボクの足元に転がっていたので、黙って手の中に握り込んだ。
「先輩のラブレターとは真逆だけどな」
タバコを諦めたらしい彼女は、部屋の隅に転がっていた通学用鞄の中から一枚の紙切れを取り出し、テーブルの上に置いて皺を広げた。罫線の引かれたちゃんとした便箋だったが、書かれている言葉はシンプルだった。
「村井先輩へ 愛しています 吉田夏美より」
ボクが書いた、と言われても違和感の無い簡素な短文が、乱暴に記されている。筆跡鑑定の資格などないが、この乱暴で女子らしさの欠片さえないような字体は、東ちゃんのものだ。
「こいつと同じものを吉田先輩に渡した。『村井さんの知り合いなんですが、これ、渡しておいて貰えませんか』ってな。あとは先輩のラブレターと同じ。ただし私が書いたラブレターは……」
静かに合わせた両手をゆっくりと離していきながら、東ちゃんは顔をにやけさせた。
「……ま、さしずめ恋の呪いを解くってとこかね」
耳を疑う。
ボク以外にもそんな奇怪な呪いをもった人間がこの世に居た事にも。こんな身近に居た事にも。今まで知らなかった事にも。
驚いた。
「……嘘じゃないんだよな」
東ちゃんは小さく頷いた。これは嘘じゃない。嘘じゃないんだ。彼女には、本当に力がある。呪いを解く力が。
「吉田先輩には悪いが、その証明のために別れてもらったんだよ」
別れた方が良かっただろうしな、と彼女は続けた。
ボク自身もそう思う。ボクのせいでこうなってしまった訳なのだが、このまま四股をかけられたまま延々爛れた不毛な関係を続けるのは、吉田さんも可哀想だろう。吉田さんがもしも全ての事情を知ったら、きっと彼女はボクらを恨むだろう。よくも弄びやがったな、と。それでも構わない。それ程の事はしたのだから。
時間はかかったが、収まるべき所に収まった。そう、本気で思っている。
東ちゃんがやった事は、ボクらが引き出せる中では最良の選択だろう。だからボクは彼女に感謝してやってもいい。だが、それとは別の所がボクには引っかかっている。
「君にはボクの呪いを解く手段があったって事、か」
東ちゃんは口を噤んでいる。その表情は、必死で作った無表情のように見えた。
「なら……どうしてもっと早く教えてくれなかったんだよ……!」
彼女がこんな力を持っているなんて、ボクは知らなかった。
彼女はボクにラブレターを書くのを止めろ、と散々言っていたが、実力行使をしたことはない。アタシがいるから書いても無駄だ、と言えばボクだって書きはしなかったかもしれないじゃないか。
止めようと思えば出来た筈の悲劇。決定権はボクではなく、彼女に委ねられていた筈だ。
なのに彼女はただ黙っていた。ボクが必死に呪いを解く術を探していたその時。コイツは何をしていた。何もせずに、ただボクの隣で、ボクが一喜一憂する様を、必死にもがく様を。
ただずっと眺めていただけじゃないか!
「答えろ東! お前は何がしたいんだよ! 優に捨てられ、海津に嗤われ、全部が全部自業自得なボクをそこまでして嘲笑いたかったのか! 必死になってあがくボクの姿がそんなに可笑しかったか! ボクは一体いつまでピエロを続ければいいんだよ!」
テーブルを蹴り飛ばす。空のマグカップが床の上に音を立てて転がった。
頭に血が上り過ぎていて、足は不思議な程痛みを感じない。大きな物音に、東ちゃんは一瞬だけ身を竦ませたが、まだ無表情でボクを眺めている。
気に食わない。
気に食わない気に食わない気に食わない!
全部ネタバラしして、コイツは今最高に楽しい気分を味わっているに違いない。澄ました顔で、内心では怒り狂うボクを笑いたくて仕方ないのだろう。必死で仏頂面作った所で、ボクには全てお見通しなんだ。
笑いたいんなら笑っちまえばいいんだ。なのにまだ隠し通そうとしている。バレてないと思っていやがる。
視界が涙で霞んできた。ボクは自分があまりにも滑稽で、あまりにも愚かで、あまりにも惨めな事実にこの世の全てを呪った。一番、信じていた人に。一番身近に居てくれた人に。一番ボクを分かってくれていると思っていた人に。
ボクは、またそんな人に裏切られたのだ。
「もう、良い」
自分の涙声が酷く醜く聞こえた。なにがもう良いのか自分でも分からないが、兎に角、もうなんでも良かった。
なんでも良い。どうでも良い。この世の全てが馬鹿らしい。
「じゃぁな、東」
「……ん」
東ちゃんは短く返した。ボクは彼女に背を向ける。顔も見たくない。玄関で靴を履いている最中に、東ちゃんが部屋でバタバタと物音を立てていた。テーブルを戻しているのだろう。
「……先輩」
聞きたくもない声が聞こえてきて、ボクは一瞬振り返ってしまった。
東ちゃんが、相変わらずの無表情で、そこに立っていた。よれたジャージに身を包んだその女は、一瞬だけ感情を見せた。
その顔は、実に良い微笑みを浮かべていた。
「……楽しかったぜ」
皮肉が利いた言葉に、返す気力も湧いてこなかった。




