9 起こりえぬ奇跡
次の日は空も晴れ渡り、気温も程良く高め、ようやく五月半ばらしい穏やかな気候が訪れていた。
しかし頭の中は未だ穏やかとは言えない。東ちゃんの一言は一夜明けてもまだボクの胸の中で渦巻いている。
いつもより早く目覚めて、逸る心を押さえ切れずに辿り着いた教室には、まだ誰も居なかった。
早く吉田さんに合わなければならない。会って確かめなければならない。別れるはずがない。分かっていても、東ちゃんの声が自信に満ちあふれていたのは、気がかりだ。
一人教室で貧乏揺すりしながら三十分程待った頃、ボクの次に教室にやってきたのは、幸いにも吉田さんだった。
「堂島か? いつもは遅刻ギリギリなのに、今日は随分早いな?」
「吉田さん!」
ボクの声に驚いたのか、吉田さんは露骨に警戒心を露にして顔をしかめている。構わずに彼女に詰め寄る。
「ど、どうしたんだ。そんなに慌てて」
「君……昨日、村井先輩に会ったか?」
「な……!」
吉田さんは元々鋭い目つきを更に尖らせて、ボクを突き飛ばした。思いの外力が強くて、ボクは尻餅をついてしまう。やり過ぎた、と思ったのか、吉田さんはすまん、と小声で謝りながら手を差し伸べてくれた。
「……ちょっと、色々あって、な」
「色々って……」
「兎に角、村井さんの話は、しないでくれないか」
背筋が寒くなった。
吉田さんの俯き加減の悲しい顔を見ていると、嫌な予感しかしない。しないでくれないか、と言われても。ここで止める訳にはいかない。こればっかりは、ハッキリと確認する必要がある。
傷口を抉るように、それでもボクは問うた。
「別れたのか?」
吉田さんは口を噤む。しかし、眼鏡の奥の瞳が徐々に潤んでいく。唇が震える。やがて、彼女は観念したように小さく首肯した。
「昨日のデートの後……喧嘩になったんだ。些細な言い合いだった筈なのに、売り言葉に買い言葉で……気がついたら取っ組み合いだった。叩かれるし髪も引っ張られたし、引っ掻いたし噛み付いたし……なんかもう、メチャメチャだったよ」
今まで、一度も喧嘩したことなんてなかったのに。彼女は小さくそう続けた。
「ごめんな、堂島……私が無理言って、引き合わせてもらったのに」
真摯に頭を下げられても、困る。元々彼女達には別れて欲しかった。呪いを打ち破って欲しかった。それを期待して、ラブレターを書いたのだから。
だが、これは釈然としない。
「そう、なんだ」
本当にそうなのか。ボクをたばかっていないか。無意味な疑心が生まれる。すぐに否定する。彼女はボクの知る中で、一番の正義の人なのだ。嘘なんて付ける性格じゃない。
「は、はは……大体、アイツ四股だなんて……なんであんなのが好きだったのか、今じゃ不思議なくらいでさ……っ」
今までの事、昨日の事を思い出したのか、押し殺せなかった泣き声とシャックリが少しずつ漏れ始めた。
吉田さんは自分の席に鞄を置いて、涙で濡れた声で一言、トイレに行く、とだけ告げて、教室から走り去って行った。
本当に、別れたのだ。ボクのラブレターで繋げた赤い糸がプッツンとぶった切れた。
今、どんな感情が浮かんでいるのか、ボクは自分でも分からない。少なくとも、同情とか哀れみのような感情はなかった。そんな事を考えている余裕は、ボクにはなかった。
まず感じたのは、歓喜。遂に、ボクの呪いが破れる事が証明された。長らく願っていた事が、叶ったのだ。次に感じたのは、違和感。破れるはずが無かったのに。何故、今更になって。
そして、疑問が沸き上がる。
東ちゃんだ。
彼女は予言していた。吉田さんと村井が、別れると。そんな筈あるかと馬鹿にしていたのに、そんな筈あった。ボクは震える手で携帯電話をポケットから取り出す。一度落として拾い、もう一度落として、また拾う。激しく動揺していた。東ちゃんの番号を呼び出そうとして、何度も電話帳への操作を誤った。
それでも、電話をかけた。中々出ない。コール音が苛立ちを増長する。もう朝の七時半だぞ。まだ寝てやがんのか。さっさと出ろ。
「……んあー……だれ?」
耳を疑うような舌足らずな声が聞こえてきて、間違えたかと携帯電話を見てみるが、やはり相手は東奈々。鳥肌が立った。悪い意味で。
「……お前、何を知ってる?」
ボクは真剣に問うたのだが、むにゃむにゃという喃語のような言葉にならぬ声が聞こえてきて、一つ大きな欠伸をする。それでも何とか相手がボクだと言うことには気がついてくれたようだった。
「しぇんぱい? んむぅ、もーにんぐこーるとかって、あたひ頼んだっけ……」
「頼まれたってやらねえよ。んなこたぁどうだっていいんだよ!」
「んー……あー。ったく、ねみぃんだよ。あとにしてく……ふぁ、ああぁぁ……」
呂律が回っていないわデカい欠伸はするわ、この女が朝、これほど弱いとは知らなかった。怒りのあまり握りしめた携帯電話が一瞬だけ軋みを上げた。その音で若干冷静さを取り戻したボクは、一つ深呼吸をする。
「お前、具合はどうだ? 声枯れてるみたいだが」
「んー……ま、普通。熱もねえし。治ったっぽいっす」
「そうか、悪いのか。今から見舞いに行く。絶対に動くんじゃあないぞ」
「は? ちょ」
ボクは一方的に電話を切った。今起きたのなら、まだ家に居るだろう。学校を欠席する罪悪感は無かった。それよりも、重要な事はいくらでもあるのだから。




