6 初めての喧嘩
東ちゃんの部屋にはあまり物が無かった。
フローリングにカーペットを敷いて、テーブル一つとクッション二つ。それを家具が取り囲んでいる。本棚には少々の画集や風景写真集などといった、意外にも美術部部員らしいラインナップが並んでいるが、他には教科書くらいしか入っていなかった。半開きのクローゼットには一張羅と思われるレザージャケット以外には、精々ジャージと制服くらいしかかかっていない。
テレビはあるが、ゲーム機もDVDプレイヤーもなし。ちゃぶ台サイズのテーブルはあるが、勉強机はなし。
あと目につくのは精々ベッドと、その脇に鎮座する、一人暮らしが使うにはデカいタンスくらいだろう。
インテリアの類いも、観葉植物も、ポスターとかも無い、彩りに欠ける部屋だ。ボクの部屋程汚いのはどうかと思うが、物が少な過ぎるのも、部屋がだだっ広く感じて落ち着かない。
紺野ちゃんは何度かこの家に遊びにきた事があるらしく、勝手知ったるなんとやら、今は家主の東ちゃんを差し置いて台所でお茶の準備をしている。
「来るなら来るって言えよ……」
胡座をかいて向かい側に座る東ちゃんは、まだヘソを曲げていた。着ているダボダボの紺色のジャージは、どうやらいつも彼女が部屋着にしているものらしく少し草臥れていて、膝の所には擦り切れて穴が空いている。
頭を拭いている手ぬぐいタオルも随分使い込んでいるらしく、所々伸びて薄くなってしまっている。
無防備な女の子然とした風呂上がりの彼女の姿は、僕にはとても新鮮であった。
「悪かったな。本当に具合が悪そうだったからさ。土産も何もないけど」
「……気ぃ利かねえ奴らだな」
東ちゃんがタオルの端を指で落ち着かなく弄っている。先程から、彼女は中々目を合わせてくれない。裸を見られたのは、それなりにショックだったのだろうか。
「……なぁ、東ちゃん」
「んだよ。電話の事か? 忘れてくれって」
「それじゃないんだが……聞いてもいいか?」
「何を」
「お前、どうしてそんなに傷だらけなんだ」
先程ボクの目にハッキリと映ってしまった、東ちゃんの体に感じた違和感。
彼女の体には傷痕があった。
大きな痕が、幾つも。
腹部の、治り切っていない痛々しい数多のミミズ腫れ。胸部に浮かんだ大きな青あざと、火傷の痕。見えなかったが、もしかしたら背中にも。何かあるのかもしれない。
漫画に出てくる歴戦の戦士じゃあるまいし。いや、彼らだってここまで生々しい傷は負わないだろう。
東ちゃんは一瞬息を詰まらせてから、しかしすぐに鼻から息を抜いて苦笑いをした。
「ケンカっすよ、ケンカ。アタシこう見えて、結構有名人なんだぜ。掃除屋の東、なんてあだ名付いてるくれえだ。っつーか、そこまで細かいとこまでみるとか、マジ変態っぽくね? キメエんだけど」
「最近の不良は焼きごてでも使ってんのか?」
「根性焼きはする……だろうぜ。アタシもタバコ持ってるし」
「服の上から? どうやったらお前の胸にタバコを押し付けられるんだよ……」
「……ケンカに負けて、脱がされてんのかもしんねえだろ」
「お前、それって……」
想像しかけてしまった。ボクは今どんな顔をしたのだろうか、それは分からないが、東ちゃんは激しく狼狽している。
「い、今のは例えだよ! んなヘマはやらかしてねえっ!」
「なら、その火傷は結局なんなんだよ」
「……うるせえな!」
東ちゃんはボクの胸倉を掴んで、更に顔をよせた。引き絞られた目に浮かぶ涙を見て、ボクは言葉を失う。必死に歯を食いしばる彼女を見ているのは辛くて、ボクは思わず目を逸らしてしまった。
「なんでもねえから、余計な事を聞くなっ!」
「……分かったよ」
その言葉を待っていた、とばかりにボクはあっさり首肯した。このまま追求しないでボクの胸に留めておいたり、原因を究明して解決に乗り出さずに惚けているのは何と言うか、正義ではないだろう。
だが、残酷かもしれないがボクには、そこまでするつもりはない。
彼女とは、互いに居心地の良い先輩と後輩であるべき。ボクはずっと自分に必死でそう線引きするように言い聞かせている。
だからボクは彼女からの拒絶を待っていた。これを免罪符代わりに、ボクは再び笑おうとしたのだが、どうにも上手くいかない。ぎこちない笑みさえ浮かべる事も出来ない。予定と違う。彼女の事で深刻になるつもりはサラサラないのに。
気まずさが部屋を支配する。薄い壁を暴風が叩き付ける音だけが部屋の中に響き渡っている。
……そろそろ紺野ちゃんが茶を入れてくる頃だと思うのだが、少々時間がかかり過ぎじゃなかろうか。そう思って台所を覗く。
「あれ?」
紺野ちゃんは居なかった。玄関に目を移すと、靴さえない。
そしてボクは扉に目を移し、『お茶っ葉が無いから買ってきます♪』なんて書かれた張り紙を見て、肩を落とした。窓から外を見る。激しく雨が叩き付けられ、時折鋭い稲妻の轟音が耳に突き刺さる。
こんな天気でわざわざ買い物に行くアホがこの世の何処にいるのだろうか。
「薫のヤロー……帰りやがったな」
東ちゃんが静かに憤慨している。眉の当たりがひくついているのを見て、ボクはライオンの檻に閉じ込められたような気分に苛まれた。どうしよう。ボクも早く帰りたくなってきてしまった。
「野郎じゃないぞ」
「……女の場合って何て言えば良いんだ?」
「知らないな」
「つっかえねぇ」
東ちゃんがボクに軽く座布団を投げつけた。
ここでボクが気の利いた冗談の一つでもあっさり吐き出せたなら、ボクらは普段通りだったのだろう。しかしボクは受け取った座布団をまじまじと眺めてしまい、あまつさえ溜め息まで零していた。
沈黙が再び空間を支配する。気まずいと思うのだが、東ちゃんはそうでもないのだろうか。呑気にテレビのリモコンを探し出した。
ポチリと付けられたテレビ。局アナが深刻そうな顔をして、ニュースを読み上げている最中だった。
「……死亡させた疑いが持たれています。ヒロト君は十数ヶ所に及ぶ打撲等の怪我をしており、警察は日常的に両親から虐」
ポチリ。
チャンネルが切り替わり、画面内では、宇宙空間を飛び回るロボット達が戦争を繰り広げている。今ニュースが告げようとしていた事件を耳にして、ボクは点と点が繋がったのを感じた。
「なぁ、東ちゃん。君、もしかして」
「先輩!」
東ちゃんがボクの言葉を強引に遮る。
「……昨日のあの人は、先輩の元カノなのか?」
東ちゃんはボクに目を合わせる事さえしないで、テレビ画面を眺めている。
東ちゃんと一緒に行った定食屋での優との再会の場面がフラッシュバックする。バラバラに切り取った写真みたいな記憶が次々と押し寄せるのを、ボクは軽く頭を振って押しとどめた。
話題を戻そうとして口を開こうとしても、またも遮られる。
「あの後、あの人と偶然再会して、話を聞いたんだ」
偶然、を強調して東ちゃんはそう言った。嘘のヘタクソな女である。或いは自分から「嘘だ」と宣言しているのかもしれない。
あぁ、でも。なんだよお前。
そんな事、優に直接聞いてしまったのか。これは実に参った。誤魔化しも出来ない。
「お前はボクのストーカーかっつの……」
これぐらいの文句を吐くのは許されるだろう。東ちゃんの顔が少し曇るが、ボクは気にしない事にした。自分が捨て鉢になっているのを強く自覚した。
「一年の頃に、ちょっとだけ付き合ってたんだ。そんだけ」
「幼馴染みなんだろ?」
「そこまで聞いてるか」
「……向こうが色々ベラベラ喋るもんだから」
俯く東ちゃんが、ゆっくりとボクに目を合わせる。
打ち捨てられたペットみたいな不安そうに揺れる瞳が二つ。ボクは苛立った。お前が聞いたから、アイツが喋ったんだろうが。
「もう昔の話なんだよ。ボクの失恋談覚えるより先に英単語の一つでも暗記してろ」
「……今は?」
「はぁ?」
「今は、どうなんだ?」
東ちゃんが、ボクに訴えかける。真剣で悲痛な表情をしている。
今。ボクが優をどう思っているか。
昨日の再会の瞬間、ボクは何を思った。少しだけ困惑はしたが、それだけではなかった。彼女との会話に、ボクは胸を躍らせていた。それは未練以外の何物でもない。それはボクが一番認めたくない、けれど一番巨大で繊細な感情だ。それを突つかれたボクは、遂に我慢が出来なくなった。
「先輩、まだ……」
「関係ねえだろうが!」
自分でも驚く程大きな声が部屋の中を所狭しと響き渡る。残響音が外に轟く雷に掻き消された。東ちゃんの肩が大きく跳ね上がったのは、ボクの怒声のせいか、雷のせいか。ともかく、身を竦める、というのはこういう状態を指すのだろう。
ボクはきっと、相当酷い表情をしている。東ちゃんは、目に僅かに涙を浮かべていた。怯える彼女を見たのは、それが初めてだった。
「……ごめん、先輩。……熱でもあるみたいだ。頭が変なんだよ」
「あぁ、そうだな」
「今日はもう帰ってくれ。ちょっと……寝るから」
「ん、お休み。温かくしろよ」
一分の躊躇いも無く立ち上がったボクを、東ちゃんは座ったまま目で追っていた。結局ボクが部屋を出ていくその瞬間まで、彼女はボクの方を、良く懐いたネコが出掛けていく飼い主に向けるような名残惜しそうな目でジッと見つめていた。
ここに来る時よりも雨は酷くなっていたけど、ボクはもう走らなかった。
少し頭を冷やしたかったのだ。




