4 曇天の下で
次の日は打って変わって酷い天気だった。
空は厚ぼったい雲に覆い隠されてしまい、降る雨も大粒、雷は引っ切りなしに鳴り響き、おまけに強い横風のせいで安物の傘じゃ複雑骨折するのがオチ。実際、ボクが朝コンビニで買ったビニール傘はものの数分で犠牲になった。
気温が下がったのはありがたいが、だからと言ってこの天災の如き天気をもたらした神には、それこそ唾を吐きかけてやりたい。この風の強さじゃ、天に向かって吐いても自分に降りかかる事はないだろう。
「先輩、そんなこと言っちゃ、メッですよ」
紺野ちゃんが口を尖らせている。今日も今日とて振るわれる彫刻刀の美しい軌跡(少々大袈裟だが、手つきの早さは本当に剣術家のそれに見える)を眺めながら、ボクは美術室で何をするでもなくボーッと頬杖をついていた。なんでなのだろうか、いつもやる気の無い風なボクであるが、今日程だらけているのは久しぶりである。
何と言うか、脳が思考そのものを拒否しているかのような。そんな気さえしてくる。
「それより今日、東ちゃんはどうしたんだ?」
今日みたいに湿気の多い日の東ちゃんは、元々水分の少ない髪の毛が大変なパーマになるので見ているだけで笑えてくるのだ。その頭をからかってやりたかったのだが今日は彼女が美術室に居ない。サボる事はたまにあったが、その場合は堂々とボクらにサボると宣言をしてから家に帰るはずだった。
「さぁ……でも、今日は体調悪そうでした。授業中も寝てたし」
「……それはいつもの事なんじゃないの、アイツの成績考えると」
「あ、ははは、は……」
紺野ちゃんは渇いた笑いを漏らしつつ、ゆっくりとボクから視線を外した。どうやら図星らしい。よく進級出来たな、アイツ。ある意味褒めてやるべきかもしれん。
「でも、本当に具合悪そうでしたよ?」
「風邪でも引いたかね……?」
「そうなのかな……もしそうなら、お見舞い行ってあげなきゃ」
心配そうな紺野ちゃんの顔を見ていると、どうも本当に東ちゃんが風邪を引いているような気がしてきた。携帯電話で東ちゃんに電話をしてみるが、十コール程粘ってみても出ない。負けた気がして癪なので出るまでかけてやる、ともう十コール待つと、今度は電話に出た。
「……っせーんだよ、先輩。何の用だ」
電話の向こう側の東ちゃんは、物凄く機嫌が悪かった。だが、声に力が入っていないのか、はたまた単に顔を合わせていないからか、迫力は全くなかった。
「部活、来ないのか? っつーか今何処にいる?」
「あー……今、家だわ。だりぃから今日休むっつーことでよろしく」
この最悪な天気の中を一人で帰ったのだろうか。制服がビッチャビチャになって、明日着て来れなくなるんではなかろうか。まるで彼女の親みたいな懸念が浮かんできてしまった。
「やっぱ風邪か? 雨ヤバかったんだから温かくしておきなよ」
「いや……うーん、風邪じゃないけど」
そうは言っても、本当に元気が無さそうだ。昨日までの溌剌さがまるで嘘のようだ。
「なぁ、先輩」
「ん、どうした」
「……もしも、呪いが解けるって言ったら、どうする?」
脈絡なんて関係ない、とばかりに見事に訳の分からない質問が飛んで来て、ボクは言葉に詰まる。
呪い。何の事だか分からない、なんて言うつもりはない。
だがもうそれについての結論はとっくに出ている。ボクはもうラブレターを書かない。これ以上、ボクの呪いの力については研究も実験もしない。全てが過去の出来事だ。
なんでそんな問いをするんだろうか。やっぱ風邪のせいか。風邪のせいで頭が混乱しているのか。
「見舞いなら紺野ちゃんが行くだろうから安心して休んでな」
「はぐらかすな!」
電話の向こうで、音が割れる程の大声で怒鳴られた。何をそこまでムキになっているんだろうか。
「……先輩、応えてくれ」
「意味が分かんないな」
「頼む……」
絞り出すような東ちゃんの声が、かろうじて聞こえた。
ボクの訊いた事のない様なその声が、ただならぬ予感を掻き立てる。一体どうしちゃったんだ東ちゃんは。もう書くなと言ったのはコイツのはずなのに、今更である。
しかしもしも。本当にもしも、呪いが解けて。
優が海津と別れて。
もしも、もしも……もう一度ボクに振り向いてくれたら。
ボクは一体どうするだろうか。また二人でやり直すだろうか。
「……もう止めようぜ。もしも、なんてない。考えるだけ無駄さ」
ボクは考えるのを止めた。こんな質問、未練を強くするだけだ。これ以上ボクを苦しめるような質問は、本当に止めてもらいたい。
「……ん。ごめん、全部忘れてくれ」
東ちゃんはそう返事をし、それきり電話は一方的に切られてしまう。一体どう言うつもりだ。少し腹が立ったが、一々かけ直すのもどうかと思ったので、ボクは大人しくポケットに携帯電話を仕舞い……かけて、メールを送ることにする。
「本当に体調悪かったら、ちゃんと野菜食べろよ」
ボクは先輩なのだから、少し大人になって彼女への些細な苛立ち程度は我慢してやる事にした。大きな世話かもしれないけど、彼女は一人暮らしなんだから、風邪一つでも大事である。本心から早く元気になる事を祈っていると、ニヤニヤとチェシャ猫みたいにいやらしく微笑む紺野ちゃんが、ボクの携帯電話の画面を覗き込んでいた。
「せんぱーい、こんなメールじゃダメですよぉ。お父さんじゃないんだから。もっとこう……『見舞いに野菜ジュース買ってってやるよ』みたいな事言って強引に部屋に乗り込むくらいの男らしさを」
「調子乗り過ぎだぞ、紺野ちゃん」
軽い水平チョップを額に、押し付けるようにかましてやると、彼女は舌先を出しておどけた笑いをしてすごすごと引き下がる。可愛いからってなんでも許されると思うなよ? ……許すけど。
「紺野ちゃん、見舞い行ってやってくれないか?」
「私は最初からそのつもりでしたけど……先輩は来ないんですか?」
心配は心配だが、先程の会話が気になってしまって、少し顔を合わせづらい。
「ボクはちょっと……いいかな」
「ダメですっ。引っ張ってでも連れてきますからね!」
腰に手を当ててムクれる紺野ちゃんからは、プンプン、てな擬音が聞こえてきそうであった。エプロン装備でちょっと背伸びしてお姉さんぶってる紺野ちゃんに彼女に勝てる人間なんて、きっとこの世には居ない。
そう言い聞かせて心の平衡を保つのが精一杯である。




