3 思い出は未だに
年度が一回りして、上級生は既に卒業している。ボクがラブレターでくっ付けたカップル達も、約半数が校内から姿を消した。
吉田さんは未だに村井元生徒会長と付き合っている。村井は近所の私立大学に進学したとかで、今も頻繁に会っているそうだ。四股をかけられている事には既に気がついているのだろうが、怖くて確認出来ない。
そう言えば、ついこの間テレビで日本の誇る大企業である朱鷺之宮グループが緊急記者会見を開いた、と言うニュースをやっていた。朝の時間のない時にやっていたニュースなので、詳細を見る時間はなかったが。
それと……雨橋とは三年になってクラスが別になった。優と海津とも去年同様クラスが違うが、向山と八幡は同じ。まるでボクを取り巻く複雑過ぎる人間関係に配慮してくれたのかと思ってしまう采配だ。教師陣には賞讃を送りたい。
そんなこんなで、ボクの日常は概ね順風満帆だった。
「最近の先輩、憑き物が落ちたみてえな顔してますよ」
帰り道すがらで、東ちゃんがそんな事を言ってケラケラ笑う。
最近、彼女の笑顔を見る事が増えたように思う。もしかしたら単にボクが気がついていなかっただけで、東ちゃんはずっとこんなだったのかもしれない。今のボクは、心に余裕があった。事実憑き物が落ちたようなものだし。
「呼び出しもここ一ヶ月は一切無しだ。今年の一年はボクの噂なんて知らないようだし」
「これからっすよ。部活やら委員会やら、上下の繋がりで噂が広まるのも時間の問題だ」
「おいおい、勘弁してくれよ……またボディガード頼むぞ」
「それこそ勘弁っすよ。こちとらシャーペン一本で雇われてやってんだぜ? 一年前からよぉ」
東ちゃんにまで心の余裕が出来ているのは気のせいだろうか、妙に彼女が意地悪だ。すこぶる調子がいい、と言うことで納得しておく。それか、春だからか。これは少々ご機嫌取りでもすべきかと、ボクは余裕の態度で気楽に提案した。
「腹減ったし、何か食いに行くか」
「オゴリ?」
「……今日のボクは気分が良い。何が食いたいんだ、言ってみな」
「うお! マジかよ! んじゃアタシ寿司食いてぇ。駅前の回ってない寿司屋な!」
普段の死んだ魚みたいな瞳はどこへやら。少女漫画もかくやとばかりに目を輝かせる東ちゃんが声高らかにそういった。
ただし、件の寿司屋はかつてテレビでも紹介されたような、大トロ一貫千円を超える超高級店であり、恐らくボクは一生縁のない場所だと決めてかかっている店だ。
恐る恐る財布を覗き込む。野口英世大先生が三人程額を突っつき合わせて緊急作戦会議を練っておられたので、ボクはゆっくりと財布の口を閉じた。
「……無理です」
「えー……仕方ねえ。回ってんのでも良いや。あ、でも一皿百円の、なんてケチ臭い事言うなよな?」
「とことん遠慮ないな」
「先輩が良いっつったんじゃん」
自業自得だった。なれば仕方なしと腹をくくるしかないらしい。今月はどうやりくりすれば良いのだろうか。
短期でも良いから、バイトでもすべきか。……いや待てボクは今年は受験生なのだ、そんな暇はないだろう。落ち着けボク。今の所持金で奢れるものと言えば、精々近場のラーメン屋くらい。
と、そちらに足を向けた時に思い出す。
紺野ちゃんが言っていた。東ちゃんは今、アパートに一人暮らししているらしい。どうせ碌なもん食ってないに違いない。一人暗い部屋の片隅で三角座りしながらカップ麺を啜る東ちゃんの姿を想像すると、なんだか胸がつかえる思いだった。
針路変更。
「……もっとリーズナブルでヘルシーなものをご馳走してやるよ」
「はぁ? なんでも良いっつったじゃんか。アタシは寿司が食いてえんだよぅ」
「寿司は……まぁ、そのうち。いいから着いてきなさい」
東ちゃんはつまらなそうにムクれてみせたが、奢ってもらえる事に不満はないようで、ふて腐れた態度は五分と保たず、今は上機嫌に鼻歌を歌っている。
ボクが向かったのは何て事は無い、駅前の大通りから少しだけ路地裏を通り抜けると出てくる、極々普通の定食屋である。
人当たりの良さそうな老夫婦二人が経営している場末の店で、出しているメニューも焼き魚定食とか野菜炒め定食とか、割とさっぱりしている。
少々客入りも少ないが、ボクはたまに此処でメシが食いたくなる。高校周辺はラーメン屋とドカ盛り店ばかりで、駅前近くは居酒屋ばかり。だからたまにはいいだろ、薄味を楽しむのも。
「ジジ臭ぇ」
店の寂れた外観を見て顔を顰め、中に入り壁に掛かっているメニュー表を見て耐え切れなくなったらしい東ちゃんがそうぼやいた。幸い店主のやせ細った老人は耳が遠いので、東ちゃんの悪態なぞ気にも止めず、先客のためにせっせと野菜を炒めている。
周りの客層から見ると、ボクらのような高校生は珍しいようで、チラチラと注目を集めていた。だが、東ちゃんのご無体な一言や中年の奇異なものを見る怪訝な視線にめげるボクではない。
「ここは値段も手頃でな。ボクが昔から良く通ってる店なんだ。それをお前、ジジ臭いとはなんだ」
「ま、先輩もちっとジジイ入ってるしな。ある意味納得だわ」
なんと生意気な。否定は出来ないけど。
二人並んで空いていたカウンター席に腰掛ける。外の火照るような暑さに比べて、やはり店の中は随分涼しかった。咄嗟の夏日にも対応してクーラーを導入しているらしい。
「っつーか、よくこんな店知ってますねぇ」
「あぁ、それは……」
最初にボクがこの店に来たのはまだ中学生の頃。
その時は優と一緒だった。脳裏に、嫌がるボクの手を引きながら無理矢理此処に引っ張り込んだ、元気な幼馴染みの笑顔が浮かんだ。
「先輩?」
東ちゃんがキョトンとした顔でボクを見つめている。間抜け面、と指差してやると、すぐにしかめ面になった。馬鹿らしい。最初に連れてこられた時の事なんて、今思い出してどうなる。想い出は大事に仕舞っておくべきものだ。みだりに引き出しちゃならない。
「……おすすめは野菜炒めだよ。次点で生姜焼き」
「んー、じゃ、焼肉定食でよろしく」
東ちゃんは、メニューをざっと眺め言った。
「お前って奴は……あ、焼肉定食の焼肉は牛だぜ。君、牛肉嫌いじゃなかったか?」
「……っち。しゃーねぇ、大人しくオススメの野菜炒めで」
少し不機嫌。ここの焼定が牛肉なのはボクのせいではないのに。手を挙げて、人あたりの良さそうな老婆に野菜炒め定食を二つ注文する。老婆は足腰も重く、旦那にメニューを告げて自身も厨房に入っていった。
何となくその背中を見送った後、東ちゃんが再びメニューを眺め始める。
「あー……こっちの親子丼の方が良かったかなぁ」
そうやって後悔するくらいならもっとちゃんと眺めておけばいいのに。
「……次に来た時に食べるといい」
「そん時は奢ってくれるんすか?」
「ボクと来るのが前提か」
「うん」
淀みなく、躊躇いなく、彼女はそう答える。仕方が無いから次も奢ってやるか。なんて上機嫌を悟られないように、お冷やを飲んで誤魔化した。やがてやってきた野菜炒め定食を前に、東ちゃんは小さく唾を飲んだ。しんなり炒められたキャベツとモヤシとひき肉の山の匂いを、鼻の穴を広げて堪能している。
乙女の顔として非常にみっともない。
「うわぁ……こんなちゃんとしたメシ、アタシ久しぶりっすよ」
「そりゃ良かったな」
「いただきますっ!」
割り箸を手渡してやると、東ちゃんはちゃんと行儀良く両手を合わせてから、実に良い笑顔で野菜炒めを食み、味噌汁を啜り、お新香を齧り米を掻き込む。もう少し大人しく食え、と言ってやると多少ペースダウンしたものの、それでもボクの倍は早い。こうやって美味そうに食ってもらえると、連れて来たボクも満足だ。
「野菜不足だったんすよねー。最近ウチでもカップ麺とかばっかで」
「そうかい」
「野菜ジュースも段々飽きてきたしさぁ。かといってウチで料理すんのもだりぃし……」
「……そうだろうな」
ボクは、東ちゃんの言葉を聞きながら、黙々と自分の野菜炒め定食を胃に入れていた。正直、あんまり味が分からない。油断すると、何故か優の顔が思い出されてしまう。そういえばアイツもいつもボクの隣で野菜炒め定食をバクバクと食っていたか。
「……なぁ、先輩」
奈々ちゃんが箸を置いた。お椀も小皿も大皿も、全てすっかり綺麗になっていた。早過ぎるだろ。
「訊かないのか?」
その表情からは笑顔が消えていて、至極つまらなそうである。東ちゃんが言いたい事は分かっている。彼女はボクに尋ねてほしいのだろう。
ちゃんとしたメシ食ってないのか、とか。なんで家でカップ麺食ってんだ、とか。なんで家で料理する必要があるんだ、とか。
これは相談なのだろうか、それとも別の企みなのだろうか。ボクは渋々口を開いた。
「……君が一人暮らしだってのは、紺野ちゃんに聞いたよ」
「んだよ、つまんね。驚かせようと思ったのに」
言葉とは裏腹に、東ちゃんはケラケラと笑ってみせた。
「……大変なんだな、君も」
ボクは、そんな当たり障りのない言葉を吐き出した。
このまま有耶無耶にしてしまおうか、と本気で考えていたりする。東ちゃんもボクのそんな気配を感じ取ったのか、ボクからそっと目を離して、お冷やをちびちびと飲み始める。
「……なんで、今話そうと思った?」
訊くべき事じゃないと思う。理由は簡単だ。ボクがこれ以上訊きたくないからだ。
だがそこまで明確に落ち込まれると、ボクも流石に心が痛むのだ。
「別に……なんっていうか……ま、アタシも苦労してんだよ、って言いたかっただけっつーか」
「……親は、転勤とか?」
「んー、アタシん家はちょっと違うけど……」
きっとどちらかと言えばネガティブな理由なのだ、とボクは分かっていた。
紺野ちゃんの言っていた、東家のゴタゴタ。そして彼女の今の、寂しそうな微笑が何よりの証拠だ。
「久しぶりに米と野菜食ったからかな。なんか……欲が出てきた」
「……欲って?」
「家族みんなで仲良くメシが食いたいな……って」
遠くを見つめる彼女は、ボクが聞いた事もない様な寂しそうな声でそう言った。ボクは何を返せばいいのだろう。迷っているうちに、東ちゃんは少し照れたように笑った。きっと取り繕った笑顔だと思う。口の端が不自然にヒクついていたから。
「なんてな。ぶっちゃけ親父とかお袋とか鬱陶しいだけだから、今が一番楽だ」
「……そうか」
溜め息が漏れて、ボクは自分が嫌になった。
なんでちょっと安心しているんだ、ボクは。そしてその返答はなんだ。もっと真面目に答えてやれよ。内心ではそう思っているのに、ボクは何も言えない。何か余計な事を言って、ボク自身が困るんじゃないかと考えている。だからボクは、間違いなく躊躇している。これ以上東ちゃんの心の中に踏み込むことに。
彼女の核心に触れるのを恐れている。
これ以上彼女と距離を詰めたくないと……思っている。
何故だ。
理由を考えたら一瞬だけ、優の顔がちらついた。花のような笑顔で、ボクを見つめている。ボクはそれを必死に振り払おうとする。
「先輩?」
東ちゃんが眉を下げて、ボクの顔を覗き込む。少し不安そうな目を見ているだけで、酷い罪悪感を覚えた。
違う。
ボクは東ちゃんと、そんな関係になるつもりなんてないのに。仲の良い先輩と後輩の間柄で、十分なはずなのに。
……本当に?
ただの先輩後輩にしては、ベタベタくっつきすぎじゃないか? 全く下心が無いなんて聖人君主みたいな事を本気で言っているのか、ボクは?
自問に自答を返そうとすると、やはり思い浮かぶ優の顔。
アイツも、この店で野菜炒め定食をボクの隣でパクパク食べていた。まだボクと恋人同士になる以前の話だ。店のおばあさんと打ち解けて、何がそんなに楽しいのかケラケラと笑い合っていたのは、今でも鮮明に思い出せた。時折ボクが口を挟めばまた優とおばあさんが笑い、ボクは訳も分からずに笑われて憤慨し、優が苦笑いしながら謝り、おばあさんがお新香をサービスしてくれたり、そして……
「おい、先輩?」
東ちゃんの声で、ボクは合っていなかった目の焦点を彼女に合わせた。
「あ……す、すまん。なんだ?」
「勝手に一人でトリップすんの止めてくれよなー……」
悪態をつく東ちゃんの顔が思いの外近くて、ボクは背を少しのけ反らせた。それを怪訝に思ったらしい東ちゃんが更にこちらに詰め寄ってくる。
「また何か悩んでんの?」
「いや」
悩みと言うほど形にはなっていない。胸の中に何となくモヤモヤと腑に落ちない感情が渦巻いているだけだ。品定めするような鋭い目でボクを見つめる東ちゃんをやんわりと押し返す。あんまり顔を近づけるな、はしたない。
「強いて言えば受験かな」
「……大学行くんすか?」
「まぁ、ね。これでも一応、国公立狙いだ」
「……となると、ここから少し遠くなるな」
話を上手く逸らす事が出来たように思う。一安心して胸を撫で下ろすと、東ちゃんが小さく溜め息を零した。
「……そっかぁ。先輩と一緒に居られんのも、あと一年か……」
また、寂しそうな声。
思わず箸を取り落としてしまった。
カランカラン。床が鳴る。
ボクは慌てて拾い上げ、新しい箸を箸箱から取り出した。
なんだ今の、別れを惜しむような切なそうな呟きは。別に良いじゃないか。先輩後輩なんてのはそんなもんだ。卒業式にまたそのうち会おうぜ、とか遊びにくるからさ、とか言って、結局そのまま会わないで、繋がりが希薄になっていくもんじゃないのか。
恋人じゃあるまいし。
カランカラン。
また箸が落ちたので、ボクはもうワンセット箸箱から取り出し、、恐る恐る東ちゃんの方を窺う。東ちゃんは頬杖をついて、何処か遠くを見つめていた。ボクが咳払いをすると、訝しげにこちらに振り向く。
「おい、東ちゃん。さっき、なんて言った?」
彼女はキョトンとした顔で、首を小さく傾げた。
「へ? なんも言ってないけど」
「……そうか」
そうか。ならば問題ない。ただの幻聴だったようだ。疲れ過ぎだぞ、ボク。
ボクはまだ少し残っていた野菜炒め定食をさっさと掻き込んでお冷やを一気飲みすると、すぐさま立ち上がって伝票をおばあさんに手渡した。しめて千二百円。財布にも優しい店である。
「んじゃ、先輩。アタシ先に出てるわ」
会計の間、東ちゃんが店の出口の戸を開けて暖簾をくぐっていく。
「いてっ!」
「きゃっ!」
何か小さな叫び声が聞こえて、釣りの小銭を数えているのにもたついているおばあさんから目を切ってそちらに目をやると、暖簾の向こう側で二人の女が言葉を交わしている。どうも東ちゃんがつい今訪れた来客とぶつかったらしい。
「……ってぇ。すんません、よそ見してました。大丈夫っすか?」
「いえ、こちらこそ。大丈夫? 痛くない?」
外からそんなやり取りが聞こえてきた。
やがてその声の主が暖簾を分けて店内に入ってきた時、ボクはおばあさんから手渡されたお釣りの八百円を思わず取りこぼしそうになった。
「あ……」
思わず声が漏れたのは、ボクかソイツか、どっちもか。
そこには、柳沢優が立っていた。
長く伸ばしていた黒髪は、春には似合わぬ陽気を忌避してか、一本のポニーテールに纏めて結われていた。しばらくは顔も会わせないように行動していたからか、真っ直ぐ正面から向き合うのは至極久しぶりのはず。
なのに、ボクの目に映る柳沢優は、記憶の中の彼女と寸分違わぬ美人だった。
「久しぶり……ってのも、変な話か」
「う、うん。そだね。でも、クラス別だと、やっぱ全然会わないね」
やり取りは極めてぎこちなかった。しばらく噛み合っていなかった歯車が軋む音がどこからか聞こえてくるかと思った程だ。ここで優と出会う確率は低くはない。彼女はボクよりも此処に足しげく通う常連なのだ。
別に会いたくないわけじゃなかった。顔を合わせても、何気なく挨拶するだけで済むと思っていた。
「……元気でやってるか?」
なに軽く世間話初めてんだよボクは。さっさと店出ろよ。立ち話してんじゃねえ。優にも迷惑じゃねえか。
「え? まぁ……そこ、そこ、かな?」
「そうか……」
そうだ。これで会話が終わった。あとはコイツの脇を通り抜けていけばいい。それでサヨナラすればいいのに。
「今日は、一人なのか」
何を訊いてるんだボクは。馬鹿か。馬鹿なのか。いや、馬鹿だ。確実に。優は少し面食らったように目を瞬かせる。やがて質問の意図を解したようで、少し顔を曇らせた。
「うん。利之は、ちょっと用事できたって言うから。本当は二人で来る予定だったんだけど……なんか折角だから、食べてこうかなって」
「そ、そうか」
ほら、もう良いだろ、ボク。満足いっただろ。優は今彼氏とラブラブ中なんだよ。相変わらず。だからさっさと出ろよ。金払ったんだから。ずっとここに居たら迷惑だろ。
……なんで足を前に出そうとしないんだよ。
口がからからに渇いている。でも、喉は必死に言葉を紡ごうとする。頭では抗っているのに、止められない。
「あ、のさ、優……」
「せんぱーい、まだっすかー?」
東ちゃんが再び店内に飛び込んできて、ボクは我に返った。もう少し恥とか外聞とか無いのか。店中に聞こえたぞ、今の声。
思わず振り返った優も苦笑いしている。
「この人って、駿く……駿介君の、彼女?」
「違う!」
何故か叫んでいた。店中の客がボクの方を見ている。東ちゃんも、ボクを睨みつけている。泥沼は、一度嵌まると抜け出せない。
「……た、ただの美術部の後輩だよ」
「そっか……駿介君、美術部だったもんね……待たせちゃ悪いでしょ、早く行ったら?」
「……そうだな。じゃ、また」
また、なんて言ってもまた会う気なんてボクにも優にも無いのに。無いのだ。無い、絶対に、無い。
ボクは優の脇を通り抜けて、不思議そうな顔をしている東ちゃんの手を引いて、大股に店を後にした。
「ちょ、ちょっと先輩いきなりどうしたんすか」
手を引かれる東ちゃんが訳も分からず、しかし大人しく付いてくる。
空はすっかり黒く染まっており、往来は自宅への帰路を急ぐ人々でごった返していた。
込み合う道の中ですれ違い様に肩が触れる人達の妙な視線も気にならない。出来るだけ店から離れたかった。ついさっきの出来事全てを頭の記憶から抹消してしまいたい。駅前の大通りに差し掛かって信号が赤の横断歩道の前で、ようやくボクは足を止めた。
隣の東ちゃんはボクをねめつけるように見上げていた。
「……さっきの人、先輩の知り合いか?」
東ちゃんの洞察力は鋭い。多分、ボクと彼女がただならぬ仲だった事くらいは、既に察していると思う。
話してしまっても良いのだろうか。ボクはいつだって彼女にはなんでも話してきた。困った時の相談だって、クラスであった馬鹿な話だって、ボクの呪いの話だって、それこそなんでも。
でも、優の件を話すのだけは、ボクは躊躇いがあった。
話してしまいたくないのだ。あまりにも愚かしいボクの愚行を。ボク自身の全てを晒す勇気はボクにはない。
それに、話した所で何になる。何も変わりはしない。だから、ボクは口を噤む。
「……ま、どうでもいいか」
東ちゃんは納得いかない様子だったが、それきりその話を終わらせてくれた。その日は、東ちゃんが「ちょっと欲しいものあんの忘れてた」と言って、その場でボクと別れ、再び来た道を戻っていってしまった。
一体何を、と少し嫌な予感があったが、ボクには彼女を止める気力さえ残っていない。
ボクはその帰り道で、頭の中はずっと優の事を考えていた。
……諦めた。そう思っていたのに。こんなにも未練たらたらじゃないか、馬鹿野郎。




