2 堂島駿介の『実験』
翌日、ボクは吉田さんとは一言も言葉を交わさないまま、放課後を迎えていた。
一日中吉田さんを観察していたが、彼女は出来るだけ考えないようにしていたのか、普段とまったく変わらぬ様子だった。全て終業した後に教室を飛び出していくその背中の慌ただしさに気がついたのは、多分ボクだけだろう。
「……へぇ、今回はお礼付きだったんすか」
ボクの金属シャーペンを指で弄びながら砕けた敬語を吐き出したのは、東奈々。
晩秋のススキ群を思わせるボサボサの渇いたショートヘアと、冬の海のようにくすんだ光のない瞳が目を引くボクの後輩である。手先の器用さにかけてはボクよりも上で、彼女の指の間を縦横無尽に踊り狂うペンもどこか楽しそうだ。
「五千円だ。落として曲げたら弁償しろよ」
「わーってますってぇ」
東ちゃんはペン回しを止めず、むしろ満悦に八重歯を口元から覗かせている。落とす事はないと分かっていても、何だかお株を奪われたような気がして、声をかけずにいられなかった。
「それよりちゃんと部活しろよ、東ちゃん。ここは美術部の部室なんだぜ」
初めて言うと思うが、ボクは美術部に所属していて、ボクと東ちゃんがいるのは美術部の部室だ。部室と言っても、学校の美術の授業に使用される美術室を間借りしているだけであるのだが。
「昨日サボった先輩に言われたくねぇな」
ぶつくさ言いながらも東ちゃんはボタンを全開にしたブレザーのポケットに手を突っ込みながら椅子からダラダラと立ち上がり、美術準備室から文化祭の作品展示に向けて作成中の風景画の下書きを持ち出した。他の部員の飾られている絵はもう色がついている中、東ちゃんの作品だけが不自然にモノクロで浮いている。
今日は本来なら活動休止日なので、作成の遅れているボクと東ちゃん以外に部員は居なかった。女の子と二人っきりの部活と言うと何とも青春を感じるが、残念なことにボクと東ちゃんはそんな甘酸っぱい関係にはない。
「先輩ー、シャーペンで下書きってありっすか?」
「知るか。ボクは絵は描かん」
「よぅまぁそんなんで美術部入ろうって思ったなアンタ……」
東ちゃんが呆れている。彼女の言う通り、どうしてボクは美術部に入部したんだろう。この高校に書道部がなかったから、美術部で筆を握れればいいやとかそんな軽い気持ちだった気がする。実際ボクは絵は描かず、水彩絵の具で和紙に書をしたためると言う超前衛的芸術作品に挑戦中で、顧問も他の部員も呆れ果てているほどだ。
「ラブレター代筆、昨日ので何通目っすか?」
「二十一……かな、あんまりちゃんと数えてないから怪しいけど」
「へー……相変わらず盛況っすねぇ」
興味なさげな東ちゃん。彼女は、花も恥じらう女子高生と言うには少々擦れ気味だ。ブレザーの内ポケットにタバコとライターが忍ばせてあるのをボクは知っている。
一度だけ先輩らしく見咎めたこともあったが、どうにも止めるつもりはないらしいので放っておく事にした。タバコがいかなる害を成すかは今や幼稚園児でも知っている。東ちゃんも覚悟の上なんだろ。副流煙については勘弁だが。
「先輩……いい加減、止めたほうが良いんじゃねえか?」
「なんで?」
「先輩がラブレター書いちまうと、何があろうとも出した人と受け取った人の恋愛は必ず成就する。その二人は何があろうとも、関係が途絶えることは決してない……。実際先輩のラブレターは呪いだぜ。オカルトだよ、オカルト。もう書くなって何度も忠告してるだろ? あれ、結構本気で言ってるんだぜ?」
東ちゃんは、どことなく眠そうな目で、まだちっとも書けてない風景画の線だけの下書きを眺めながらぼやいた。ボクは彼女から目を切って、自分の書きかけの作品へと意識を戻す。
こんな不気味な作品をかれこれ三十枚近くは書いているのだが、筆運びを書道と同じにしては文字が擦れてしまい、未だに中々上手く書けなくて難儀しているのだ。
「先輩は……なんか楽しそうっすね」
「まぁな。なんせ今回依頼してきた吉田さんは、『あの』村井生徒会長様がご所望らしい」
「……は?」
東ちゃんの声色が、怒気を含むものに大きく変わった。村井生徒会長が一体いかなる人物なのか、彼女は多分ボクの次くらいに良く知っているだろう。ボクは、自分の書いたラブレターの結果は、全てコイツとの話のネタにしているんだからな。
「吉田さんで四股目だぜ。久米先輩と前園ちゃん、あと鹿島さんも。で、それに加えて吉田さん」
実は吉田さんが恋した相手、村井秀和生徒会長には彼女がいる。
既に、三人も。
しかもそれはボクがくっつけてやった三人である。
久米先輩からラブレター代筆の依頼が舞い込んだのは今から約一年前。相手は村井生徒会長。ボクは二つ返事で承り、ラブレターを代筆した。結果として、二人はくっ付いた。
それから二ヶ月後、ボクのラブレターに関する妙な噂が流れ始めた頃、一年の前園ちゃんがボクにラブレターを書いてくれと頼み込んできた。相手はまた村井生徒会長。既に久米先輩と付き合っていることは知っていたし、それとなく忠告もしたのが、前園ちゃんが気持ちだけでも伝えたいと言うので、適当に書いてやった。村井先輩は前園ちゃんを上手いこと振ってくれると思っていたんだが、ボクの期待は裏切られ、先輩は前園ちゃんの告白を受け入れた。
あろう事か、久米先輩とも別れずに。
要するに、二股をかけ始めた。
それから更に二ヶ月後、隣のクラスの鹿島さんがラブレターの代筆を依頼してきた。村井先輩に出したいと言うので、ボクはまた老婆心から忠告をした。アイツは二股してるぞ、と。しかし鹿島さんは、ボクの言葉を信じなかった。あんなに真面目な人が、そんな不純な事出来るわけがないと言って憚らなかった。そこまで言うなら仕方ないと、ボクはただ彼女の望み通り、ラブレターを書いてやった。
結果、村井先輩の彼女が三人に増えた。
「お前、なんつぅ事を……!」
思いの外声が近くて驚いた。下書きは投げ出したのか、東ちゃんは身を屈めているボクの背後から、魔人みたいな顔つきでボクを見下ろしていた。
「おいおい、君が怒る事でもないだろ。関わりない事なんだし」
「大有りだっつうの! ……今でも覚えてるんスよ? 部室に裁ちハサミもって狂乱状態の女が突撃してきた時のこと」
「久米先輩は怖かったなぁ。東ちゃんがいなかったら、ボク死んでたかもしれないし」
二番目の彼女、前園ちゃんは久米先輩と言う彼女が居ることを知りながらも、村井先輩の恋人になることを望んだ。自分の器量の大きさをアピールするかのように、あちこちに飛び回る村井先輩の行動を温かく見守る二号さんとしての立場をちゃんと弁えていた。
三番目の彼女、鹿島さんも、事実を知った当初こそショックを受けたものの、三人の中で自分が一番愛されていると言う確信を得たのだそうで、三股には文句をつけなかった。その確信と言うのも、三人の中で一番SEXの回数が多いらしいから。
誰に聞いたと聞けば、当然村井先輩から、だそうだ。信じるに値しないと思うのはボクだけじゃないだろう。
そして、一番最初に村井先輩の彼女になった久米先輩は……何も知らされていなかったらしい。付き合っていた彼氏がいつの間にか三股をかけていた。気がついた切っ掛けは、偶然にも(偶然で有り得るのかは知らないが)携帯電話のメールボックスを覗いてしまったことによるらしい。
当然、彼女は怒り狂った。
その矛先が向いたのは、村井先輩……ではない。
何故か他の二人の女を村井先輩とくっ付けたボクだった。どうかしている。久米先輩もそうだが、他の二人だって頭がどうにかなってるに違いない。なんで別れないんだろうね。どう考えたって村井は最低なのにさ。だがまるで、ボクのラブレターに繋ぎ止められているかのように、彼らは恋人関係を止めようとしない。
閑話休題。
愛する村井先輩を傷つけることは出来なかったらしい久米先輩は、ハサミをもって全ての元凶であるボクをぶっ殺すために美術部の部室に突撃。中腰にハサミの切っ先を突き出して、ギョロついた無感情な瞳でボクを冷たく睨みながら突っ込んでくる久米先輩の姿は一生忘れられそうにない。偶然その場に居合わせた喧嘩慣れしている東ちゃんが咄嗟に取り押さえてボコボコにしてくれたお陰で事無きを得たが、正直生きた心地がしなかった。気絶した久米先輩を連れて、ボクは村井先輩の所に直談判しにいった。
「オタクの本妻がボクを刺そうとした件について詳しく問いつめにゃ気が済まん」と言って。
「すまない」
村井先輩はまず一言、謝罪した。真摯な態度で頭を下げて来るもんだから、コイツ本当に三股の最低野郎なのかと咄嗟に疑いかけた程だ。そして続けてこうも言った。
「みんなあまりにも真剣に交際を申し込んできてくれるから……断れなかったんだ。断って、傷つけるのが怖くて……」
……心身ともにボコボコにされた久米先輩は、今は元気に学校に通っている。村井先輩との交際も継続中だ。
他の女を別れさせる為に前園ちゃんと鹿島さんに嫌がらせを繰り返す日々なんだとか。前園ちゃんは二人の他の彼女の間を飄々とかいくぐって村井先輩とイチャついているし、鹿島さんも未だに村井先輩を信じて疑わずにいる。
村井先輩は優し過ぎた。誰も傷つけたくなくて選び取った最低の手段で、みんなの心をボロボロに傷つけ続けている。
どれだけ酷い泥沼になっても、彼ら四人は未だに交際を続けている。まるで、それが義務であるかのように。
「堂島君にラブレターの代筆を頼むと、永遠の愛が手に入る」のだそうだが。
ふざけた話だ。実に滑稽だね。腹がよじれる。ボクはそれら全てを承知で、吉田さんを泥沼の四角関係のど真ん中に放り込んだ。
「真っ当に二人が想い合ってるんならまだマシだ……でも、そうじゃねえだろ? その吉田っつう先輩は、これからあのイカれた野郎とその周りのイカれた女と、下手すりゃ死ぬまで付き合ってく事になんだぞ?」
「嫌なら別れればいい。残念だけど、そんなのボクの知ったこっちゃないね」
「テメェは本当に……ったくよぉ!」
激昂する東ちゃんは、苛立ちを押さえ切れないのか、内ポケットから煙草とライターを取り出して、慣れた手つきで着火した。いくらなんでも室内では吸わないように、と何度か言い聞かせたし彼女もその言い付けを守ってくれていたのだが。
どうもボクは彼女を怒らせてしまったようだ。
「……ボクは期待してるよ?」
出来るだけ誠実を上辺に塗ったくった言葉を吐いたつもりなのだが、東ちゃんはまだ機嫌を損ねたままだ。
この辺でコロッと騙されてくれるのが理想的な後輩というものだろうに。煙が部屋に溜まる前に、東ちゃんが窓を開けてくれた。そのまま窓枠に肘をついて、遠くの紫に染まり始めた地平線を眺めている。
興味はない、とでも言いたいのかもしれないが、それでもやっぱり答えが欲しいのかチラチラと時々こっちを見てしまうあたりは、やはりボクの可愛い可愛い後輩ちゃんである。
「一体何を期待してるんすか、早く教えて下さいよ」……そんな訴えが視線からバレバレだ。なんだ、正義の味方気取りやがって。お前だって興味津々なんじゃねえかよ。人の不幸だからってヘラヘラ笑う心づもりしてやがるじゃねえかよ。そんなんだからボクはお前をバカにしてるんだ。シガレットチョコからやりなおせガキめ。そんな言葉を飲み込んだ。
「吉田さんがきっと、村井先輩の目を覚まさせてくれる」
「どうして?」
食い気味に訊いてくる。振り返ると、くわえた煙草をピコピコ上下させる東ちゃんがそこにいた。
「吉田さんは良い子だよ。ボクが知り得る中で、一番真面目な正義の人さ」
「先輩……いい加減学ぼうぜ。アホの子かよ」
呆れた表情の東ちゃんの辛辣な言葉が胸に突き刺さる。少なくともお前に馬鹿にされる筋合いはない。これでも成績は上から数えた方が早い位置なのだ。
「ソイツがどんだけ真面目かは知りませんがね。先輩のラブレターは人の人格まで歪める代物なんだぞ」
「おいおい、人を洗脳装置みたいに言うもんじゃないぜ。いくらボクでも傷つくぞ」
「いい加減にしろよクソバカ……!」
ちょっとからかい過ぎたようだ。東ちゃんはタバコを窓の外に吐き捨て、今まで見た事ない位怖い顔でボクの方に大股で歩み寄ってくる。そのままボクの胸倉を掴んで、鼻がくっつくぐらいに顔を近づけて、そのくすんだ目を鋭く引き絞ってボクの双眸を視線で縫い止めた。
煙の、ちょっとバニラっぽい芳香が鼻についた。随分甘ったるいのを吸っているようである。
「……別にどうでもいい。村井が何股かけようが、その吉田っつぅのが四番目でも良いと言おうが言うまいが。でも……」
「久米先輩が怖いのか?」
確かに、三股発覚当時の久米先輩は本気でボクを殺すつもりだったと思う。
今は落ち着いているが、何か大きな切っ掛けがあれば、またボクに襲いかかってくるかもしれない。例えば、ボクの手引きで村井の彼女がもう一人増える、とか。
「……あの女、また来るぞ。先輩は怖くねぇのかよ」
「大丈夫だって。東ちゃん、案外心配性なんだねぇ」
ボクは東ちゃんの固く胸倉を握っている手を優しくほどいてやる。意外にもその手は柔らかくて、肌もきめ細かい。言動が男みたいな癖に妙に女々しい手をしているので、ボクは少し笑ってしまいそうだった。
「これは価値ある賭けだよ、東ちゃん」
ボクが手を離してやると、東ちゃんは意外にも一歩後ろに下がった。話を聞く気になったらしい。
「確かにリスクは大きいかもしれんが、吉田さんならきっと村井先輩に幻滅して、他の三人の目も覚まさせてくれる。そうすりゃボクは久米先輩から無駄な恨みを買うこともなくなる。それだけじゃないぞ」
むしろそれらは副次的な理由でしかない。ボクの本当の狙いは、その先にある。
「常識で考えれば、四股にもなれば流石に誰かしら別れを切り出すに決まっている。ボクの代筆ラブレター不敗伝説も、そろそろ最終局面を迎えるべきだと思うんだよ。この最大の苦難、果たして乗り切るのか破れるのか。スリルだけは一丁前だと思わないか?」
「……100%が95%になっても、変わらねぇよ。先輩のラブレターがやべぇっつーのは」
「全然違うね」
これは『実験』なのだ。
これまでの『実験』から、ラブレターによる呪縛が一体どんな条件で発生するのかは分かっている。
次は、どこまで限界があるのか。これを見極めようと考えたわけだ。
この『実験』が果たして最終的なボクの野望を成し遂げる礎になるかどうかは、まだ分からない。だが、データは多いに越した事はない。……もしかしたら何かの拍子に、既に叶ってしまったラブレターによるこの呪縛を解く方法が見えてくるかもしれない。
「解く方法……か」
「無いなんて信じたくないね。だからこそ、呪いに負けずに彼女には頑張ってもらいたいよ」
こんなボクにも、一応人間の心はある。
自分の手が二人を繋げたのだと言う明確な確信と、のしかかる責任。
続々と期待に満ちた少年少女が狂気的な願望を秘めて群がってくる恐怖。
そして……自分の恋人が、ボクのラブレターで別に恋人を作ってしまった時の絶望。
きっと誰も体験した事のない恐怖を、今まさにボクは味わい続けているのだ。
ボクがラブレターを書き続ける理由は、そこにある。
ボクには取り戻したい過去がある。取り戻したい未来がある。取り戻したい人がいるんだ。だから、こんな下らない日々は終わりにしてしまわなければならない。解けない呪いなんて無いと、すぐに証明しなければならない。
これ以上、ボクの心が壊れる前に。
「……そのためには、人をどんな目に遭わせてもいいっつぅのか? 吉田っつぅ先輩は、どうなっても良いと?」
「頼まれたことをやっただけだよ。純粋に彼女の気持ちを応援してあげたのさ。ただそこにボクの希望も偶然に混じっていた。それだけのことだよ」
「なにがそれだけ、だ……このクソバカ」
東ちゃんはバッサリとボクに言い放った。いっそ清々しいまでの罵声だ。しかし彼女はそれ以上は何も言わず、二本目の煙草を口にくわえただけだった。そのままベランダ側に歩いて行く彼女の背中に、ボクは声をかける。
「……東ちゃん、煙草、止めた方が良いよ」
「何を今更……」
「そうじゃなくて、人、来るよ」
廊下を歩く音が静かに響き渡っている。煙草の赤い光は途端に消え失せ、肺から煙を追い出そうと東ちゃんは何度も深呼吸した。
「失礼するぞ、堂島」
些か興奮気味に顔を上気させた吉田さんが、美術室の敷居を跨ぐ。嫌な予感がする。この時間に現れると言うことは、もう村井先輩への告白は済ませてしまっただろう。
失敗してわざわざこんな所に現れるだろうか。いや、そんなバカな話もないだろう。
ボクの不安を余所に吉田さんは薄暗い美術室の明かりを点け、ボクとベランダの外に居た東ちゃんに目をやった。東ちゃんはぎこちない笑顔を浮かべているが、鼻から思いっきり煙が出てる。ドジな奴だ。吉田さんは真っ先に東ちゃんに突っかかると思ったんだが、彼女の視線はボクに固定された。
「とりあえず、礼は言っておく……」
消え入りそうな声だ。聞き取るのがやっとなほどに。だが研ぎ澄まされたボクの聴力はしっかりと彼女の言葉を捕らえていた。
「……上手くいった?」
「それが、まだ分からないんだ……」
吉田さんは目に涙をタップリ浮かべながらそう言った。ボクは不謹慎ながら、期待に胸を躍らせていた。
「返事は、少し待って欲しいと言われた」
「そう……」
待って欲しい。それはつまり、失恋も有り得るという事じゃないか。なるほど、呪いにも限度があるらしい。
ボクは殆ど無意識的にガッツポーズをしてしまった。案の定、吉田さんは怪訝な表情。慌てて取り繕う。
「こ、これからだよ吉田さん。これからもっと村井先輩の事をよく知って、よく知ってもらおう」
「あ……あぁ、そうだな。ありがとう、堂島」
どうやらその報告に来ただけらしい吉田さんは、そのままさっさと帰っていった。結局東ちゃんへのお咎めはなしである。単に気づかなかっただけかもしれないが、いずれにしろ東ちゃんは胸を撫で下ろしていた。
「あっぶねー……」
「ボクも東ちゃんと同じ心境だよ。とりあえず、首の皮一枚繋がった……」
二人で緊張から解き放たれて、力無く床に座り込みながら、荒い息を規則正しく吐き続ける。何と言うか、とても……とても疲れた。
「今日はもう帰るか」
「……アタシも。もー今日はやる気しねぇ」
「今日は、じゃなくて今日も、だろ」
「先輩、露骨に嬉しそうにするのって最悪っすよ」
人の失恋を喜ぶ男。それが今のボクである。ま、確かに、最悪だな。
*
その後の事を語ってしまうと、吉田さんは結局、村井先輩と付き合うことになった。
ボクの望みは潰えたかにみえたが……まだ最後の扉は突破されていない。
未だに村井先輩が四股をかけていることには気がついていないのだ。そろそろ彼らが付き合い始めて一月だが、まだバレていない。村井先輩も伊達に三股かけてなかった。バレないように上手いことやっているらしい。あるいは吉田さんに教えてあげようかとも思ったんだが、自分で気づいた方がショックが大きいだろうと思ったボクは黙っている。
あわよくば、それで吉田さんは村井先輩と別れるかもしれないから。
そんなことを言ったらまた東ちゃんに「先輩鬼っすねー」などと言われてしまった。
だが手段を選んでいる暇はない。ボクは出来るだけ吉田さんには村井先輩に幻滅してほしいのだ。それか……このまま久米先輩にも嗅ぎ付けられなければそれでいいのかもしれない。
このまま彼らの卒業までずっと、その付き合いを公にせずに居てくれるなら、それならそれで仕方が無い。また別の『実験台』で同じことをするだけだ。
……久米先輩が襲いかかってこない限り、出来るだけ村井先輩の爛れた恋愛事情とは関わりたくないと言うのが本音かもしれない。
「先輩ってヘタレなのか大胆なのか、よくわかんねーわ」
今日も今日とて、東ちゃんはボクと部室で二人きりだ。他にも部員は沢山いるんだが、美術部に限らず、活動休止日はボクらみたいに寄る辺無い奴らが部室に溜まるもんである。
この娘がもう少しボクの好みに合致していて、そばに寄ってもヤニの匂いのしない女の子だったらボクも部活が楽しみになるのだが。口に出して言ったら、「こっちこそ願い下げだっつぅの」引っ叩かれた。
「……結局不敗伝説は更新中か」
「東ちゃん、おしゃべりばっかしてないで、早く絵、仕上げたらどうだい。文化祭来週だよ?」
ボクは金属シャープペンシルを指の間で弄びながら、東ちゃんをなじった。吉田さんがくれると言うのだからありがたく頂いたこの品は、実に良く手に馴染む。しばらくボクの筆箱のエースとして働いてくれるだろう。
あるいはこれをポケットに忍ばせておけば、万が一久米先輩がハサミを突き刺してきても「コイツが俺を守ってくれたのか……」と言うドラマティックな生還劇が起こるやもしれない。
それを口に出して言ったら、「先輩、テレビ見過ぎ」なじられた。
「やっぱり、ダメかな。久米先輩来るのかな」
「……ま、やっちまった以上は仕方ねぇけどよ」
東ちゃんは猫みたいに素早い身のこなしでボクの手からシャーペンを取り上げると、八重歯を覗かせたイケメンスマイルをボクに向けた。
「このペンくれるっつーんなら、アタシがボディガードやったっても良いっすよ」
「えー……貰い物だし」
後々になって吉田さんに「シャーペンどうした?」と聞かれたら、気まずいことこの上ない。
「それ以外だったらなんでもいいよ」
「アタシが欲しいもので先輩がもってるのって、精々このペンくらいですし」
酷い事言いやがる。ボクだって君にない物を沢山持っている。ラブレター代筆能力とか。上げられるんなら真っ先に差し出してるところだ。ボクが強引に彼女の手からペンを取り返そうとすると、東ちゃんは素早く身を翻して、ブラウスの胸ポケットにペンを差した。
「へへへ、いくら鬼畜な先輩とはいえ、女子の胸元にあるペンを奪い取ることは出来な」
「ほいっと」
胸を張っているようなので、遠慮なく取り返させてもらった。
生憎ボクは東ちゃんの無い胸なぞ触っても罪悪感は欠片も感じない。あまりの早業に東ちゃんは呆然と口を開いている。やがてしかめ面をしながら無言でボクのふくらはぎにムエタイ選手のように綺麗なフォームでローキックをお見舞いしやがった。
金属バットで思い切りぶっ叩かれたような衝撃と、千の針が突き刺さるような痛みが走る。立っていられずにボクが転げ回っていると、東ちゃんは再びボクの手からペンを奪い取っていった。
どうやら東ちゃんはこのペンが余程気に入ったらしい。さすが五千円。人を魅了する魔力がある。
「……で、先輩。このペンくれるっつーんなら、アタシがボディガードやったっても良いっすよ」
さっきと一言一句違わずに、東ちゃんは繰り返した。これは御願いではなく脅迫ではなかろうか。守ってもらう立場の人間が言うのも妙な話ではあるが。どちらにしろ、彼女は折れてくれそうにない。ボクは諦めた。
「……頼りにしてるぜ、東ちゃん」
「がってん!」
そう言ってやると東ちゃんはやっぱり年相応に子供っぽい笑顔を浮かべ、嬉々としてシャーペンを制服のポケットに突っ込んだ。