1 東奈々との邂逅
「私達はきき、今日と言う日が来る事を楽しみにしていましたっ!」
それは、ボクが迎える側として最初に緑森高校の入学式に参加した日……二年生の四月の事だった。
壇上では紺野薫と言う、むやみやたらと見た目麗しい女の子が呂律の怪しい新入生代表の挨拶を述べている。校長やらPTA代表やらの言葉なぞ耳には届かずにさっきまで居眠りを決め込んでいた我々在校生の内、およそ半数が、とびきり美少女が舌足らずな声で詰まりながらも一生懸命挨拶の言葉を述べている様を目を皿にして眺めたのは言うまでもない。
「こ、これからの高っ校生活で、より多くの事を学び……」
中々上手く喋れず少し涙目になっている紺野さんは非常に可愛らしかったが、音も無く色めき立つ周囲の男子に比べてボクのテンションは低かった。
高校二年生に上がったからと言ってボクの取り巻く環境は大して変化しない。
幼馴染み兼元恋人の優と、ボクから優を無自覚的にかっさらっていった海津が別のクラスになったのだけが救いだったが、その程度でボクの暗黒の青春に光が差し込んだとは言えないだろう。
相変わらずラブレターの呪いを解く手段は見つけられず、ただただイライラばかりが募る日々だ。近頃はますますボクにラブレターの代筆を要求する奴らも増えてきた。だが、モルモットばかり増えても研究は進まない。
いい加減、本格的な打開策を見出さなければならない。
ついでに言えば。
「……っく」
この腹の痛さに関する打開策も必要だ。
キリキリと鋸を引くかのような痛みは、おそらく下痢によるもの。ストレスで胃腸がやられたか、単に賞味期限五日前の卵で卵かけご飯を食べたのが悪かったのか。真相はボクの腹の中なのだが、開腹手術で覗く訳にもいかないし、真実の探求に興味はない。
ひたすらにトイレに行きたいが、今立つと非常に悪い意味で目立つ。腹を押さえながら猛ダッシュしていったらこの場の空気は死ぬ。ついでに新クラスでのボクの立ち位置も死ぬ。脂汗を垂らしながら必死に耐えるしか無いのだ。
「堂島」
ボクが己の体の限界に挑戦している真っただ中だと言うのに、隣に座っていた友人の雨橋が、些か興奮気味に囁いた。その目は、ようやく挨拶を読み終えて顔を羞恥で真っ赤に染め上げた紺野さんを凝視している。
「あの子に向けてラブレター書いてくれよ。オレ、差出人な」
「いいぞ、書いてやるから黙ってろ」
「……いや、マジで受け取るなよな。別にそんな気はねえ」
雨橋は困ったように眉を下げるが、今本当に困っているのはボクなのだから話しかけないで欲しい。だが実際、彼女を狙う男は多いだろう。遠目で見ても、他の女子とは明らかにランク差があるのが分かるのだ。ボクの元にも依頼が来るかも知れない。
「今日から早速依頼殺到かもよ。どうする?」
「来るものは拒まず」
「そーいう姿勢、どうかと思うけどな。あの子可哀想じゃん」
「知るかっ。可哀想に思うんならお前がなんとかしてやれ」
「ま、一年はまだお前の噂なんか知らんだろうし。上の連中でも女に飢えてる奴は全員とっくの昔にお前の餌食だし、大丈夫かね」
どうでもいい。
ボクの興味は、いつ入学式が終わるのか、ここからトイレまでどれくらいかかるか。その二つに絞られている。幸いにも入学式のイベント事はこれで最後であり、マイクは教頭が握っている。
「え、それでは……在校生の皆様は各教室へ、入学生の皆様はお話がありますので、少し残って下さい」
解散を言い渡された。ボクは立ち上がり、なりふり構わずに体育館に備え付けられているトイレに駆け込む。小便器の脇をすり抜け、確実に開いている大の方に、文字通り飛び込んだ。
「……」
詳細は無論省くが、間に合った。
危ない所だったが、ボクは勝利した。意志は己の肉体を凌駕した。至福の瞬間である。
紙がない、なんてお約束をやらかす事も無く、ボクは何気無しにトイレを後にして水盤で手を洗っていると、ふと何かトイレとは別種の、不快な匂いが鼻をついた。家でも数年前までは嗅いでいたが、親父が禁煙を始めてからはとんと縁のなかった、タバコの匂いである。
高校の体育館でタバコの匂い。フィクションみたいなアウトローである。
「どこからだ?」
匂いはトイレの側からしている。再びトイレに入ると、空気取りの窓の外で一筋紫煙が立ち上っているのが見えた。そこから顔を出して見下ろすと、そこには。
「……あに見てんだよ」
雑草生え放題の体育館裏で、しかめっ面で鋭い目つきの女の子がタバコをくわえてヤンキー座りしていた。
ところで、我が緑森高校では学年ごとに上履きシューズの靴ひもの色が違う。今の三年は青で、ボクら二年は緑。一年は赤だ。
上履きの色の鮮やかさと靴ひもの赤さを見るに、どうやら彼女は一年生。
入学式をふけるような不良が今年の一年にいるらしい。しかも女子で。ここで関わらずに大人しく引き下がっておくべきか、とも思ったのだが……もしやこのヤンキー、ずっとここに居たのだろうか。
ついさっきまでボクが用を足していたトイレのすぐ近くで。だとしたら。音とか。聞こえてたんじゃ……。
「……さっきの、アンタ?」
ヤンキーが些か心配の色を込めてボクを見上げてくる。ボクは解答に困ったが、仕方なく頷いた。
「腹、大丈夫か?」
「は?」
「なんかスゲェ音聞こえてきたけど」
確かにヤバかった。接戦だったと言っても過言でないくらいギリギリだったのだから。お恥ずかしい限りである。と言うか、ヤンキーのくせに人の腹具合の心配するなんて、ちょっとおかしい気もする。ヤンキーは禿びたタバコを排水溝の中に投げ捨てて、溜め息に乗せて煙を吐き出した。
「アンタ、一年?」
「いや、二年だけど……」
「あ……そう、なんすか」
語尾が砕けた敬語になっている。そこが可笑しくて、ボクは思わず吹き出してしまった。ヤンキーが凶暴に顔をしかめるが、トイレの窓は小さくて高いため、殴られることはまず無い。
だからボクは少し気が大きくなっていた。
「君、タバコは止めた方がいいぞ」
「……へいへい。未成年ですもんね」
「それはどうでもいいけどさ、ボクが教師だったらどうするつもりだったんだよ。いきなり停学喰らうぞ」
ボクの言葉に呆気にとられたのか、そのヤンキーは少し目を丸くして小首を傾げた。その様は到底不良には見えず、むしろ小動物的可愛らしささえ垣間見えて、ボクは思わず苦笑した。
「どうしたんだ、そんなに驚いて」
「いや……単に未成年だから止めろって言われてんだと思ったから」
「別にいいよ、吸いたいなら吸えば。でも、吸うなら見つからない場所と時間を見極めてからにしな。こんなテンプレートな場所は止めとけ」
「……うぃっす」
ヤンキーはまだ当惑気味だったが、そう言って小さく頭を下げた。中々素直な子である。あんまり不良少女って感じはしない。背伸びして大人ぶる子供のような雰囲気を感じた。
「君、名前は?」
「東奈々……っついます」
「そっか。入学おめでとさん、東ちゃん。これからよろしくなー」
「東ちゃ……ちゃん付け止めろよ。キメェから」
そのヤンキー、東ちゃんは口を尖らせて、怒るより呆れたような顔でそう言った。
*
ボクと東ちゃんは昨年の入学式の日に、こんな感じで最初の言葉を交わした。
この時は単なる顔見知りだが、やがて東ちゃんは美術部に入部し、ボクと頻繁に言葉を交わすようになる。彼女の飾らない言動や竹を割ったような性格は好ましくて、ボクは彼女には随分甘えさせてもらった。
彼女もなんでか分からないが、それなりにボクに懐いていて。
ボクらは理想的な先輩と後輩の間柄だった。
ボクは、自分にそう言い聞かせ続けていたんだ。




