3 死人の恋
それから二週間後。
阿部が自殺に踏み切ったと言う知らせが届き、ボクは東ちゃんを連れて市内最大規模の総合病院に向かった。留置場のトイレで、自分のシャツを縄代わりに首を吊ったのだそうだ。発見者は看守。早期の発見により……今の所は、まだ生きている。
しかし例え心臓が動いていようとも、脳死状態に陥ったのならば、それは死んだのと同じだろう。
集中治療室の眩しい位に白いベッドに、阿部は埋まるようにして横たわり、まさしく死んだように眠っていた。口には人工呼吸器が取り付けられている。コイツはもう、自力で呼吸する事さえ出来ないのだ。この管一本が今の彼女の命綱だと思うと、何だか笑っていいのか泣けばいいのか分からない。
「ホント、バッカみてえ」
阿部の青い顔を覗き込む東ちゃんはそう吐き捨てた。眉を少し下げた表情がちょっと寂しげだ。見舞いについてくるとも思わなかったし、本当に東ちゃんは変なところで可愛らしい奴である。
「馬鹿みたい、じゃなくて馬鹿なんだよ。命の価値を知らない大馬鹿だ」
顔色がそれほど変わりないのは、元々彼女が草臥れていたからだろうか。それにしてもやつれている。余程、精神にきていたのだろう。彼女の中で五十嵐と言う男の存在はそれ程までに大きかったのだ。そう思うと、彼女ほど哀れな女は居ない。
哀れだ。あまりにも哀れなので、自然と涙が零れそうになり、慌てて目を逸らして窓の外を見て誤魔化した。
彼女が寝かされている集中治療室の窓からは、荒浜海岸の紺碧に輝く海が一望出来る。吹き込む潮風も無駄に爽やかだ。死に行く人々を勇気づけるための景色。そんな気がして、より一層阿部が哀れに思えた。
「……お前は本当に最期まで馬鹿だったよ。救いようがない」
返事などない。期待なんかしないし、彼女にはこのまま死んでもらった方が、正直ボクの気も楽になる。ボクの手にはクシャクシャに丸まったメモ帳のような紙があった。大学ノートのページを千切ったその紙切れには、阿部が獄中で書いた言葉が綴られている。
いわば、遺書だ。
「遺言ってのはズルいよな。従わなければ、人の良心を大いに痛ませる。死者の最後の願いくらい聞いてやるか、って同情が湧いてくる。こうして今、目の前に半死半生の本人が居るのも、ボクの心を揺さぶる効果を倍増させている。もしかしたらコイツ、ここまで計算しているんじゃないかと本気で考えちゃいそうだよ」
ボクはもう一度、阿部真由美の遺書に目を落とした。遺書は二通見つかっている。どうやら彼女は遺書を分割して用意していたらしい。一通は、自分の両親に向けて、そしてもう一通は、今ボクの手にある、ボクだけに宛てられたものだ。
『堂島駿介へ
貴方がどうしてもラブレターを書いてくれそうにないので、自殺の予定を前倒しにしました。きっと貴方は悲しまないでしょう。悲しんでいる様が想像出来ません。貴方は冷たい人です。
これから書く二つの事は、私が最後に貴方に望む事です。是が非でも聞き入れてもらいたい御願いです。
まず一つ、私から哲郎に向けたラブレターを書いて下さい。
私がこうして命を落とした今となっては、書いたとしても貴方の良心が痛む事はないでしょう。だから書け。いい加減書け。書け。頼むから、書いて下さい。一緒に棺に入れてもらえれば、それで十分です。後は私があの世に持っていきます。
それともう一つ。哲郎の次の誕生日にプレゼントする予定だったペアリングがあるのですが、それも一緒に棺の中に入れて下さい。
両親には貴方に渡すようにもう一つの遺書で伝えてあるので、問題ないと思います。ただ、燃えにくいものは納棺出来ないきまりになっていると哲郎の葬儀の時に聞きました。手紙に紛れ込ませて、入れる際にはバレないように注意して下さい。嫌な役目を押し付けてしまって、申し訳ありません。
では、最後に。
いままで散々迷惑をかけてしまって、ごめんなさい。あのススキ頭な後輩さんにも、貴方から謝罪を伝えて下さい。そして、きっと私の願いを聞き入れてくれる貴方に、心から感謝します。ありがとう、それではさようなら』
遺書は、情緒不安定だった阿部にしては、徹頭徹尾落ち着いた綺麗な文字で綴られていた。死の覚悟とは人を正すらしい。ボクは彼女の遺書を無造作に握りしめて、乱暴にポケットに突っ込んだ。
どんなに括りの部分で善人ぶったところで、阿部が狂人であるという事実に変わりはない。だと言うのに、ボクは分かりやすくも阿部の願いを聞き入れてやる気になっている。
遺書は、ボクのラブレターよりも強力に人を呪っている。
「……阿部が死ぬのは、いつなんすかね」
「ドナーカードは持っていたそうだぞ。提供出来る臓器は角膜以外は全部提供するらしい。心臓、肝臓、腎臓……摘出はすぐだろうな。待っている人は日本中にいくらでも居る」
「自殺者の臓器って提供出来んの?」
「さぁな。親族優先目的ってのは出来ない、とかそんなんだった気がする」
ふと、五十嵐哲郎が心臓の病で命を落としたのを思い出した。彼女と五十嵐は結局報われなかったが、もしかしたら日本のどこかで起きるはずだった同じような悲劇が、阿部から移植される心臓によって回避されるかもしれない。
そうでも考えなければ、あまりにも救いがない。
「目は提供しないんすか……?」
「顔にメスを入れたくなかったのかもな。これから好きな人に会いに行くつもりなんだろうし」
「ホント、アホくさ……」
東ちゃんに完全に同意する。阿部の独自の宗教観には、ボクは到底ついていけそうにない。
「会いに行くだかなんだか知らねえけど、そんなんで死ぬなんてダメだろ」
「…………」
「『生きてりゃ良い事ある』なんて言葉は無責任かもしれねぇけどさ。でも、ホントの事なんだよ。良い事って、生きてる時じゃなきゃ見つけられないんだよ。死んだら全部終わりじゃねえかよ……」
知ったような口を利くんだな、お前は。
そう軽蔑気味に言ってやりたかったが、それだとボクまで自殺志願者みたいだから止めておこう。ボクは別に人生に絶望したりしていない。ただちょっと疲れたから立ち止まり気味ではあるけれど。
「さて、もう行くぞ。コイツの顔なんて見てても、ボクはちっとも楽しくない」
「……そう言いながらちょっと涙目っすよ、先輩。ハンカチ貸します?」
「変なとこで気が利くよな、君って奴は」
悲しい、と言うよりはひたすらに虚しい気分だった。ボクを振り回した女の哀れな末路と、彼女を振り回した男の悲劇的な最期を思うと、どうにもやり切れない。知らぬ間に感情移入しまっていたのだろう。不快だ。この女がボクに何をしたのかを思えば、怒りが湧いてくるべきなのに。差し出された花柄のハンカチを素直に受け取って、目を拭い、次いでに鼻までかんでやると、東ちゃんは信じられないと言わんばかりに目を剥いた。
「おいコラテメ……誰が鼻かんで良いっつったよ!?」
「大声を出すな。ここは病院だぞ」
「ぐむむむ……」
「素直に大人しくなる君って、結構好ましいよ」
そう言ってハンカチを投げてやると素直に受け取るのも更に好ましい。だが、病院を出た直後にボクの後頭部に全力のブラジリアンキックを打ち込んだのは良くない。非常に良くないぞ、東ちゃん。ボクまで脳味噌が死んだらどうするつもりだ。
*
阿部の告別式には、五十嵐の時のように学年全体が大挙して押し寄せる事はなかった。既に退学している彼女にかける情は、学校にはないらしい。
緑森高校の学生で参列しているのはボクと、あとは生前彼女と親しかったのであろう数人の女子だけだ。残りは全て彼女の親族だけである。五十嵐の親族は居なかった。彼女の見ず知らずの親戚達から妙な目で見つめられながらも、ボクは彼女の遺言に従い、手紙とペアリングを制服のポケットに忍ばせていた。
一番不審そうにボクを睨んでくるのは、他ならぬ喪主である阿部の両親である。
それもそうだろう。娘が個別に遺書を書いた相手。しかも娘が五十嵐に渡すはずだった、大きさが微妙に違う指輪二つを、何故か受け取った男。気にならない訳がない。一人だけ男子高校生と言うのもボクの悪目立ちに拍車をかけている。
あの子一体この娘とどう言う関係なのかしら、と言う内緒話が聞こえてくるような気さえする。
(早く終われー早く終われー早く終われー)
坊主が経を読むのに合わせてボクも心の中でハヤクオワレとひたすらに唱え続けた。この呪文で時が加速したりはしないが、無心となり気を紛らわすと言う素敵な効果がある。焼香を終えて数珠の玉を数えて時間を潰していると、いつの間にか最期のお別れの時間。
彼女の叔父やら叔母やらイトコやら、らしき人々が目元の涙を拭いながら、棺に小さな花束を収めていく。そんな親戚に混じって副葬品として封筒を収めようとするボクを睨むような親戚達の視線が痛い。
「……故人に頼まれたものですから」
誰に言うでもなく、しかしその場に居る人間に聞こえるように、ボクは一人そう呟いた。
棺から覗く阿部を覗き込む。ボクに包丁を持って襲いかかってきた闇んでれ少女には到底見えない、普通の女の子が死に装束を纏って、そこに眠るように横たわっている。
病院で寝ていたときよりもよっぽど人間味が溢れている。生きていたときより生き生きして見えるなんて、化粧とは偉大だ。阿部は、眠っているその顔は中々の美人だった。その事にボクは初めて気がついた。
「あの世で五十嵐君と仲良くな」
誰に言うでもなく、しかし誰にも聞こえないように、呟いた。
花束と一緒にラブレターを彼女の胸の上に置く。ペアリングは同封してある。特別宝石が埋め込まれている訳でも、飾り細工がされている訳でもないシンプルで質素な、しかしプラチナの指輪が二つ。いかにも高そうな指輪だった。彼女の両親がボクに渡す際に言うには、阿部がコツコツバイトして貯めた大枚全部叩いて購入した、いわば阿部の努力の結晶、生きた証、或いは形見とまで言えるかもしれない。
きっと御骨拾いの時にバレて怒られるんだろうなぁと思いつつも、受け取ったままとっておくつもりなんてないし、質屋に入れて換金する程ボクは外道ではない。
ボクは故に、未練なく阿部真由美から視線を切った。二度と彼女の顔は見られない。でも、それでいい。本来なら見たくもない顔だ。棺の蓋が閉じられ、遺族の手によって霊柩車へと運ばれていく。ボクはそれを見送って、溜め息を吐き出した。
これで終わったのだ。
葬式を終えて清々しい気分……と言うのも変な話であるかもしれないが、憑き物が落ちたのに変わりはない。
阿部の願いは叶えてやった。だから、もうこの話はこれで終わり。死んだ人間には今後などあるのかどうか。ボクは少なくともあまり肯定的ではない。それに死後の世界なんて曖昧模糊なものが、例えあったとしても、ボクがそこで起きている出来事を知る事は不可能だ。
葬儀場(五十嵐の時と同じホールだった)を出て背伸びする。天を仰げば空に雲一つなく、吹く風が桜の匂いを運んでくる絶好の行楽日和。
これならきっと、黄泉への旅も楽なもんだろう。
ボクはそう考えて、自嘲した。
*
「結局、書いちゃったんすよねぇ、ラブレター」
東ちゃんが、キャンパスと椅子に腰掛けたボクと交互ににらめっこしながら、慣れた手つきで曲線を描いていく。白紙のキャンパスを滑る鉛筆の音が心地よい。
だが、何故ボクが絵のモデルなぞせねばならんのだろうか。ボクなんかよりももっと良いモデルがこの部にはいるじゃないか。ほら例えば、君。そう、そこのニヤニヤしながらこっちを見ている紺野薫。君の事だよ。視線に気がついた紺野ちゃんはニッコリ笑ってボクのアイコンタクトなど完全スルーで自分の粘土細工に視線を戻す。ご無体な。
「薫は忙しいんすよ。先輩なんかと違って」
「ボクだってそろそろ真面目な作品を仕上げたいと思っているんだが」
「無駄無駄。どうせ去年みたいに突っぱねられるさ。アタシと一緒で」
全くもって自嘲になっていない。そもそもお前、絵なんか一枚も完成してないじゃないか。コンクールに出せる作品さえない奴が何を言うか。ボクの怒りはしかし、口に出ていく事はなかった。
それよりも、もっと別に話したい事がある。奇妙な出来事について。
「実は、ラブレターと一緒に阿部の棺の中に彼女に頼まれて指輪を二つ入れてたんだがな」
「……それってダメなんじゃなかったっけ」
「あぁ。案の定入れたのがバレて、彼女の両親にメチャメチャ怒られた。遺書見せて納得させるまで半日はかかったね。ホント、アイツは死んでも迷惑な女だった……けど、今話すのはそこじゃぁないんだよな」
自然、声が得意げになってしまった。不謹慎と思われても仕方ないが、今から始める話はどちらかといえば気持ちの良い話だ。
「調べた所、火葬場の炎の火力は、およそ千度。肉は焼き尽くされて、後には骨しか残らない。白金の融点は千七百度くらいらしいから、指輪は原型を留めたまま見つかるはずだろ」
「……まぁ、そうっすけど」
「ところがどっこい!」
思わず椅子から立ち上がってしまい「先輩、大人しくしてろ」東ちゃんにジト目で見つめられながら腰を落ち着け、咳払いで仕切り直し。
「指輪は一つしか見つからなかった」
東ちゃんが驚いて、口をぽかんと開けている。期待を裏切らないリアクションをありがとう。
「は? ……なにそれ? もう一コはどこ行ったんすか?」
「ボクが知る訳ないだろ」
指輪はボクが棺に入れて納棺されてからは、誰も触れる事は出来なかったはず。
だとしたら、もう一つの指輪は一体どこに行ってしまったのだろうか。溶ける、と言うことも有り得ない話じゃない。実は片方だけ銀製だった、とか。見た目だけじゃ判断もつかないし。
それにもしかしたら、阿部の両親が見落としていたのかもしれないし、葬儀屋が勝手に持っていったのかもしれない。
それかあるいは……
「先輩がちょろまかしたんじゃないんすか?」
「失礼な」
その可能性もあるだろうな、他人からしたら。それが一番確率が高い。阿倍の両親にもそれを疑われた。
でも、ボクはそんなケチ臭い真似はしていない。大体、自殺者の遺品なんて気味の悪いものを近くに置いておきたくはない。それにそんな現実的な思考じゃ、最初から最後まで救いのない話になっちゃうじゃないか。
だからボクはこう考える。
「阿部は、天国の五十嵐に指輪を渡せたんだ。無事、再会出来たんだよ、きっと……」
偶然とは恐ろしいもので、阿部の葬儀が行なわれた四月二十五日は、奇しくも五十嵐哲郎の誕生日。
本来なら五十嵐君は十八歳になっていて、法的にも婚姻が認められる年齢になる。もしも阿部が五十嵐に指輪の片割れを渡していたのだとしたら……。
「……おい、東ぃ」
まだ話の途中だったのだが、視線の先に居る女に、ボクは一言物を申さねば気が済まない。
東ちゃんが季節も春先だと言うのに、ブルブルと肩を抱いて震えている。流石のボクも癪に触った。
「だって寒ぃんすもん。二つの意味で」
「…………何と何?」
「指輪が無くなった怪談話。それから、先輩のロマンティック気取ったサムイ理論」
「なんだと!」
ボクはいきり立って立ち上がったのだが、「だーっ! 大人しく座ってろ! デッサン終わってねえんだよ!」怒鳴る東ちゃんに脳天をチョップされ、敢えなく元の椅子に腰を落ち着ける羽目になった。
……冷静に考えると、縁もゆかりもない人間からしてみればこれは単なる怪談話でしかないのかもしれない。死後の世界がどうのこうの、なんて真面目に考えるつもりは全くないけれど、でも、せめてボクくらいはこんな風に思っていてやった方が良いだろう。
彼女は真剣に、自分のしたい事をして、ただただ身勝手に生きた。
ある意味清々しくて……ボクはそんな彼女がもしかしたら少しだけ、本当に少しだけだが、羨ましかったのかもしれない。五十嵐と並んで、本当に嬉しそうに笑顔を浮かべる阿部真由美を想うと、ちょっぴり悲しくて、でもちょっぴり優しい気持ちになるのだから、きっとそうなのだ。




