4 不吉の予感
翌朝、優はボクを起こしにきてはくれなかった。
昨日の今日で、恐らく照れているのだろう。実際今ボクも朝から優の顔を見ると、恥ずかしくてたまらないだろうから。時間はまだ早い。母親はもう出掛けているだろうが、リビングに降りると朝食も弁当もテーブルの上に用意されていた。
「食べて」
そんなちゃっちいメモが添えられているのを見て、ボクは苦笑した。
母親の、ではない。優が作ったものだとすぐにピンときた。文字がえらく震えていた。
「いただきます……」
味噌汁、焼き鮭、ご飯、納豆。そんな手の加えようのない簡素な朝食が、何より美味しく感じられた。味覚なんて曖昧な概念は、気の持ち様でいくらでも変わるのだ。これで優と一緒に朝飯を食えたらもっと美味しいんだろうな、と思うといよいよ目覚まし時計の利用を検討しなければならない。
とびきり強烈な奴を買おう。
……いや、優に起こしてもらいたいから、強烈な奴を優にプレゼントするか。馬鹿なことを考えながら、ボクは一人でニヤニヤしていた。何か大事なことを忘れている気がするのだが、思い出せなかった。
*
学校では必然的に隣同士の席に座る優とボク。
顔合わせが照れ臭い等と言っていられるのも朝の間精々昼休み手前くらいまで。何事もなかったかのように振る舞うのは難しいが、今にして考えればボクと優は結構普段からベタベタしてたので、周りはボクらの変化には気がつかなかったようだ。
当然のことだが……海津も、だ。
そう。海津利之。ボクの友達。優の事を好いている、大事な大事な友人。
「…………」
教室の隅から、海津の視線が飛んでくる。今は授業中だから集中しろと言いたいが、今日一日、朝から海津はずっとそんな調子なのだ。ラブレターをいつ渡すべきか。多分今、そのタイミングをボクに尋ねている。
ボクは参った。本気で参った。
協力すると言っておいて翌日にはコロッと掌返し、君が愛する優ちゃんと恋仲になりました。口が裂けてもそんな言葉は吐けない。あまりにもクズだ。クズい。クズ過ぎる。
「駿くん、顔青いけど……」
隣席の優が気を遣って声をかけてくれた。ボクは曖昧に苦笑いしてなんでもない、と返すと優は突然海津の方を振り向いた。どうやらボクの視線の先を辿っていたらしいと言うのに気がついたのは、そのすぐ後だ。海津は慌てて視線を前に向ける。動きが大き過ぎて椅子が喧しい軋みを上げた。
「ん、海津どうした?」
「いえ、なんでも」
教壇に立つ老教諭に軽く返した海津は、その後も不自然にボクと優の方に視線を向け続けている。いくらなんでも挙動不審だ。あの馬鹿は相変わらず分かりやす過ぎる。
「海津君、どうしたの?」
「いや……わ、わからんなぁ」
多分告白とかされるんじゃないのか、ラブレターで。……そう言えたら気が楽なんだが。もうボクには成り行きを見守るしか出来ない。そうだ、ノータッチを決め込もう。海津がラブレターを優に渡す。それを読んだ優が海津をフって、海津は恋愛への未練を断ち切り、それで全て終いになる。
ボクが関わる余地なんて、もうどこにだってない。
*
その日、海津は優にラブレターを渡した。優は困りながらもそれをしっかり受け取った。それは、ボクも相談を受けたのだから間違いない。
そのまま突き返すのもなんだから、と優は結局……十中八九手紙を読んだのだろう。
ボクが初めて代筆した、ラブレターを。
酷い罪悪感を覚えたが、事態は良好だった。
なにせボクは勝利者なのだから。優がボクに惚れていた。ボクも、優を受け入れた。ボクらを繋ぐ絆は十五年の共有の記憶。そんな牙城が崩されるはずがない。幼馴染みの美人と恋仲。これを勝利と呼ばず何と呼ぶ。
端的に言って浮かれ切っていたのだ。
惨めに文句と言い訳を垂れる無様さを、どうかご容赦頂きたい。
だが、一体誰が予想出来ただろうか。一体何が、ボクと優の鋼の絆を引き裂く事が出来ると思うだろうか。何はともあれ、こうして最後の一手が積み上がった。
運命は、最早一本道。ボクに逃れる術などない。
*
ボクが異変に気がついたのは、それからおよそ一週間後。
七月に差し掛かり、夏の暑さが本格的になった頃であった。
「駿くん! もう、起きてってばー!」
今朝も今朝とて、優はボクを起こしに来た。日常茶飯事と言うよりも毎日の、この朝の儀式のようなものに、流石のボクも慣れが生じてきた。……はずなのだが、妙な肌寒さを感じる。それもそのはず時計を見ると、まだ六時であった。
「まだ時間あるじゃんか……なんか朝、用事あるのか?」
「昨日言ったじゃん! 私、今日から陽子の代わりに空手部のマネージャーやんなきゃいけないんだって」
そんな事を言っていた気もするが、適当に流していたようだった。クラスメイトの宮本陽子は、クラスの中でも飛び抜けて大人しい存在で、空手部のマネージャーなんてやってた事をボクは今知った。そんな影の薄い彼女は尚も薄幸なことに、三日前に交通事故に遭っていた。見通しの悪い交差点での、チャリと軽自動車の出会い頭の衝突事故だ。
幸いにも命には全く別状がないらしいが、足と腕と指、実に三ヶ所を骨折してしまい、しばらく入院する羽目になったとか。然程親しくないボクは見舞いには行っていないが、最近優は毎日彼女の病室まで足を運んでいるらしい。恐らくそこで、頼まれたのだろう。空手部のマネージャーなんて結滞な仕事。
優も不運に思ったのか、肩を竦めて小さく溜め息を吐いた。
「……ぶっちゃけ誰でもいいらしいのよね。たまたま陽子の先輩と見舞いの時間被っちゃって、あれよあれよと代理の話が進んじゃってさ」
運が悪かったな、本当に。ボクはドンマイと言ってやるべきか。
「だからこんな時間になっちゃうけど、ひとまず起きて。お弁当と朝ご飯は下に作っておいたから」
ウチの高校の空手部は県内でも有数の強豪校で全国大会の常連らしく、練習の厳しさは全学生に知れ渡っていた。この季節になると、朝練はほぼ毎日。放課後も、完全下校時刻を過ぎてその後、市内の体育館の道場を借りて練習に励む。そうして毎日空手漬け。朝から晩まで空手空手。何をするにもまず空手。日曜日に完全休養日があるのが唯一の救い、と海津が前に愚痴っていた。
そう言えば、海津も空手部だったか……気まずくないのだろうか。そうこうしているうちに、優はさっさと立ち去ろうとしている。
「おい、ちょっと待ってくれよ」
「ノンビリ屋の駿くん待ってる時間ないの! じゃ、私は先行くからね!」
後ろ手に手を振って、優は颯爽と駆けていき、風が通り過ぎて行ったような呆気のなさだけが残った。ボクは、海津が「マネージャーは日曜日も週予定と細かい練習スケジュール組むから、本当に忙しい」と零していたのを思い出していた。