3 幼馴染みから恋人へ
その日の夜のことになる。
優は最近部屋着に成り下がったらしい中学時代の体育着に身を包んで、ボクの部屋で寝転びながら漫画を読んでいた。
深い理由はない。ただ単に優が最近ボクが購入し始めた漫画にハマり、こうして続きを読みに来ているだけだ。人のベッドを占領しているのは少々腹が立つ。ボクは向き合いたくもない勉強机に座ることを余儀なくされた。
……と言っても、ボクも特にすることもないので、散々やり尽くした携帯ゲームを弄りながら時折窓の外を通り過ぎる車の明かりにハッと顔を上げたりするばかりだ。
こうしてダラダラと無駄に過ごす時間はそれほど嫌いではなかったりもする。
ボクらはいつもこうだ。ボクがあまり喋りたがりでないからか、優も釣られて口数が減る。自然、二人何故か同じ空間に居るのに別々のことをしていると言う奇妙な状況が出来上がる。
ただ、ボクらに当たり前の奇妙でさえ、今日はいささか様子が違った。それはボクにも言えたことだし、優にも言えたことだ。二人とも、今日は胸に一物抱えているような状態だった。
「そういや、優。放課後どこ行ってたんだ?」
何気なく聞いた。背後でボクのベッドが僅かに軋む音がした。
「告白されちった……えへっ」
振り返らなくても、恐らく彼女はおどけた表情を取り繕っているだろう。
「米山に、か」
「なんだ……知ってるんじゃん」
どうだった、と聞いておくべきだろうか。どうせ失敗だろう。分かっているが……もし本当に成功していたら、マズい。海津の挑戦権は残しておいてやらねばならない。当たる筈が無いと思いつつ購入したバラ売りの一枚くじを握りしめながら宝くじ広報番組を見ているような気分だ。……この場合は逆か。
「でも、断った。米山くんのこと、あんまり知らないし……」
優が先んじてくれた。ボクは言葉を上手く返せなかった。口を開けば、喜色が滲み出てしまいそうだったから。
故に、再び、二人とも沈黙。水の中に居るわけでもないのに息が苦しくてたまらない。ボクが意を決して優の方を向くと、優と真っ直ぐに目が合った。すぐに逸らされる。
頬は少し赤く、どうも照れ臭いのか、両手でしきりに赤い頬を触って冷ましている。
優は、中学の頃にもう少し異性としての男性に触れ合っておくべきだったのだ。一緒に混じって遊ぶ男じゃなくて、恋の相手としての男性というものを知っておくべきだった。何も知らぬままの無垢な子羊が、高校に入っていきなり狼共から告白ラッシュ。戸惑うのも当然だろう。
「モテる女はツラいな、優」
「……そう、なのかな?」
本人はあまり自覚していないようだ。安心しろ、過大評価でも何でもなく、お前は魅力ある。外面内面、共に。……とは流石に照れ臭いので言えない。
「良く知ってればいいのか」
代わりに口から出てきた言葉の意図は、自分でも良く分からない。優も同じなのか、小首を傾げた。
「え?」
「……一番星が綺麗だなぁ」
ボクは再び前を向いて窓の外を見上げながら、独り言を呟いた。優もボクの言葉には大して興味を示さなかったのか、ボクを咎めることなく視線を漫画に戻していく。
再び二人、沈黙。いつもの空気より、少しだけ位相がずれている。端的に言うと、居心地が悪い。ボクと優の波長が上手く噛み合っていない気がした。こんなことはそうない。この珍しい事態に身を委ねるのも一興……なんだろうか。
自分から何かを話せば、どうしても海津を話題に出してしまいそうになる。ストレートに、アイツのことをどう思うか、聞いてみようか。それもありかもしれない。そう思って優を振り返ると、優は漫画を投げ出して、朝のボクと同じような姿勢で仰向けに寝転んでいた。
「みんな、どうして知り合って数ヶ月で告白なんて出来るんだろ」
ポツリと、誰に問いかけるでもないような口調で優は呟いた。それにはボクも同意する。たかが百日程度でその人の何が分かる。見えてくるのは、精々趣味嗜好と上辺の愛想くらいなもんだ。
それだけの情報を頼りに恋人として付き合いを願い出ても良いものなのだろうか。恋人なんて居たことのないボクがそれを言う資格など、ないのかもしれないが。
「一目惚れ、とか言う話もあるぞ」
ボクは優の意見に反論を返す。これはひとえに、海津を思ってのことだ。せめて告白くらいまでは嗅ぎ付けさせてやりたい。
「それって要するに、好きなのは見た目だけってことでしょ?」
今度は反論の余地はない。だが見た目は男女の仲では、重要なファクターだと思う。どんなに真面目で誠実だと言われる人間だって、出来るならば相手には自分の好むような姿形をしていてもらいたいだろう。
お前だってダイエットするだろ? 髪の毛整えるだろ? それは良く見られたいからだろ?
「ダイエットしたことないもん。髪は……まぁ、変な風にならないようには弄るケド」
「……その言葉、鹿島さんには言うなよ」
「なんで?」
見た目を気にするのはボクらくらいの年なら普通のことだし、特に男子より女子の方がより顕著だ。恐らく全宇宙でもっとも容姿や仕草に気を遣う生物は女子高生だろう。前述の鹿島さんを見ていると、本気でそう思う。……別に彼女がちょっと横に大きいとか思っている訳じゃあない。周りが細すぎて、彼女が気にし過ぎなだけだ。
「とにかく、見た目は大事だ。優だって、汚い男よりは格好良い男の方が良いって思うだろ?」
「うーん……」
同意が得られない。コイツ、本当に見た目はどうでも良いとかのたまうつもりだろうか。だが、それなら都合が良い。性格に重きを置いているのなら、海津にも一応の希望は見えてくるだろう。
しかしそれでも、何故か海津が本当に優と恋仲になるような気はしない。それは、優が何故かボクに悲しそうな目を向けながら、
「駿くんは、見た目が良ければそれで良いの?」
なんて否定的態度で聞いてくるからかもしれない。
海津が優に惹かれた要因は、その容姿が七割超だろう。ボクの肯定否定は、ボクにとってはもう問題ではない。海津は間違いなくフラれる。それを今、改めて確信した。急に肩の力が抜けた気がして、勝手に微笑みと溜め息が漏れ出た。
「見た目が一番大事とは言わないさ。性格が合う子が良い」
見た目が良くても言い争いでしかめ面ばかり見るような日々だったら、それはきっとつまらない。美人のしかめっ面よりも、不細工の笑顔の方がよっぽど見ていて気持ちいい。優はボクの言葉に一定の理解を示したらしく、今日ボクの部屋に来て初めて微笑んだ。
「そっかぁ……やっぱ、似てるね、私ら」
「君がボクに似たんだろうな」
「……うん、そう思う」
盛大に肩透かしを喰らった気分だ。「駿くんが私に似たんだよ」と言うツッコミ待ちだったのに。優は体操着の裾を指で弄りながら、顔を俯けていた。
「小ちゃい頃から、駿くんとばっかり遊んでたからかな」
優がクスクスと笑いながらそう言った。彼女はすっかりいつもの調子を取り戻しているようだった。
「……ボクのせいにすんなよ」
「駿くんのせいって訳じゃないけど……ま、私の主成分の半分は駿くんでできてるからね」
「お前は頭痛に効果でもあるのか?」
ボクも調子が出てきた。
今日、ボクらの様子がおかしかったのは一過性の台風みたいなものだ。たまたま二人とも、デリケートな事態に巻き込まれていたから会話が微妙にぎこちなかっただけなんだ。だが、胸を撫で下ろして安堵できるかと思いきや。
「でも、最近は本当にそう思うんだよね。……私、駿くんいないとダメだもん」
流石に聞き逃しはしなかった。優はボクの方を見ようとしない。仰向けの姿勢はいつの間にか崩れ、勝手にボクの枕を抱き締めていやがった。
一体どんな意図があって今の言葉を吐いたんだ、優。顔が赤いぞ、優。お前、今日はどうしたんだ、優。帰って寝たらどうだ、優。
心の奥底から、何か妙なものが込み上げてくる気がした。唾を飲んで無理矢理押し戻す。
「駿くんも、私がいないとダメだよね」
「……別に」
「朝起きれない」
「めざまし時計を買うさ」
「お弁当作れない」
「高校には購買も学食もある」
「数学わからない」
「向山君辺りに見せてもらうよ」
「お小遣い無駄に使う」
「無駄なもの買った覚えなんてないね」
「……むー」
ムクれる優は、ボクに枕を投げつけてきた。それを難なく受け取ってそれを投げ返すと、優は溜め息を吐きながらまた天を仰いだ。
「駿くんは、私がいなくなっても平気なの?」
自分から「駿くんいないとダメだ」なんて言う奴のセリフじゃないな。だが心優しいボクは答えをちゃんと返してやった。
「別に、お前は居なくなったりしないだろ? 引っ越しの話なんて聞いてないぞ」
「……そうだけどさぁ」
「無駄なことは考えても意味がないのさ」
「んむーうー」
足をばたつかせる優は、とうとう体を起こして胡座をかいた。不機嫌そうにちょっと赤らんだ顔を膨らませている。学校では割と常識あって頼れる女子っぽく見られているんだが、ボクと二人になるとコイツは若干幼児退行する。幼い頃の性分が中々抜けないと言うのは本当なのだ。
「駿くん、私、言っちゃうよ?」
「何を」
「…………」
優は枕に顔を押し付けた。その状態で、モゴモゴと何かを喋っているようだが、当然くぐもって何を言っているのか皆目見当もつかない。しかし優は顔を上げて、ボクを見つめてくる。言い切った、みたいな顔をして。期待している目をしているので、ボクは恐らく彼女が望んでいるのであろう疑問をぶつけてやった。
「……今、なんて言ったんだ?」
「教えて欲しい?」
悪戯っぽく微笑む優。案の定、嬉々として返してきた。コロコロと表情の変わりやすい奴だ。不機嫌モードも抜けてきたようなので無理に付き合う必要もないのだが、折角だからこのまま上機嫌を保ってもらおう。
「ボクに向けて言ったんなら、教えて欲しいね」
「えへへへ……じゃ、ファーストヒントー」
面倒臭い。だが我慢。
「駿くん以外には言いませーん」
「この漫画貸してくれってか? 良いぜ、それもう読んだし」
「即答!? しかも断定!? 違うよ、そうじゃないって」
優はオーバーなリアクションを示す。ちょっと顔が曇る。また不機嫌になるのはもっと面倒だ。少し真面目に考えないといけないな。
「漫画じゃないのか……次のヒントは?」
「私の言葉に駿くんは多分Yesで返してくれる……と、思いまーす」
ちょっと自信なさげだ。と言うかYes or Noなのか。じゃ、優は何か質問をしたようだが。……あれ? やっぱ『この漫画貸してくれ』じゃないか?
「違うってば! もー……良いや、正解発表するから」
そう言って優は立ち上がる。そしてわざわざ、ゆっくりとボクの方に歩み寄る。まるで獲物を狩る猫のように、音もなく。膝小僧が擦れ合う距離まで寄ってきた。
「……なんだよ」
見上げた先で、優は言葉では何も返してくれなかった。椅子に座る僕に、もう半ばもたれ掛かるように体重を預ける優。なんだこれは。いきなりくっ付いてくるなんて、もう小学生のガキじゃないんだから。
ボクはそれなりに男の体だし、優だって女の体なんだから、そう擦り寄られるとボクは参ってしまうわけで。
「お、おい、優……」
避けようと背を逸らすと、ボクらは派手な音を立てながら二人とも一緒に椅子ごとぶっ倒れた。
階下から聞こえてくる母親の「暴れないのー」なんて呑気なお叱りの言葉が、とても遠く聞こえる。背中に襲ってくる痛みより、鼻先にある優の真っ赤な顔が気になって仕方がない。
なんなんだよ、これ。
ボクにのしかかっている優。胸が触れ合っている。息が荒い。ボクも胸が苦しい。お互いの呼吸のリズムが完全に重なっていた。今にも涙が零れそうな程に潤んで揺れる彼女の瞳に、ボクの困った顔が映っている。ちょっと眠そうにさえ見えるその目は、今まで感じたことがない位艶やかで、思わず息を呑んだ。
殆ど鼻がくっ付いていた。目を逸らしても、そこには優の顔しかない。
吐息がこそばゆい。ボクの顔を撫でる、優の柔らかい髪がむずむずする。心臓があまりに激しく脈動するので、爆発して死んでしまうかもしれないと本気で思った。体が内燃機関でも取り込んだみたいだ。
甘い匂いがした。優の吐息と、シャンプーの香りが混じっていた。
体の前面が感じ取る、優の存在。もはや異様だった。これまで味わったことのない温かさ。そして、柔らかさ。掻き抱けば途端に潰れてしまいそうなか弱いその体は、暴力的なまでにオンナノコだった。
「私、駿くんのこと、好き」
優は囁いた。その声は、ボクは不思議な感情を沸き起こさせる。愉悦感、優越感、義務感、正義感、達成感……どれも違う。それと同時に、どれとも似ている。強いて言えば、独占欲が満たされているような気がした。
「駿くんは?」
当惑。ひたすらに、当惑だった。
優がボクのことを好きだと。そう言った。
頭の中が真っ白だ。
好きとか嫌いとか男女の仲とか、そんな今まで碌に考えた事もない様な事ばかりが押し寄せて、ボクを翻弄する。不意打ちだ。ズルい。こんな茹だった頭で何を考えれば良いんだ。
ボクらはただの幼馴染みではなかったか。兄妹だか姉弟だかではなかったか。違うのか。ボクらは結局は、男と女だったんだろうか。
幼馴染み。
向山君に借りたゲームを思い出した。好感度が上がりやすい。一緒に居る時間が、長いから。
否、兄妹。
ボクにとって優は妹みたいなもんで、しかし優にとってボクは兄ではなく男性で。
告白を断ったと聞いて安心した。
海津のためだ。
……本当に?
…………ボク自身は?
ホッとした?
……嘘だろ。
嘘じゃないのか……?
じゃあ優が誰かとくっ付けばいい。
優の隣を、ボクの知らない、見た事も無い男が歩いているのを、許せるのか?
……どうだ、許せないんだろ?
…………許せないんだな?
なら、なんだよ。
考える時間なんてないぞ。
ハッキリしろ。
答えは二通り。
YES or NO。
優が嫌いか。
元気で、可愛くて、世話焼きで、懐いてくれる彼女は。
嫌いか。
いや、嫌いじゃない。
ならば好きか。
幼い頃から共に育ってきて、綺麗も汚いも知り合う彼女が。
ボクにとって優は。優は。
一体なんなんだ。妹なのか。姉なのか。ただの友達なのか。親友なのか。
考えは纏まらない。しかし、体は既に動き始めていた。
ボクは悲しい事に、男性なのだ。
女が、好きなのだ。
「……優!」
ボクが少し首を持ち上げるだけで、簡単に唇が触れ合った。
優は一瞬だけ目を大きく開いたが、目を瞑った。大粒の涙が一滴、頬を伝って零れているのが見えた。
触れている唇が、細く上向きに歪んでいく。笑っているのだ。
優が喜んでくれる。
そう思うだけで、感じた事のない様な達成感があった。
ボクはどうしてこんなに嬉しいんだろう。
そう言うことなのか。
ボクも、優が好きだったのか。
本当にそうなのか。
……本当に、そうなんだ。
あまりにも当たり前の日常に溶け込んだ感情故に、こんな事がなければ気がつく事さえなかっただろう。
でもこの気持ちは確かにボクの心に根付いている。この美人で、甲斐甲斐しくて、人懐っこい幼馴染みが、世界で一番大好きなんだ。
認められた感情は次第にボクの制御下を離れ、やがてボク自身の手綱を握るに至り、そして暴走を始める。俄に背中に手を回した。優の首を抱いた。もっと唇が欲しくなった。息が苦しくなってきた。しかし、止めない。このまま窒息死しても、多分ボクは後悔しない。意識が半ば遠のきかけてから、ボクらはようやく顔を離した。
二人の口の間に伝う透明な糸を舐めとって、半ば意識が飛びかけている優の肩を軽く叩く。どうやら、窒息しかけたのはボクだけではないらしい。
「…………ファーストキスって息苦しいんだね」
会話をしてはいけない気がする。この空気を壊してしまうと思った。だからまた、ボクは彼女にキスをした。二度目の優の唇は、一度目よりも瑞々しかった。
*
想い出はいつだって美化される。
当時は、こんなに沢山のことを考える余裕なんて到底なかった。もっと泥臭い欲望に支配されていたはずだ。ボクも優も、ただただ必死で、無我夢中だっただけだ。自分の欲望と相手への気遣いを天秤にかけながら、しかしそれでもボクたちは最後まで互いを求めることを止めなかった。
この日この時、優の心は確実にボクを向いていた。
ボクを求める優の切ない声は、今でもまだ耳の奥に残って離れようとしない。
だからだろう。ボクの心は今でも優に向いている。
悲しい一方通行である。
なのにまだ諦めていないのは、ボクは知ってしまったからだ。
ボクの呪われし力の存在を。
だからボクは手を伸ばし続けるしかない。
ラブレターを、書き続けるしかなかったんだ。




