1 始まりの始まり
「駿くん! 朝だよーっ! おっきろー!」
バタバタと廊下を走る足音。破壊する気なのかと疑いたくなるような勢いで開かれる自室の扉。ガラガラと喧しく音を立てて開く窓。
ついで、部屋に吹き込んでくる初夏の爽やかな風。そして耳に飛び込んできた女の、鈴のように高い声。ここ最近……ボクが高校一年になってからこの二ヶ月、何度となく繰り返されてきた光景なのだが、未だに慣れない。
全く毎度毎度、この女は一体誰に断ってボクの部屋に上がり込んでくるんだろうか。
「駿くんのお母さんに決まってんじゃん」
口に出して文句を垂れれば、予想と寸分違わぬ答えが返ってきた。
母はボクの高校入学に合わせて近所のスーパーにパートに出るようになった。仕出し等の業務のため、ボクが目を覚ます頃に母はとっくに仕事場に出掛けてしまっている。ならば低血圧で朝中々目を覚まさぬ愚息は目覚まし時計様に叩き起こされるべきなのに、このボク、堂島駿介ときたら、一度目覚まし時計に運命を託した時にのんびり爽やか平日の午後三時に目覚めやがった。これじゃぁ不安でパートにも行けやしないよ、と母親に厳しく叱咤されたところでボクの目覚めが良くなる筈もなく、代替案としてやはり誰かに起きるまで起こしてもらう必要がありそうだ、と言う結論に至ったのだ。
ならばその役目は誰がやる、と言う段になってから、奇特なことに名乗りを上げたのが彼女である。
うっすら眼を開けると、目の前に同じ高校の制服に身を包んだ女の子が仁王立ちしていた。
エネルギッシュな満面の笑顔を朝の七時半から振りまく彼女の名は、柳沢優と言う。
年はボクと同じ。家ははす向かい。互いの母親同士が偶然にも高校の頃の同級生だったと言うこともあり、必然的にその子供であるボクと彼女も生まれた頃から一緒に居ることが多かった。
いわゆる、幼馴染みだ。
「……おはよ」
ボクはベッドからノロノロと起き上がり、まどろんだ目を擦って優を見つめた。
頼んでもいないのに優は、床に散らばっている漫画やプリント類を勝手に拾い集めて、慣れた手つきで棚に戻していく。
甲斐甲斐しい、と言う言葉が実に良く似合う。それにしても……短い制服のスカート。四つん這いと言う姿勢。
「どったの、駿くん」
ボクの視線に気がついたらしい優が小首を傾げている。
「パンツ、見えそうだぞ」
極めて冷静に指摘してやる。これがボクの優しさである。
優は慌てて立ち上がって、スカートの裾を下に引っ張る。釣り上がっていく眉の角度。ズンズンと、まるで怪獣の行進みたいに足を踏み鳴らして近付いてくる。
「……変態」
「別に見てもいいだろ。減るもんじゃないんだし」
肉迫する優の額を突ついてやんわりと押し返し、ボクは立ち上がって大きく伸びをし、嘆息する。最近の目覚めは彼女のおかげで非常に慌ただしい。本来なら母親に青筋立てられながら三度程起こされるボクなのだが、こうして部屋にズカズカ無遠慮に突入してくる輩のせいで、おちおち二度寝三度寝も出来やしない。
幼馴染みが毎朝起こしにきてくれるなんてシチュエーションが、まさかボクの身に降りかかるなんて数ヶ月前は想像だにしなかった。クラスメイトの向山君あたりが知ったら、きっと泣いて羨むに違いない。
だが、実際はそんなに良いものでもない。温い布団を強制的に剥がされて、朝の冷たい空気に突如身を晒す羽目になるのだ。心臓が弱い人間にはやってはいけない。
「さ、さ! 早く支度しなさいよ!」
「……そりゃ、したいのは山々だけど」
お前が見てる前で着替えろってのか。どんなプレイだそれは。そう言ってやると、優は少し顔を赤くして頭をかいた。えへへ、なんて苦笑さえ漏れている。
「下で待ってるから! 急いでねー!」
夏の太陽みたいに無駄に明るい笑顔を残しながら、優は川の流れを思い起こさせる綺麗な長い黒髪をなびかせて、階下に消えていく。一瞬だけ見蕩れてしまった自分がいた。軽く頭を振る。
最近、優は変わった。と、思う。
中学の頃から美人になる素質はあったと思うが、やはり中学卒業、高校入学と言う節目を迎えてから、急に大人びた。小学生の頃は人形遊びやママゴトより専ら野原を駆け回るのに一生懸命だった、生傷絶えぬヤンチャガールだったのに。
それが今ではどうだろうか。
細身でしなやか体つきと、人面桃花とはまさにこのことと言わんばかりに整った顔立ち。絵になる美人の癖に、口を開けば前と同じく明るく溌剌とした元気印な女の子。しかしがさつな面は無く、世話好きで優しい性格。『花も恥じらう』と形容される類いの、フィクションでしか語られぬような乙女だ、と贔屓目無しにそう思う。悪いところを見つける方が難しい。と言うか、無い。ボクは多分彼女の親の次くらい一緒に居る時間が長いんだが、悪いところが全然見つからないのだ。
誤解を招きたくないが、そもそもボクはそんな彼女の荒を探すような、穿った見方はしていない。
純粋に、立派になったなと兄のような上から目線で感心し切りの毎日である。
「毎朝起こしに……か」
恋愛シミュレーションゲームは向山君に押し付けられたゲームを一度だけやった程度だが、そのヒロインの一人に今の優と殆ど同じシチュエーションの子が居た。
同い年の幼馴染みで、世話好きで、屈託ない明るい性格で、毎朝起こしにきてくれる甲斐甲斐しさを持ち、そして……。
異様に好感度が上がりやすい。
……実際、どうなんだろうか。ゲームと現実が違うことくらいボクにも分かっている。優は本当のところ、ボクの事をどう思っているんだろう。それこそ兄妹のように毎日遊んでいた仲である。彼女は単に兄貴(ボクが弟と言う発想は浮かばなかった)を起こしにくるような心境なのだろうか。彼女にとってボクは単なる世話の焼けるお兄ちゃんなのだろうか。
ボクにとって、彼女は……。
「駿くん早くしてよー!」
階下からの優の声にボクは思考を停止した。未だにパジャマ姿だったボクは、慌てて制服をハンガーから下ろした。
*
ボクの家から高校までは、歩きでも二十分くらいしかかからない。
割と近所の学生が多いのか、この時間帯の通学路は同じ制服を身に纏った学生でごった返す。ボクと優はその母集団の小さな一組だ。
「最近暑くなってきたねー……」
夏服のリボンを少し緩め、襟元から風を送りながら優はぼやく。
彼女の言う通り、ちょっと歩くだけで額に汗が浮かぶ季節になった。日もかなり長くなってきたし、そう言えば家の庭先のアジサイも徐々に色を失い始めている。蝉が鳴き始めるのも時間の問題だろう。
「本当にな。夏は嫌いだ……」
「駿くんって、毎年この時期になると夏風邪引いてたっけね」
「中学時代は毎年じゃなかったろ。二年の時は頑張った」
「三分の二じゃない、それ」
全くもってその通り。必要以上にクーラーの風を浴び続け、気がついた頃にクシュンと一発クシャミが漏れ、あれよあれよと熱を出す。毎年毎年父親に『学習しろ馬鹿』と罵られるのは最早恒例行事のようなもんだ。
「汗かくの嫌いなんだよ。ベタつくし」
「男子高校生としてそのセリフはどうなの? 駿くんって絶対漫画の主人公とかにはなれないよね」
「別になりたいとは思わないけど」
多分植物みたいに穏やかに生きているボクが主役になっても、カタルシスが感じられる物語は描かれないだろう。
それこそ、まだ目覚めていない秘密の力が眠っている、とかでもない限りは。
「……ん?」
優は聞いているのかいないのか、何かに気がついて後ろを振り返っている。釣られて背後を見ると、遥か彼方から大きく手を振る男が、大声を上げながら追いかけてきているではないか。
周りの学生達は迷惑そうにしながらも彼に道を譲っている。男はまるでサイレンを鳴らすパトカーのように喧しく、その上最短距離で僕たちの方まで駆けてきていた。始めは親指みたいに小さかったシルエットが見る見るうちに拡大していき、やがて見上げんばかりの大男となって荒い息を吐きながらボクの真ん前までやってきた。
「おはよ、海津くん」
「はぁ……はぁ……お、はよう、柳沢さんと、堂島」
追いつくのに必死だったようで、男は息を切らして手に膝をつき呼吸を整えている。呼吸が整うのに十秒程要したソイツは、顔中に浮かんだ玉の汗を半袖カッターシャツの袖で拭いた。顔を上げると、太い眉と大きな眼が特徴的な、一昔前の空手漫画の主人公みたいに濃ゆい面がお目見えした。事実この男は通学鞄の他にも、帯で結んだ道着を携えている。
「いやぁ、二人の背中が見えたもんでつい走ってきちまったぜ!」
がはは、と豪快かつ清々しく笑うその男は海津利之と言う。多分優の感覚で言えば、この男は漫画の主人公に向いているのだろう。後先考えぬ単純明快な性格と、それを実行する行動力を持ち合わせた大柄で筋肉質、ちょっと汗の匂い漂う男だ。
彼は中学の頃からのボクの友人で、かつ今現在のボクたちのクラスメイトだ。
「汗凄いけど、ハンカチある? 無いんなら貸そうか?」
「う……す、すまん」
優のおせっかいをたたらを踏みながらも、受け取って軽く額を拭く海津。
しかし次から次へと汗が噴き出すので、拭いても拭いてもきりがない。海津は諦めたのか「洗って返す」と短く告げた。こうして立っているだけでも汗をかくというのに何故お前は全力疾走でわざわざこっちまで来たんだ、海津。
「だから、お前らの背中が見えたもんで」
「……もういい。あと、あんまり近付くな。お前、熱い」
海津が一歩ボクに近付いただけで気温が二度は上がった気がする。優も同じことを考えたのか、後ずさった筈のボクと何故か肩を並べていた。海津は若干傷ついたのか、形のいい眉を情けなくハの字にして、分かりやすく肩を落とした。
「ご、ごめん」
律儀に謝る優。ボクは……まぁ、別にいいだろう。海津との付き合いはそれなりに長いんだ。これくらいタダの『イジリ』の範疇に過ぎない。
「柳沢さんは優しいなぁ……」
「そ、そんな大袈裟な」
「いやぁ、ホント、堂島とは大違いだよ」
海津は未だに情けない顔だが、ついさっきとはまた毛色の違う表情だ。鼻の下が伸びてんだよこの親父顔め。妙にかちんときて、ボクは優の手を軽く引いた。
「優、早く行こうぜ。ついでに海津も」
「ついで……お前って奴は本当に」
不満ありげな海津。ボクは今日一日、海津のことを弄り倒してやろうと密かに心に決めた。
*
今更であるが、これはボクの昔話……みたいなものだ。
ほんの一年半程前の、まだボクが自分の能力になぞ気がつかぬ極々普通の男子高校生であった時の、束の間の安息の時間だ。
そして同時に、ボクの人生観が丸ごとひっくり返ってしまう大事件への序章である。
やがて運命は動き出す。ただただ、過酷な運命が。
*
優は、学校でも男女問わずかなり人気がある。
そりゃ結構美人な上に嫌みっぽさもなく、しかも完璧すぎずにちょっと抜けた部分もある……と親しみやすさのお手本みたいな女なんだから、友達もすぐに出来て当然だろう。高校入学で僅か二ヶ月程だと言うのに、既に優を中心に大規模な友人グループが形成されている。昼休み、クラスメイト男女入り交じって十人くらいでさながら合コンみたいな座り方で一緒に飯を食っている光景は、一般的に考えれば結構異様だと思う。
もっとも、ボクもその輪の中に組み込まれている上に、それが中々楽しいから否定する気はサラサラないのだけれど。
「柳沢さんの隣はいつも堂島君だよな」
ボクが高校で最初に出来た友人の雨橋君が、自分のおかずのアスパラガスを突つきながら茶化してくる。
「二人って幼馴染みなんでしょう?」
向かいに座っている風紀委員の吉田さんが尋ねた。彼女の眼は猛禽類みたいに鋭くて、ちょっと話しづらい。
「そそ。小中高と、駿くんまた一緒なんだよね」
「駿くん言うな」
高校生にもなって駿くんは恥ずかしいと前から言っているのに、優は小さい頃から馴染んだその呼び方を変えようとはしない。まだ知り合って間もない友達も一杯いるんだから、もっと普通に駿介、とかで頼みたい。はす向かいに居た小太りの男が意地悪そうに笑っているのが眼に入った。
「いいだろぉ、駿くん。その辺は柳沢さんが決めることじゃあないか。ぬひひ、なぁ、しゅ・ん・く・ん?」
「向山君……君ってやつは」
向山君は雨橋君の次に出来た友達で、オタク少年だ。
しばしば馴れ馴れしく擦り寄って、ボクに美少女ゲームを押し付けてきたりする厄介な男だが、底抜けに明るくてアホな性格と、どことなく丸くて愛嬌ある風貌のおかげか、多少のうざったさも何となく許されてしまう得な男である。
「優さん……凄く嬉しそうな顔」
ちょっと内気な鹿島さんが、ボソリと呟く。見た目もちょっと地味目で大人しく、あまり存在感がないが、その分観察力は高いようで、こういう会話の端々から新たに話題をもってくるのが上手い。
「え? そ、そうかな?」
「うん。堂島君と一緒になれて、嬉しい?」
「ま、まあほら、駿くんとはシマイみたいなもんだしねぇ」
字を当てるなら恐らく姉弟、だろう。
「ボクが弟なのか?」
「だってそうじゃん。毎朝起こしてあげてるし、今日のお弁当だって」
「お、おい待て馬鹿」
ボクが慌てて遮ったのだが、遅かった。既に全員が耳聡く聞きつけていた。
「今日の弁当がどうしたんですかな……駿くん?」
よりにもよって向山君が口を開いた。まるでスライムみたいにネバネバした声である。聞くだけで耳垢が溜まりそうだ。優は何故ボクが止めようとしたのか、どうやら分かっていないらしく首を傾げている。
前述したが、母親は早朝のパートが忙しいため、ボクの昼飯なんざ用意している時間はない。
となると、このボクの弁当は一体誰が作ったものなのか。
答えはボクの隣で呑気に頭上に『?』マークを浮かべているド天然だ。
そりゃそうだよな、優。君は完全に善意で、弟に作ってやるノリでボクの弁当を甲斐甲斐しく準備してくれたんだもんな。でもな、ボクは幼馴染みに弁当を作ってもらっているなんて事を知られたら、恥ずかしいことこの上ないんだよ。その辺りは分かってくれよ。幼馴染みなんだろ?
「美人の幼馴染みが早起きして作ってくれたお弁当はおいしいかい、駿くん。リア充死ね」
向山君から本気のトーンで辛辣な言葉が飛んできた。
彼はすぐさま察したらしい。流石二次元限定の最強完璧超人。その辺の洞察力は案外馬鹿に出来ない。俄に色めき立つ周り。そしてボクの弁当の中身に視線が集中し、今度は優が慌てふためく場面だった。
お前もようやく気がついたか。この恥ずかしさに!
「あ、あんまり見ないでよみんなぁ。そんな大したお弁当じゃなくって、有り合わせで適当に作った奴だし……」
「す、凄い。卵焼きってこんな綺麗に作れるんだ」
「こっちの和え物、冷凍食品じゃないぞ!」
「なんか、ウチのお母さんのお弁当が恥ずかしくなってくる……」
大絶賛もいいとこである。いや、実際のところめちゃめちゃ美味しいけれど、褒め殺しには変わりない。頭から湯気でも立ち上るんじゃなかろうかと思う程顔が赤い優。そしてボク。二人並んで、見事に熟れたトマト状態だ。
「愛妻弁当って奴か……」
「やっぱり二人って……」
「だよなぁ。結構お似合いだし……」
「たまに眼で通じ合ってるし……」
「や、やめてよおぉ! 駿くんとはただの幼馴染みっ! べ、別に好きとかそう言うんじゃ……!」
……クラス中に聞こえるような大声で何を言いやがるかこの女は。そして手話みたいに慌ただしく腕を振るいながら喚き散らすその様が、周りの嗜虐心を余計に煽り立てるだけだと言うことにさっさと気づけ、この馬鹿。
ほら見ろ、周りの奴らを。ニヤニヤしやがって。見世物じゃねえ。って、ボクは何に苛立っているんだ。冷静さを取り戻せ、ボク。いつものようにクールを気取れ。
「駿くんも、そうでしょ!? 別に私のこと、その……そ、そう言う風、に……見てない、よね?」
「あーはいはい。見てないから安心しろ」
なんだか段々と面倒臭くなってきて、とにかく注目され続けているこの空気を終わらせたかった。だからボクは優の問いにそのまま答えを返す。すると、周りの奴らもつまらなそうに大きく溜め息をついて、呆れたようにボクを見た。
「ヘタレ乙」
唯一口を開いた向山君にはかなり腹が立ったのだが、もう怒るのも疲れた。弁当を食わせてくれ。
そもそもこんなことになったのは優に原因があるのだから、文句の一つでも視線に乗せて送っておくかと隣に顔を向ける。
「……どうした」
優は、なんとも形容し難い表情をしていた。眉は少し角度鋭く、しかし口元は微笑んでいる。ドヤ顔、にも見えるけど、ただただ見えるだけだろう。どんな顔をすればいいのか分からない、と顔に描いてある。
「……なんでもないし」
優はそっけなくそう言ったきり、もうこちらを向こうとすらしなかった。これは分かる。とりあえず、彼女は怒っている。
それを見て、やはり周りは呆れたように溜め息。ボクに向けられた憐憫の視線には一切の容赦がない。ここまで肩身の狭い昼食は生まれてこの方初めてだった。
誰か助け舟を出してくれる奴は居ないだろうか。ボクがそんな期待を込めて周囲に視線を配ると、ふと一人の男が口を開く。
「二人付き合ってねえんなら、オレ柳沢の彼氏に立候補しよっかなー」
口を開いたのは、いつの間にか知らぬうちに輪の中に入っていた男、米山であった。いつの間にやら一緒にいた、と言う男なので、どんな奴なのかはボクもあまり把握していない。
しかし食事中だと言うのにやたらと前髪をクリクリ触るのが、ボクは好ましくは思わなかった。見た目も軽いがその実中身も軽い……と、ボクは勝手な偏見を抱いていたりする。
「なあ柳沢ぁ」
「おい、米山」
雨橋が呆れたように米山に言った。
米山は聞いているのかいないのか、鋭い目つきで優の方をジッと見つめて、視線をぶらさない。優は若干引き攣りながらもどうにか微笑んでいるが、ボクは知っている。この表情は優が本気で困った時に出てくる顔だ。
やってきたと思ってた助け舟はどうやら幽霊船だか泥舟だかタイタニックだかだったらしい。
苦肉の策として、ボクは机の下で携帯電話を操作し、優の携帯にかけた。優はポケットの中で震える携帯電話に驚いて飛び跳ね、表示されている名前を見て、少し怪訝な視線をボクに向ける。
……なんで電話?
……電話を口実に逃げろ。
……あ、なるほど。ごめん、わざわざ。
……気にすんな。それよりさっさとしろ。バレる前に。
口には出さずに、アイコンタクトで会話をした。言語に直すと大体こんな感じになるだろう。無事に意思は伝達出来ていたらしく、優は素早く立ち上がった。
「ごめん、親から電話。ちょっと失礼しまーす」
慌てて廊下に駆け出していく優の背中が見えなくなってから、ボクは携帯電話を閉じて何事もなかったかのように弁当を食い始める。流石に隣の雨橋君には気がつかれていたが、米山や周りのクラスメイトにはボクらのアイコンタクトは理解出来ていなかったらしく、自然に食事に戻っていく。
こうした連係は幼馴染みならではだ。ボクと優は自分で言うのもなんだがやはり息が合う。何となく米山に対して優越感に浸っていると、携帯電話にメールが着信した。差出人は優である。
『助けてくれてありがとう! 今度お礼するね♪』
……いつもの借りを考えると、当然の事をしたまでだ。




