王子様が迎えにきた日、君の後ろ髪から小麦の匂いがした。
情景を加筆して、細部を修正しました。
僕がレベッカを好きになったのは、十歳の頃だ。
彼女の家は王都から少し離れた村にある小さなパン屋で、細い路地に面した店の入口には、長い年月を経てすっかり色褪せた麦穂の看板が吊るされていた。朝になると古い煙突から白い煙が立ち上り、通りには焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い始める。村の人たちはその匂いを嗅ぐと、そろそろ朝食の時間だと言って笑ったものだ。
レベッカは、そんなパン屋の一人娘として生まれ育った。
栗色の髪を肩のあたりで切り揃え、丸い琥珀色の瞳をした女の子で、笑うと頬に小さなえくぼができた。家の手伝いをするのが好きだった彼女は、学校から帰るといつも工房に入り浸っていて、鼻の頭には決まって乾いた白い小麦粉がついていた。
僕は学校が終わると、ほとんど毎日のように彼女の店へ遊びに行った。特に何か用事があるわけでもなく、ただレベッカと一緒に過ごすのが楽しかったのだ。
「カイン! 見て見て!」
ある日、いつものように店を訪れると、工房から顔を出したレベッカが嬉しそうに駆け寄ってきて、何やら得意げな顔で両手を僕の前に突き出した。
その小さな手のひらには、丸めたパン生地が一つ載っていた。
「何それ?」
「ウサギ!」
「……カエルじゃなくて?」
「ウサギ!」
意地になったように頬を膨らませる彼女を見て、僕が思わず吹き出すと、レベッカはますます怒って、パン生地を持ったまま粉だらけの手を僕の顔に押し付けてきた。
おかげで僕まで小麦粉だらけになってしまい、二人で笑い合っているところを彼女のお母さんに見つかって、揃って叱られたことを今でも覚えている。
あの頃は、毎日が幸せだった。
◇ ◇ ◇
事件が起こったのは、僕たちが十二歳になった冬のことだった。
レベッカの家が火事になったのだ。
夜中に暖炉の火が何かに燃え移ったらしく、家族が異変に気づいた時には、すでに建物の大部分に火が回っていたという。後から聞いた話では、たまたま夜中に用を足そうと起きていたレベッカだけが逃げ延びることができたらしい。
僕が駆けつけた頃には、すでに店の屋根が崩れ落ちていて、村の男たちが懸命に水を運んでいたものの、火の勢いはなかなか収まらなかった。水はけの悪い地面には消火に使った水が溜まり、辺りには焦げた木材の嫌な匂いが漂っていた。
レベッカは毛布を肩に掛けられ、焼け落ちていく我が家を前に、泣きじゃくりながら地面に座り込んでいた。いつも綺麗に結んでいた髪は乱れ、頬は煤で真っ黒になっていて、僕が近づいても、しばらくは気づかないほどだった。
「……レベッカ」
どう声をかけていいのか分からず、ようやく名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「カインっ……!! わたし、わたし……うわああぁーんっ!!!」
僕の顔を見た途端、レベッカは堰を切ったように泣き出した。
僕は何も言えなかった。何か慰めの言葉をかけてあげたかったけれど、そんなものは一つも思い浮かばず、ただ彼女の肩を抱きながら、声を殺して一緒に泣くことしかできなかった。
火が完全に消えた後、店の奥にあった石窯は真っ黒に焼け焦げ、壁も屋根もなくなった店内には、かつてパン屋だったことを思わせるものがほとんど残っていなかった。店先に吊るされていた麦穂の看板だけが、半分焼けた状態で瓦礫の間に転がっていた。
「……わたし、一人ぼっちになっちゃったね」
数日後、焼け跡を訪れたレベッカが、ぽつりとそう呟いた。
彼女はひとまず村長の家で保護されていたものの、近くに身寄りがなく、この先どうなるのかは誰にも分からなかった。大人たちの話では、遠くの施設へ預けられるか、どこかの家に働き手として引き取られることになるだろうという。
僕は返事ができないまま、しばらく彼女と並んで焼け跡を眺めていた。
火事があったあの日から、レベッカは毎日のように泣いていた。以前は僕が店を訪れるたびに笑顔で迎えてくれた彼女が、今では何を話しかけても俯いてしまう。
そんな彼女の姿を見ているうちに、僕は一つの決心をした。
「……また明日、同じ時間にここに来るから」
不思議そうに僕を見上げるレベッカにそう告げると、僕は家へ帰り、父さんと母さんにお願いをした。
そして翌日、僕は大きな籠を抱えて、約束どおりレベッカのところへ向かった。
籠の中には、パンが二十個入っていた。
母さんに手伝ってもらいながら、夜遅くまでかかって焼いたものだったが、初めて作ったこともあって形はどれも不揃いで、中には焼き加減を間違えて焦がしてしまったものまで混じっていた。
「……何それ?」
僕が差し出した籠を、レベッカは不思議そうに覗き込んだ。
「見れば分かるよ」
「これ……パン?」
「うん。僕が焼いた」
僕が籠を差し出すと、レベッカはしばらく迷った末にパンを一つ手に取り、端の方を小さくかじった。
しばらく口を動かしていた彼女は、やがて眉を寄せた。
「……まずい」
「えっ」
「硬いし、焦げてる」
「しょうがないだろ。初めてなんだから」
僕が少しむくれて言い返すと、レベッカはもう一口パンをかじった。そして、もう一口。
何度か噛んでいるうちに、彼女の目には少しずつ涙が溜まり始め、やがてパンを口に運ぶたびに、大粒の涙がぽろぽろと頬を伝って落ちるようになった。
その姿を見ていると、僕まで泣きそうになってしまった。
僕はぎゅっとシャツの胸元を握り締め、昨夜から何度も練習してきた言葉を、ようやく口にした。
「……手伝ってよ。今度は一緒に。父さんと母さんにお願いしたんだ。レベッカ、よかったらうちで一緒に暮らさない?」
レベッカはパンを持ったまま顔を上げ、信じられないという様子で僕を見つめた。
「……いいの? 本当に?」
「レベッカのパン……僕も好きだからさ」
「……ありがとう」
そう言って、レベッカは笑った。
目元からこぼれた涙が、手に持っていたパンの上にぽたりと落ちたけれど、彼女はそれを気にする様子もなく、もう一度パンをかじった。
「じゃあ、これからもっと練習しなきゃね」
「……うん」
「一緒に、パン屋さんやろうね」
僕が頷くと、レベッカは嬉しそうに笑い、残りのパンをゆっくりと食べ始めた。
◇ ◇ ◇
それから十年が経った。
「カイン! そっちの生地、もう発酵終わってる?」
「ああ。今から焼くよ」
「じゃあ、こっちもお願い!」
王都の下町、大通りから一本入った路地に、僕たちの店はあった。
火事から数年後、今度は僕の両親が流行り病で亡くなってしまい、それを機に、僕たちは以前から考えていたパン屋を開くことにした。実家を売ったお金と両親が残してくれた遺産を合わせても、それほど大きな店は借りられなかったけれど、二人で商売を始めるには十分だった。
店先には新しく作った麦穂の看板を吊るし、通りに面した窓辺には、毎朝焼き上げたばかりのパンを並べている。工房には中古の石窯が一つと、二人で使うには少し手狭な作業台が一つあるだけで、壁には木べらや焼き型が所狭しと掛けられていた。
決して立派な店ではなかったけれど、僕たちは毎朝まだ暗いうちから起き出して、一緒にパンを焼いていた。
レベッカも僕も、二十二歳になっていた。
彼女の栗色の髪は背中の半ばまで伸び、仕事中は邪魔にならないよう後ろで一つに束ねている。昔と変わらない琥珀色の瞳に、笑うと浮かぶ小さなえくぼ。細い指には、毎日生地をこね続けてできた小さな傷がいくつもあった。
「ねえ、カイン。また鼻に粉ついてるよ」
「え、どこ?」
「ここ」
レベッカが僕の鼻先を指でつつくと、ただでさえついていた白い粉がさらに広がってしまった。
「……わざとだろ」
「ふふっ」
彼女は悪びれる様子もなく笑うと、何事もなかったように次の生地をこね始めた。
僕はそんな彼女の横顔を、しばらく眺めていた。
結婚式まで、あと一月。
レベッカの左手の薬指には、僕が贈った銀の指輪が光っていた。決して高価なものではなかったけれど、彼女はとても喜んでくれて、生地をこねる時には仕事の邪魔にならないよう大切に外して布に包み、仕事が終わると必ず指にはめていた。
「何?」
僕の視線に気づいたレベッカが、不思議そうにこちらを振り向いた。
「いや、別に」
「変なの」
そう言って彼女は笑い、再び作業台へと向き直った。
ちょうどその時、石窯の中で焼き上がったパンが香ばしい匂いを放ち始め、狭い工房いっぱいに、懐かしい小麦の香りが広がった。
◇ ◇ ◇
「……君は、もしかしてレベッカか?」
その青年が店を訪れたのは、よく晴れた午後のことだった。
明るい金髪を後ろに撫でつけ、銀糸の刺繍が施された深い青色の上着を身につけた、背の高い青年だった。腰には宝石をあしらった短剣を下げ、磨き上げられた革靴には埃一つついておらず、店の前には見たこともないほど立派な馬車が停まっていた。
どう考えても、僕たちのような下町のパン屋に来るような身分の人ではない。
「……はい?」
店番をしていたレベッカが顔を上げると、青年は彼女の顔を見た途端、驚いたように目を見開いた。
「やはり! 覚えていないか? 十年前、一緒に遊んだことがあるだろう?」
レベッカはしばらく青年の顔を見つめていたが、やがて何かを思い出したように、ぱっと表情を明るくした。
「……もしかして、レオン?」
「ああ! 私だ!」
「嘘! あのレオン!?」
レベッカが驚きの声を上げると、青年は嬉しそうに笑い、彼女の手を取った。
「会いたかった。ずっと君に会いたかったんだ」
「ちょ、ちょっと……!」
突然手を握られたレベッカが慌てて身を引こうとするのを見て、僕は作業台から離れ、二人のところへ近づいた。
「あの、失礼ですが……」
「おお、すまない。名乗るのが遅れたな」
青年は僕に気づくと姿勢を正し、まるで何でもないことのように名乗った。
「私はレオンハルト・フォン・ローゼンベルク。この国の第二王子だ」
「…………はい?」
あまりにも予想外の答えに、思わず間の抜けた声が出てしまった。
第二王子といえば、この国で知らない者などいないほどの高貴なお方だ。そんな人物が、どうして僕たちの店に来ているのか。
慌てて膝をつこうとした僕を、レオンハルト殿下は片手で制した。
「構わない。今日はここのパンを買いに来たのだ」
「は、はあ……」
僕が戸惑っている間に、殿下は再びレベッカへ向き直った。
「十年前、私は身分を隠してあの村を訪れた。君はそんな私に、分け隔てなく接してくれたね」
「……はい」
「あの時、君がくれたパンの味を、私は今でも覚えている」
殿下は懐かしそうに微笑みながら、握っていたレベッカの手に視線を落とした。
「私は、あの日からずっと君のことが好きだった」
その言葉を聞いた瞬間、レベッカの表情が固まった。
僕も、何も言えなかった。
「王族としての務めがあり、自由に動くことは許されないが、それでもあの日からパンが好物になってしまってね。時間ができればこうして評判の店を回っているのさ。だが、こんなところでよもや君に会えるとは思わなかった」
殿下は嬉しそうに話しながら、彼女の手を握り直した。
「そうだ、今日は時間はあるか? よければ君の仕事が終わった後に食事に行かないか。私に、あの時のパンのお礼をさせてほしい」
店の中が静まり返り、開け放した窓の向こうから、馬車の車輪が石畳を踏む音だけが聞こえてきた。
「あの……」
僕は何とか声を絞り出した。
「レベッカは、僕の婚約者なんです」
「……婚約者?」
レオンハルト殿下は意外そうな顔で僕を振り返った。
「はい。僕たちは、もうすぐ結婚する予定で……」
僕の言葉を聞いた殿下は、レベッカの左手へと視線を落とした。そこには僕が贈った銀の指輪が、午後の日差しを受けて静かに光っていた。
「……そうだったのか」
殿下はゆっくりと彼女の手を離すと、少し目を伏せ、力なく笑った。
「……すまない。事情も知らず、大変失礼なことをしてしまった」
「い、いえ……」
「君たちの仲を引き裂くつもりはない。どうか許してほしい」
「そ、そんな! 滅相もないです!」
「いや……私が悪かった。十年も経てば人には色々ある、当然のことだ。本当にすまなかった。思いがけない所で会えたおかげで、つい……あの日のことを思い出してしまったのだ。どうか、幸せになってくれ」
レオンハルト殿下は口元に少しだけ笑みを浮かべると、それ以上何も言わずに店を出ていった。
立派な馬車が走り去る音を聞きながら、僕はようやく肩の力を抜き、深く息を吐いた。
「……びっくりしたね、レベッカ」
けれど、彼女から返事はなかった。
レベッカはただ店の扉を見つめたまま、左手の指輪を右手でそっと撫でていた。
◇ ◇ ◇
それからというもの、レベッカは少しずつ変わっていった。
以前はどんなに忙しくても仕事に集中していた彼女が、パン生地をこねている最中に手を止め、何か考え込むようになったのだ。
ある日など、石窯からパンを取り出すのをすっかり忘れてしまい、僕が気づいて慌てて取り出した時には、パンの底が真っ黒に焦げてしまっていた。
「あっ……ごめん」
「珍しいね」
「うん……」
レベッカは焦げたパンを作業台に置いたきり、捨てようともせず、何かを考えるようにじっと眺めていた。
そんなことが一度や二度ではなくなり、砂糖と塩を間違えたり、お客さんに代金以上のお釣りを渡そうとしたりすることも増えた。仕事が終わった後も、以前のように二人で他愛のない話をすることは少なくなり、夜になると決まって窓辺に座り、ぼんやりと外を眺めているのだった。
ある日、思い切ってどうしたのか尋ねてみたけれど、レベッカは少し困ったように笑って首を振った。
「ううん。何でもない」
その返事を聞いた時、胸の奥に何とも言えない不安が広がったものの、僕はそれ以上、何も聞くことができなかった。
レオンハルト殿下は、あれから何度も店を訪れるようになっていた。
いつもパンをいくつか買い、僕やレベッカと少し世間話をして帰っていく。最初こそ緊張していた僕も、何度か話をするうちに、殿下が思っていたような人物ではないことに気づいた。
王族というのはもっと尊大で横柄なものだと思っていたけれど、レオンハルト殿下は礼儀正しく物静かな人で、それでいて気さくに冗談を言うこともあった。
ある日、いつものように店を訪れた殿下は、焼きたての丸パンを一つ手に取ると、その場で少しちぎって口に運んだ。
「相変わらず美味しいな。王宮の料理人にも食べさせてやりたいくらいだ」
「ありがとうございます」
「君が焼いているのか?」
「はい。レベッカと二人で始めた店なので」
「そうか」
殿下は感心したように頷くと、工房の奥で生地をこねているレベッカに目を向けた。
「……あれからレベッカのご両親は、火事で亡くなったと聞いた。私がちょうどあの村を訪ねた年だ。それから、君が身寄りのない彼女を引き取って、支えたそうだね」
「はい……レベッカから聞いたんですか?」
「ああ。君のことをとても良い人だと言って、感謝していたよ。君のご両親のことも。ご両親のことは……残念だったが、君たちの行いはとても立派なものだと私は思う」
「……もったいないお言葉です」
殿下は小さく笑った。
「私は十年間、彼女のことを忘れられなかった。だが君はその十年間、彼女を支え、共に歩んできたのだな」
「……はい」
「どうか、大切にしてやってくれ」
僕が頷くと、殿下はいつものように少し多めの代金を置いて店を出ていった。
その後ろ姿を、レベッカは工房の奥からじっと見送っていた。
◇ ◇ ◇
「……ごめんなさい」
結婚式まで、あと一月。
その日の仕事を終え、二人で工房の片付けをしていた時、作業台の向こうに立っていたレベッカが、不意にそう切り出した。
いつもなら片付けをしながら明日の仕込みについて話したり、夕食に何を食べようかと相談したりするのに、その日は朝からどこか様子がおかしかった。
僕が顔を上げると、レベッカは俯いたまま、両手をぎゅっと握り締めていた。
「私、カインとは結婚できない」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
手にしていた布巾を動かすことも忘れ、僕はただ、目の前に立っているレベッカの顔を見つめていた。
「……え?」
「本当にごめんなさい」
徐々に思考が戻ってくるにつれ、胸の奥が冷たくなっていくのを感じた。目を伏せた彼女の悲しそうな顔だけが妙にはっきりと見えていて、周りの物も、外から聞こえてくる音も、何も頭に入ってこなかった。
「……どうして?」
しばらくして、ようやく掠れた声が出た。
「レオンハルト様と、結婚することにしたの」
その言葉を聞いた途端、手にしていた布巾が床に落ちた。
「……冗談だろう?」
そんなはずがない。僕たちはずっと一緒に暮らしてきたし、結婚式の準備だって進めていた。ついこの間まで、彼女は嬉しそうに指輪を眺めていたではないか。
何かの間違いに決まっている。
そう思ってレベッカを見つめたけれど、彼女は目元を拭いながら、静かに話を続けた。
「レオンハルト様は、私が望めば第二夫人として迎えてくださるって」
「第二夫人……?」
「ええ。第一夫人には、以前から婚約されていたエリス様がなるの。でも、エリス様も私のことを受け入れてくださるって……」
「ふざけるな、そんなのダメだよ! しかも第二夫人って……!」
思わず声を荒らげた僕に、レベッカは悲しそうな顔を向けた。
「カインには、本当に感謝してる。お店が焼けた時も、ずっと支えてくれた。あの時、カインがパンを焼いてくれなかったら、私、きっと立ち直れなかった」
「だったら、断れよ! 僕たちは幸せだったじゃないか! ずっと二人で支え合ってきたじゃないか!!!」
「うん……幸せだった。本当に」
レベッカは微笑んだ。
その頬を伝った涙が、顎の先からぽたりと落ちた。
「でもね、考えたの」
「……何を?」
「これからのこと」
彼女は両手を胸の前で組むと、少し迷うように視線を落としてから、ゆっくりと言葉を続けた。
「いつか子供が生まれたら、良い教育を受けさせてあげたい。お金の心配をさせずに、好きなことを学ばせてあげたい。……私、小さい時からずっと家の手伝いをしてきたの。知ってるでしょ? パンを作るのは好きだけど、生き方は選べなかった。多分、パパとママが生きてても今と同じ仕事をしてたと思う」
「…………」
「カインと一緒にいるのも幸せよ。でも、レオンハルト様となら、もっと色々なことをしてあげられる。好きなことを、自由にさせてあげられる」
レベッカはそこで言葉を切り、申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんなさい。こんなこと言って酷い女よね」
僕は何も答えられず、作業台に両手をついた。いつもなら気にも留めない乾いた小麦粉が指先にまとわりつき、少し動かすだけで、白い粉が木の表面に広がっていった。
「……嘘だ」
「……え?」
「君は単純に、殿下の方を好きになったからそう言っているだけだ。そりゃあ相手は王族だし、そうだろうさ。向こうはお金持ちで、権力もある。背が高くて顔もいい。それに、それに……」
そこまで言って、僕は口ごもった。
レオンハルト殿下は、良い人だ。
何度も店に来てくれたし、僕たちのパンを褒めてくれた。レベッカの過去を知った時には、心から悲しんでくれたようにも見えた。
けれど、そんなことは言いたくなかった。
殿下が良い人だと認めてしまえば、もう何も言い返せなくなるような気がしたのだ。
「君を第二夫人にするような人だ。君は騙されている!」
「殿下を悪く言うのはやめて! ……王族なんだし、平民を正妻になんてできるわけないでしょ。お願い、分かってよ」
「分かるわけない……。なんでそんなことを言うのさ……十年、十年だぞ……」
僕が絞り出すように言うと、レベッカは何も答えず、ただ悲しそうに首を振った。
「ごめんなさい」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
怒鳴りたい気持ちも、泣きたい気持ちもあったけれど、目の前の彼女が本当に申し訳なさそうな顔をしているのを見ると、どうしてもそれ以上責めることができなかった。
「……僕のこと、嫌いになったの?」
「ううん。大好きだよ」
「じゃあ……」
「でも、ごめんなさい」
レベッカは左手に目を落とすと、薬指にはめていた銀の指輪をゆっくりと外した。
十年間、ずっと一緒に過ごしてきた。
十二歳の冬に、二人でパン屋をやろうと約束した。
その約束を果たして、ようやく自分たちの店を持つことができた。
そして、もうすぐ結婚するはずだった。
レベッカは外した指輪を両手で包み、僕に差し出した。
「今まで、ありがとう」
僕は手を伸ばせなかった。
彼女の手のひらに載った小さな銀の輪を見つめていると、初めてその指輪を渡した日のことが思い出されて、胸が苦しくなった。
やがてレベッカは、受け取ろうとしない僕をしばらく見つめた後、作業台の上にそっと指輪を置いた。
小さな金属音が、静まり返った工房に響いた。
◇ ◇ ◇
「カイン殿」
それから数日後、レオンハルト殿下が店を訪れた。
今日はいつもの青い上着ではなく、白いシャツに濃紺の外套を羽織っていて、その隣には、淡い水色のドレスを着たレベッカが立っていた。
栗色の髪は丁寧に梳かされ、普段はつけないような髪飾りまでつけている。
僕の知っているレベッカとは、どこか違って見えた。
「本当にすまない」
工房に入ってきた殿下は、僕の前に立つと、深々と頭を下げた。
「言い訳をするつもりはない。私は君に恨まれて当然のことをした男だ。しかし、君がレベッカを十年間支えてくれたこと、私は決して忘れはしない」
僕は何も答えず、ただ殿下を見つめていた。
「彼女が今日まで笑顔でいられたのは、君のおかげだ。心から感謝している」
「……そうですか」
「そこで……君に一つ提案がある」
殿下は懐から何枚かの書類を取り出すと、それを僕に見せながら話を続けた。
「王都の一等地に、王家が所有する土地がある。そこを君に譲りたい」
「……はい?」
「君のパン作りの腕前は素晴らしい。あの場所なら、今よりずっと多くの客に食べてもらえるだろう。もちろん、開業に必要な費用もこちらで負担するつもりだ」
あまりにも突然の話に、僕は言葉を失った。
王都の一等地といえば、僕たちのような小さなパン屋が、どれほど頑張っても簡単に店を構えられるような場所ではない。そんな土地を譲ると言われても、すぐには意味が理解できなかった。
けれど、殿下の話はそれだけではなかった。
「それと、これまでレベッカを支えてくれた謝礼も受け取ってほしい。決して十分な額ではないかもしれないが……」
「いらないですよ! そんなものは!!」
気づいた時には、僕は大声で叫んでいた。
狭い工房に自分の声が響き渡り、殿下が驚いたように目を見開いた。隣に立っていたレベッカも、何が起こったのか分からないという顔で僕を見つめていた。
「僕は……!」
言いたいことは山ほどあった。
けれど、いざ口にしようとすると、喉の奥で言葉が詰まってしまった。
僕は殿下から目を逸らし、作業台へと視線を落とした。
そこには、レベッカがいつも使っていた木べらが置かれていた。柄の部分には長年使い続けてできた小さな傷がいくつもあり、彼女はその木べらを、持ち手がすり減っても捨てようとはしなかった。
僕はその木べらを見つめたまま、拳を握り締めた。
殿下はしばらく黙っていたが、やがて何かを察したように書類を懐へ戻した。
「……そうか」
そして、もう一度頭を下げた。
「すまない。其方の気持ちを考えなかった」
「…………」
「どうか、体に気をつけて」
殿下はそれ以上何も言わず、レベッカの手を取った。
レベッカは一度だけ僕を振り返り、何か言いたそうに唇を動かしたけれど、結局、いつもの言葉を口にした。
「……カイン。ごめんなさい」
彼女は唇を噛み、目を伏せた。
そして、殿下と一緒に歩き出した。
その瞬間、僕のすぐそばを通り過ぎた彼女の後ろ髪から、ふわりと小麦の匂いがした。
毎朝、二人でパンを焼いていた時と何も変わらない、いつもの匂いだった。
◇ ◇ ◇
それから、五年が経った。
僕は今、王都の中心部でパン屋を経営している。
あの頃は二人で切り盛りしていた小さな店も、今では十店舗を構えるまでになり、従業員の数は百人を超えた。王都でも有数のパン屋として知られるようになり、店の前には毎朝、開店を待つお客さんの行列ができている。
きっかけは、王宮からの注文だった。
レベッカがレオンハルト殿下の第二夫人になってしばらく経った頃、突然、王宮から大量のパンの注文が入ったのだ。
最初は何かの間違いではないかと思ったけれど、届けられた注文書には確かに王宮の印章が押されていて、指定された日時にパンを納めると、今度はさらに大きな注文が入るようになった。
それからも定期的に注文が続き、やがて僕の店は王宮御用達の看板を掲げることを許された。
どうやらレオンハルト殿下とレベッカが、僕の店のパンを貴族たちに紹介してくれていたらしい。
王宮御用達という評判は瞬く間に広まり、他の貴族からも注文が入るようになった。増え続ける注文に応えるため、新しい職人を雇い、設備を増やし、それでも手が足りなくなって二号店を開いた。
それから三号店、四号店と少しずつ店を増やしていくうちに、地方から腕のある職人や、パン屋を志す若者たちが、僕のところで働きたいと言って訪ねてくるようになった。
今では、王都に来たばかりの頃には想像もできなかったほどの大成功を収めている。
◇ ◇ ◇
その日の夜、僕は久しぶりに昔の工房を訪れた。
王都の下町にあるその小さな建物は、今では店として使うこともなくなり、古い道具や使わなくなった設備を置いておく倉庫になっていた。
扉を開けると、懐かしい石窯が目に入った。
もう何年も火を入れていない石窯はすっかり冷たくなっていたけれど、壁には昔使っていた木べらや焼き型が掛けられ、工房の中央には、二人で使っていた古びた作業台がそのまま残されていた。
小麦粉を入れていた大きな麻袋も、壁際に積み重ねられている。
僕はゆっくりと工房の中へ入り、作業台に手を置いた。懐かしむように木の表面をなぞると、薄く積もった埃が指先について、昔のように白くなった。
ここで毎日、レベッカと一緒にパンを焼いた。
まだ外が暗いうちから二人で起き出し、眠い目をこすりながら小麦粉をこねて、石窯に火を入れた。冬の朝は水が冷たくて、レベッカはよく手を温めようと石窯の前にしゃがみ込み、僕に早く生地を持ってこいと催促したものだ。
彼女は昔から、よく鼻の頭に小麦粉をつけていた。
僕がそれを指摘すると、決まって笑いながら僕の頬にも粉をつけてきた。おかげで二人とも顔を真っ白にしたまま店を開けてしまい、お客さんに笑われたこともあった。
良い店にしようと、二人で何度も話し合った。
新しいパンを考えては試しに焼いてみたり、焼き加減がどうだとか、砂糖が多すぎるとか、そんなことで言い合いになったりもした。
時には喧嘩をすることもあったけれど、翌朝になれば、また二人で並んでパンを焼いていた。
あの頃はお金がなく、店も小さかった。
毎月の家賃を払うだけでも大変で、材料費を差し引くと手元にはほとんど何も残らなかった。売れ残ったパンを夕食にすることも珍しくなく、そんな時にはレベッカが余った材料を使って、少しでも美味しく食べられるように工夫してくれた。
それでも、毎日が楽しかった。
僕は作業台に腰を下ろし、しばらく誰もいない工房を眺めていた。
今では立派な店を十店舗も持ち、王宮御用達の看板まで掲げている。お金に困ることもなくなり、欲しいものがあれば大抵のものは買えるようになった。
昔の僕たちが聞いたら、きっと驚くだろう。
レベッカも、きっと喜んでくれていると思う。
……レベッカ。
目を閉じると、今でも昨日のことのように思い出す。
十二歳の冬、焼け落ちた店の前で泣いていた彼女に、僕は自分で焼いたパンを差し出した。
初めて作ったパンは硬くて、形も不揃いで、お世辞にも美味しいとは言えなかったけれど、レベッカはそれを一口食べると、まずいと言って泣き出した。
そして、涙を流しながら、最後まで食べてくれた。
『じゃあ、これからもっと練習しなきゃね』
「……うん」
『一緒に、パン屋さんやろうね』
「…………うん」
あの日と同じように返事をしてから、僕はゆっくりと顔を上げた。
そこにはもう、誰もいなかった。
昔は二人で使うには狭いと思っていた工房が、今では妙に広く感じられた。
この先どれほど店が大きくなっても、きっと忘れることはないだろう。
あの小さな工房で、汗だくになりながら一生懸命パンを焼いていた彼女の姿も、鼻の頭に小麦粉をつけて笑っていた、あの日々のことも。
壁に掛けられた時計を見ると、針はもう夜中の十二時を過ぎていた。
僕は工房の明かりを消し、ゆっくりと扉を閉めた。
すると、扉の隙間から吹き込んできた冬の風に乗って、ふわりと小麦の匂いがした。
あの日、王子様に手を引かれて去っていった彼女の後ろ髪から漂ったのと、同じ匂いだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。




