第1話 息ができない赤ん坊は地獄から始まる
――熱い。
視界いっぱいに広がる、最悪の朱色。
キィィィィィィ――ッ!!
鼓膜を突き破る急ブレーキ。
次の瞬間、肺の中の空気を拳で叩き出されたみたいに、体の内側が全部ひっくり返った。
ああ、これが終わりか。
相沢恒一。冴えない男。28年。
誰かの顔色を見て、空気を読んで、神経を擦り切らせて生きてきた。
そんな俺の最期は――信号無視で突っ込んできた大型トラックの前で。
俺の体は、思考より先に動いていた。
目の前の妊婦を、反射で突き飛ばして。
……見ず知らずの誰かを守るための自己犠牲?
笑える。皮肉ってレベルじゃない。
意識が冷えていく。音が遠ざかる。世界が薄くなる。
その最後の最後で、俺は祈った。
身勝手だと分かってても、祈らずにいられなかった。
――次は、もっと丈夫な体に。
俺はずっと病弱だった。
重度の呼吸器疾患。肺は半分しか働かない。
全力で走ることも、思いっきり息を吸うことも許されない。
生きるためにできたのは、主治医に叩き込まれた特殊な呼吸法を――呪いみたいに、24時間繰り返すことだけ。
だから、願った。
今度こそ、息ができる人生を。
◇
「おぎゃっ、……あ、が、っ……!」
……叶った。
そう思った直後。
俺は2度目の絶望に叩き落とされた。
暗い。狭い。
そして――息が、できない。
喉の奥に、ぬめり気のある液体が詰まっている。
酸素を求めて暴れる肺が、入口で拒絶されている。
視界は霞み、触覚だけが異様に鮮明だった。
小さい。柔らかい。頼りない。
俺の体が、赤ん坊のそれだと理解した瞬間、背筋が凍りついた。
――まさか、また呼吸に殺されるのか?
「産婆さん! この子、息を……!」
「落ち着いて、エレナ! 今、詰まりを掻き出しますからね!」
知らない言葉。聞いたこともないはずの言語。
なのに意味が、直接脳に刺さってくる。
誰かに逆さにされ、背中を叩かれる。衝撃が走る。
でも空気は入ってこない。
肺が焼ける。
酸素がない。
痛い。苦しい。怖い。
ふざけるな。
2度目の人生、開始1分で窒息死とか、冗談じゃない。
俺は意識の底から、あのリズムを引きずり出した。
前世で、壊れかけの肺を動かすために20年以上、寝ても覚めても続けた呼吸。
鼻や口から吸うんじゃない。
全身の細胞一つ一つへ、無理やり酸素を押し通すイメージ。
横隔膜を、体の内側の熱を、ねじ伏せる術。
吸って。
止めて。
一気に、押し出す――!
小さな喉が、内側から爆ぜるような感覚。
同時に、体の中で「何か」が弾けた。
「げほっ……! おぎゃああああああ!!」
喉を塞いでいた羊水が、勢いよく吐き出される。
代わりに、冷たくて――濃い。生命そのものみたいな空気が肺に流れ込んだ。
俺は本能のままに泣き叫んだ。
違う。ただの泣き声じゃない。
これは咆哮だ。
俺が、この世界で生きると宣言する、最初の叫びだ。
――アルト・シュタイン。
それが、俺の新しい名前だった。
◇
それから5年。
俺の日常は、ずっと「呼吸」と共にあった。
あの日、命を掴み取ったあの特殊なリズム。
それを止めると、肺の奥からあの窒息の感覚がせり上がってくる。
少し油断すると、胸が締めつけられる。
前世の病室の絶望が、牙をむいて戻ってくる。
だから俺は、寝ている間も遊んでいる間も、24時間、呼吸法を続けた。
……その結果。
俺の体は、驚くほど健やかに育った。
走っても疲れない。
冬の寒さでも体の内側がポカポカ熱い。
スタミナが底なしみたいに湧いてくる。
健康な子供って、こんなに世界が軽いのかよ。
前世の俺からは考えられない。
俺は信じた。
これは、病を克服した証だと。
丈夫な体を手に入れたんだと。
「アルト、お腹空いたでしょう? もうすぐお昼よ」
声に顔を上げる。
母――エレナは、村でも目立つ美人だった。
透き通る肌。輝く金髪。深い湖みたいな碧眼。
その笑顔を見るだけで、胸の奥がゆるむ。
そこへ、外から力強い足音。
「はっはっは! 今日もいい汗をかいた! アルト、腹いっぱい食って大きくなれよ!」
父――ルーカス。
元騎士らしい、岩みたいな体格の男だ。今は村の警備と農作業を両立している、頼りがいのある大黒柱。
……ただ、俺だけが違った。
両親は金髪碧眼。
なのに俺は、髪も瞳も夜を溶かしたような黒。
村では少し目立つけど、2人は変わらず言ってくれた。
「大事な息子だ」
だから俺は、この家が好きだった。
「ほらルーカス、手を洗って。今日のお昼は焼きたてのパンとスープよ」
母が竈の前に立つ。
俺はこの瞬間が、たまらなく好きだった。
エレナが白い指先をすっと掲げる。
空気が、わずかに震えた。
指先から陽炎のような揺らめきが立ち上り――琥珀色の光に変わる。
小さな宝石が弾けるみたいな音。
そして、赤い花のような炎が咲いた。
「赤き精霊の息吹を、ここに。――イグニス」
呪文と共に炎は薪へ吸い込まれ、1瞬で燃え上がる。
……魔法。
本物の魔法だ。
前世、消毒液の匂いの病室で、酸素ボンベの残量ばかり気にしていた俺にとって――これは奇跡そのものだった。
男の子のロマン。
理をねじ曲げる力。
指先一つで火を灯すとか、カッコよすぎるだろ……!
やってみたい。
俺だって――。
父さんは「まだ早い」って言うけど、母さんの動きは毎日見てる。
意識を集中させた時の、あの空気の張り詰め方。
少しだけ。ちょっとだけ。
真似するくらいなら、きっと――。
◇
昼食のあと。
両親が午後の準備をしている隙をついて、俺はこっそり家を抜け出した。
向かったのは村外れの小高い丘、古い納屋の裏。
誰も来ない。
もし小さな火が出せたら、驚かせてやれる。
俺は右手の人差し指を立てた。
体の中を巡る、健康な子供特有の心地よい熱。
それを――ほんの少しだけ、指先に集める。
大丈夫だ。
俺はあの日、死の淵から呼吸を掴み取った。
これくらい、できる。
灯れ。
母さんが見せてくれたような、小さくて温かい一輪の花。
「赤き精霊の息吹を、ここに。――イグニス」
呟いた、その瞬間――
指先から溢れたのは、可愛い火花なんかじゃなかった。
ドクン。
全身の血管が裏返るような衝撃。
集めたはずの熱が、一瞬で『巨大な圧力』に変貌する。
蛇口が壊れたみたいに、意志を無視して噴き出した。
琥珀色ですらない。
白銀。
視神経を焼き切るような、熾火の塊。
それが一瞬で、俺の背丈を遥かに超える球へと膨れ上がった。
「あ、あ……あああああああああ――っ!?」
熱い? 違う。そんな言葉じゃ追いつかない。
皮膚が焼けるより早く、周囲の酸素が――消えた。
空気が、ない。
俺の命綱である呼吸法を維持するための酸素が、その白銀の塊に全部喰われていく。
肺が内側から潰れる。
喉をかきむしっても、入ってくるのは熱風じゃない。
真空の痛みだけ。
轟音――ッ!!
納屋の板壁が紙細工みたいに弾け飛んだ。
積まれていた薪は燃える暇すらなく、灰も残さず蒸発。
地面は熱量で溶け、不気味に赤黒く光る液体へ変質していく。
……これ、魔法じゃない。
制御を失った、太陽の欠片だ。
止まれ。
止まれ、止まれ、止まれッ!!
必死に願う。
でも5歳の細い右腕は、白銀の光に呑み込まれていく。
腕なのか、炎そのものなのか、境目が分からない。
憧れ? 興奮? ロマン?
そんなもの、一瞬で消し飛んだ。
そこにあるのは、俺という存在を。
この納屋を。
そして――この村すら地図から消し去ろうとする、理不尽な暴力の輝き。
白銀の太陽は、俺の絶望をあざ笑うみたいに――
さらに、さらにと狂ったように膨張し、世界を白く塗りつぶしていった。




