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第4話 月下における契約、あるいは狂える聖女の覚醒

「――下がりたまえ、お嬢さん」


 男の言葉と共に、目の前で弾け飛んだ衝撃波。

 アスファルトに座り込んだままの九条麗華くじょう れいかは、時間の感覚が引き伸ばされたようなスローモーションの中で、その黒い背中を見上げていた。


 漆黒のマント。

 顔を覆う、謎めいたマスク。

 その隙間から覗く鋭い眼光。


 すべての要素が、彼女が夢の中で何度も何度もリピート再生してきた「理想の英雄像」と、寸分違わず一致していた。


 ああ、神様。あるいは悪魔様。感謝します。

 私の世界には、本当に彼が存在していたのですね。


「……あ……貴方は……」


 震える唇から、微かな問いが漏れる。

 助けてくれてありがとう? いや違う。そんな平凡な言葉ではない。


 管理人の『M』さんですか? それとも、組織のエージェント?

 聞きたいことは山のようにあるのに、喉が張り付いて声が出ない。


 男は、ゆっくりと麗華の方へ振り返った。

 逆光で表情はよく見えないが、マスクの下で口元が少し笑ったような気がした。


 彼はスッと人差し指を立て、自らの唇に当てる。


「――ふむ。何も言わなくていい」


 彼は麗華の言葉を遮った。まるで、彼女が何を言わんとしているか、その魂の深淵まですべてを見透かしているかのような声色だった。


「君の瞳を見れば、わかる」


 彼は芝居がかった仕草で麗華の前に膝をつき、汚れるのも厭わず彼女の手を取った。そして、顔を近づける。


「君は……探しているんだな? この、欺瞞に満ちた世界に隠された、たった一つの『真実』を」


 ドクン。


 麗華の心臓が、早鐘を通り越して破裂しそうになった。


 瞳。そう、私の瞳を見てわかったと言うの?

 幼い頃から周囲に理解されず、両親にも教師にもクラスメイトにも隠し通してきた、私の心の奥底にあるどす黒い渇望を。


 彼は、見抜いてくれたのだ。


「……はい」


 麗華の双眸が、涙ぐみながらも妖しい輝きを帯びる。


「ええ……! そうです、私は探していました……ずっと、貴方のような方を! 世界の裏側にある、本当の景色を!」


 彼女は、自分でも驚くほど素直に、そして熱烈に肯定した。この手だけは絶対に離してはいけないと、強く握り返しながら。


 主人公――御影 迅は、内心で冷や汗をかいていた。


(……ノリ良すぎるだろ、このお嬢様!)


 さっきから視線が熱すぎる。キラキラしすぎて、直視できないレベルだ。


 『精神分析』を使うまでもなくわかる。彼女は「そっち側」の住人だ。それも、相当にレベルの高い重症患者だ。


 だが、これは好都合だ。彼女の服装、落としたスマホの機種、そして醸し出す雰囲気からして、かなりの上流階級の人間であることは明白。


 この組織には、パトロン(金ヅル)が必要だ。彼女を取り込めば、アジトの建設も装備の調達も、思いのままだろう。


(よし……なら、徹底的に演出してやるよ)


「いい返事だ」


 御影は頷き、立ち上がると、彼女の手を引いて立たせた。


「では――真実を見ようか」


 彼が指を鳴らす。


 ヒュンッ!


 空気が振動した。


「えっ……?」


 麗華は息を呑んだ。


 自分の手が見えない。足が見えない。彼の姿も見えない。

 世界が透き通ったのではない。自分たちが、透明になったのだ。


「心配ない。光の屈折率を操作し、我々の存在を世界から遮断した。いわゆる『光学迷彩』の一種だ」


 何もない空間から、御影の声だけが鼓膜に直接届く。


 魔法だ。本当に、魔法があるんだ!


 麗華は興奮で頭がクラクラした。誰もが憧れる透明人間。それを今、私は体験している!


「そしてもう一つ。君に『視界』を与えよう」


 冷たい指先が(見えないけれど)、彼女の瞼に触れる感触があった。


 『認識同調シンクロ』。


「目を開けなさい。これが、我々が戦っている敵の姿だ」


 麗華が目を開けた瞬間、世界の色が変わっていた。


 公園の街頭はより白く、影の部分はより黒く、コントラストが強烈になったような視界。

 そして、先ほどまで「何もない空間」だった場所に、それらはいた。


 グルルルォォオ……。


 漆黒の身体を持つ、狼とトカゲを混ぜ合わせたような異形の獣。

 体高は二メートルはあるだろうか。全身から、コールタールのような黒い煙を立ち上らせ、真っ赤な三つの目を不気味に輝かせている。


 それが二体、警官隊と対峙していた。


「あれが……『怪物(魔獣)』……!」


「名は『影喰い(シャドウ・ハウンド)』。人の負の感情に引き寄せられる、下級魔獣だ」


 御影がサラリと(今考えた設定を)解説する。


「うおおおっ!! 撃て撃て!!」


 現実世界の警官たちは必死だった。

 彼らにはまだ怪物の姿は見えていない。ただ、仲間が傷つき、何かが襲ってくる気配に向けて、闇雲に拳銃を発砲している。


 パン! パン! パパン!!


 乾いた銃声が響き、銃弾が空を切る。


 だが、運良く一発の弾丸が、魔獣の肩を掠めた。


 ギャウッ!


 魔獣が悲鳴を上げ、黒い液体が飛び散る。


「当たった! そこだ! そこにいるぞ!!」


 警官たちは、見えない標的の位置を何とか把握し、一斉射撃を加える。


 それを数メートル離れた安全地帯から見守る二人。

 まさに、神の視点だ。


 愚かなほどに無力で、しかし必死に抗う「表の世界の守人」たち。

 それと戦う、人智を超えた「裏の世界の住人」たち。


 麗華は、まるで極上のSF映画を特等席で観戦しているような高揚感に包まれていた。


「す……すごい……」


 彼女は、自分の手で口元を覆った。

 今までバカにしてきた世界が、こんなにも鮮烈に書き換わっていく。


「助けなくて……よいのですか?」


 ふと、疑問が口をついた。


 魔獣は傷つきながらも暴れている。警官にも被害が出ている。

 英雄なら、ここで颯爽と介入すべきではないのか?


 御影は首を横に振った(見えないが、気配でわかった)。


「影は光を避ける物だ」


 彼は、詩的なレトリックで語りだす。


「彼らは彼らの領分で戦っている。表の世界の秩序は、表の人間が守るべきだ。我々が過度に干渉すれば、世界のバランスが崩れる」


 もちろん建前だ。

 本音は(これ以上俺が手を貸したらマッチポンプがバレるし、警察の手柄にならないとかわいそうだから)である。


 警察にも「未知の脅威と戦って撃退した」という実績が必要なのだ。そうでなければ、政府が対魔組織(という名の俺の組織)の設立に本腰を入れないからだ。


「我々は闇に潜む者。彼らに直接手を貸してやることは出来ない。ここではこうして……見守るしかあるまい」


 どこか哀愁を帯びた、孤独な響き。


 その言葉は、麗華の心にクリティカルヒットした。


 なんてこと……!


 自分たちはこんなに力を持っているのに。怪物を一撃で倒せる力があるのに(と彼女は信じている)。

 それでも正体がバレてはいけないから、あるいは世界の理を守るために、歯がゆい思いを噛み締めながら沈黙を貫いているのね。


 なんてストイック。なんて孤独。なんて……カッコイイの!


「これが……世界の『真実』!!」


 彼女は感動で胸がいっぱいになった。


 華やかなスポットライトなどいらない。理解も称賛もいらない。

 ただ、世界の裏側で人知れず平和を支える。


 その背中こそが、彼女が求めていた「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」の究極形だった。


 御影はマスクの下で(こいつ、また勝手に良い方に解釈してくれたな)とニヤついた。


「ああ。真実とはこのような物だ。残酷で、不条理で……しかし、美しいだろう?」


 透明化を解除する。


 ふわりと、二人の姿が再び現実に現れる。


 場所は公園の時計台の上。いつの間にか移動していた。


 遥か下では、ようやく警官隊が魔獣を追い詰めているようだった。見えないなりに、数の暴力と火器で制圧にかかっている。そろそろこの魔獣たち(寿命30分の設定)も、消滅する頃だ。


 御影は麗華に向き直った。

 月明かりが、彼女の美しい黒髪を照らし出している。


 さて、ここからが本番(商談)だ。


 彼女には素質がある。金もある。地位もある。そして何より、このイカれた状況を受け入れる「狂気(適正)」がある。


「……ふふふ」


 御影はマントを翻し、悪魔的な魅力を湛えた笑みを浮かべた。


「仲間になるか? お嬢さん」


 右手を差し出す。


「君には力がある! 先ほど感じた君の魂の波長は、常人のそれではなかった。素晴らしい闇の適性だ」


「わ、私に……力が……?」


「そうだ。だが、それはまだ殻の中に眠っている。そのまま飼い殺しの人生を送るには、君の才能はあまりにもったいない……!」


 殺し文句だ。

 彼女が一番言われたかった言葉。


 「君は特別だ」という認定。


 麗華の頬が紅潮し、涙がこぼれ落ちた。


 ああ、やっと。

 やっと私の人生が始まる。


 この人は、私を「普通のお嬢様」という檻から連れ出してくれる王子様だ。


 迷う理由など、一ミリもなかった。


 彼女は差し出された手を取り、まるでダンスのパートナーに応えるかのように、あるいは騎士に忠誠を誓う姫君のように、深く深く頭を下げた。


「ええ……! 是非……! 私を連れて行ってください!」


 顔を上げる。その瞳は、もうかつての空虚なものではなかった。

 燃えるような決意と、崇拝の色。


「目覚めさせてください……!! 私の本当の力を! あなたの役に立てるのなら、私の全てを捧げますわ!」


「……契約成立だ」


 御影は満足げに頷いた。


 よし、パトロン兼幹部候補ゲットだ。これで活動資金の心配はいらなくなった。


「我が組織へようこそ。『漆黒の薔薇』……いや、それはハンドルネームだったな。名は?」


「く、九条……麗華です。でも、どうぞ『レイ』とお呼びください、総帥マスター!」


「いい名だ、レイ。今日から君は我が同志だ」


 こうして、新宿の夜空の下で、歴史的な密約が交わされた。


 後に世界を震撼させ、国連を恐怖のどん底に叩き落とし、あらゆるメディアを賑わせることになる最強の厨二病組織【真・国家保安特務機関】(名称未定)。


 その最初の構成員として、日本屈指の令嬢が名を連ねた瞬間だった。


 下界ではパトカーのサイレンが再び鳴り響いているが、二人の耳には、もはや新たなる世界のファンファーレにしか聞こえていなかった。

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