第3話 狂乱の新宿と覚醒するスポンサー令嬢
深夜二時三十分。
新宿中央公園は、異様な緊張感と混乱の坩堝と化していた。
数台のパトカーが到着し、回転灯の赤色灯が暗い園内を毒々しく照らし出している。
警官たちは、普段の治安維持とは明らかに違う空気を肌で感じ取り、声を荒らげて一般人を遠ざけようとしていた。
「下がれ! 封鎖区域だ! ここから先は立ち入り禁止だ!」
「なんなんですか!? テロですか!?」
「いいから離れるんだ! 危険だぞ!」
混乱の原因は明白だった。
見えない何かが暴れている。
「ぐわぁッ!?」
園内の公衆トイレ付近で警戒にあたっていた若い警官が、突如として何もない空間に吹き飛ばされた。
まるで不可視の巨大なトラックにでも跳ねられたかのように、彼の体は宙を舞い、植え込みの中に叩きつけられる。
「おい!? どうした! 何があった!」
相棒の中年警官が、血相を変えて駆け寄る。
「わ、わかりません……! 急に凄まじい力で押されて……!」
若い警官は肩を抑えて苦悶の表情を浮かべた。
その制服のシャツには、獣の爪痕のような、しかし焼け焦げたような奇妙な三本の傷が深く刻まれていた。
「くそッ……またか! 今夜はいったいどうなってるんだ!」
中年警官は警棒を抜き、誰もいない闇に向かって構えた。
だが彼の腕は、小刻みに震えている。
同様の被害は、既に複数報告されていた。
『何かに足を噛まれた』『顔に見えない風が当たって切れた』『ゴミ箱が勝手にひしゃげた』。
目撃者は皆一様に「何も見ていない」と証言する。
見えない。しかし、確かにそこに質量のある殺意が存在している。
彼らが相手にしているのは、御影 迅が『設定実体化』で配置し、先程の黒炎の少年に焼き払われずに生き残った残りの二体の【下級魔獣】だった。
一般人には、その醜悪な影の姿は見えない。
見えない恐怖ほど、人間の精神を蝕むものはない。
「本部! 本部! 状況不明、正体不明の凶行です! 暴漢の姿は確認できず! 何かが……何かがいます!!」
警察無線の悲鳴にも似た報告が、封鎖線の内側で飛び交っていた。
負傷者がタンカで運ばれていく。
その光景は、平和な日本の日常風景からは完全に逸脱していた。
この地獄のような惨状を、規制線の外側、群衆の少し後ろからじっと見つめる少女がいた。
彼女の容姿は、この猥雑な深夜の新宿にはあまりに不釣り合いだった。
艶やかな黒髪を綺麗に整え、品の良いワンピースを着こなすその姿は、深窓の令嬢そのもの。
名を九条麗華という。
日本経済界のトップに君臨する九条財閥の正当な後継者。
才色兼備、成績優秀、家柄完璧。
学校では『高嶺の花』と崇められ、常に何人もの SP が影から護衛についているような、まさしく雲の上の存在。
だが今、彼女の瞳には怯えでも憐れみでもない、全く別の熱い光が宿っていた。
「……いる」
麗華は小さく呟いた。
「見えないけれど……感じる。そこに、確かに『彼ら』がいるんだわ」
彼女は胸の前で両手を組み合わせ、震える指を抑え込んだ。
その震えは恐怖ではない。歓喜だ。
彼女には「秘密」があった。
九条麗華は、物心ついた時から、世界に対して強烈な違和感を抱き続けてきた。
――世界はこんなにも退屈でいいはずがない。
幼い頃に読み漁った図鑑の未確認生物、神話の悪魔、SF 映画の超能力者。
彼女は、それらが実在することを心から願っていた。
勉強もピアノもダンスも社交界のマナーも、彼女は完璧にこなせる。
だからこそ、現実の「底の浅さ」に絶望していた。
周囲の人間は皆、金や地位や下世話なゴシップばかり気にしている。
誰も、世界の深淵を見ようとはしない。
「宇宙人はいると思いますわ!」と小学校の作文で書いた時、教師は苦笑いし、両親は「恥ずかしいからやめなさい」と叱責した。
それ以来、彼女は自分の本当の心を封印した。
完璧なお嬢様を演じながら、自室のベッドの中でだけ、空想の「裏世界」に逃避する日々。
孤独だった。
誰も信じてくれない。
私の妄想は、ただの妄想で終わるのか。
そんな彼女を救ったのが、とある Web ブログだった。
【月刊:世界の裏側】。
管理人は「M」。どこの誰とも知らないライター。
そこに書かれている記事は、世間からは嘲笑されるような荒唐無稽な陰謀論ばかりだった。
『地下には魔導文明が眠っている』『政府要人はレプティリアンに入れ替わっている』。
普通の人間なら鼻で笑ってブラウザを閉じるところだ。
だが麗華だけは違った。
その文章の端々から感じられる「熱量」。
世界に対する怒りと、変えたいという渇望。
彼女は直感したのだ。
この管理人(M)だけは、私と同じ「匂い」がすると。
だから彼女は今日も家を抜け出してきた。
就寝時間を偽り、厳しい監視の目をかいくぐり(彼女はなぜか忍び足のスキルだけはプロ級に高い)、深夜の新宿へ。
数時間前にアップされた記事【新宿中央公園にて怪物交戦中】を確認するために。
そして、今目の前に広がる光景。
何もない空間で血を流す警官。怯える群衆。規制線を張る物々しい空気。
どう見ても、ただの事故や喧嘩ではない。
見えない力が働いている。
ドォン!!
目の前で、公園の街灯が根本からへし折れた。
まるで巨大な見えない腕で薙ぎ払われたかのように。火花が散り、周囲の悲鳴が上がる。
麗華の頬が紅潮する。心臓が早鐘を打つ。
「やっぱり……『真実』なんだわ……!!!」
彼女の妄想は間違っていなかった。
管理人の記事は、フェイクニュースなんかじゃなかった。
世界には本当に、私たちの知らない「闇」があり、「怪物」がいて、そして……それと戦う「誰か」がいるのだ。
さっき一瞬だけ、公園の奥で黒い炎が上がったのを彼女は見た。
あれはきっと、管理人かその仲間が戦っていた証に違いない。
「すぅ……はぁ……」
興奮で過呼吸になりそうになるのを必死で抑え、彼女はワンピースのポケットから最新型のスマートフォンを取り出した。
手が震えて、フリック入力がままならない。
彼女はブログ【月刊:世界の裏側】のコメント欄を開く。
いつものように「妄想乙」「釣りお疲れ」といった罵倒コメントが並んでいる。
許せない。この愚民どもめ。真実は目の前にあるというのに!
彼女はハンドルネーム『漆黒の薔薇』でログインした。
そして、たった今目撃したありのままの真実を、凄まじい勢いで打ち込んでいく。
『――みなさん! 管理人様のおっしゃることは本当ですわ!!』
『私、今まさに現地の新宿中央公園におりますの! 信じられない光景です……警察が規制線を張っていますが、どう見ても異常事態です!』
『見えない怪物が暴れています! 街灯が勝手に折れて、警察官の方が何人も吹き飛ばされています! まるで……そう、見えない猛獣がいるような……』
『管理人様、あなたはやはり本物のエージェントだったのですね! 私、信じていました。ずっと信じていましたわ!!!』
『ここに写真も貼れないのが悔しいですけれど、空気感がまるで違います! これは現実です! 世界の崩壊は始まっていますのよ!!』
『ああっ素晴らしい……これが真実の世界……!』
送信ボタンを押す。
彼女の長文の書き込みが、罵倒コメントの流れの中に燦然と刻まれた。
すぐに返信がつく。
『また痛いのが湧いたぞwww』
『自演乙』
『お嬢様キャラとかキツイっすw』
普段ならカチンとくるところだが、今の彼女にはそんな煽りなど雑音にすらならなかった。
愚かな常識人たちよ、笑っていられるのも今のうちですわ。
私は……いいえ、私『漆黒の薔薇』だけは知っている。この世界の深淵を。
彼女はスマホを胸に抱きしめ、恍惚とした表情で混乱する公園を見つめた。
「管理人様……。いえ、救世主様……。私、あなたにお会いしたい……」
財力ならある。権力もある。私のすべてを捧げてもいい。
だからお願い、私をその「世界の裏側」へ連れて行って――。
ギャァアアッ!
その時、さらに激しい悲鳴が上がった。
規制線のバリケードが弾き飛ばされ、パニックになった人々がこちらへ雪崩を打って逃げてくる。
「逃げろ! 怪物がこっちに来るぞー!!」
どうやら見えない魔獣の一体が、警官隊の包囲を突破し、野次馬が集まるこちらのエリアへ突っ込んできたようだ。
人波に押され、麗華の華奢な体がよろめく。
「きゃっ!?」
誰かの鞄が肩にぶつかり、彼女はその場に尻餅をついてしまった。
スマートフォンが手から滑り落ちる。
倒れた彼女を気遣う余裕など、誰にもない。
人々は彼女を避けるように、あるいは踏みつけるようにして逃げ惑う。
「ま、待って……足が……」
ハイヒールの踵が折れてしまっていた。立ち上がれない。
そして。
彼女の前から人がいなくなった時、そこに生じた空白地帯に「殺意」の塊が迫っていた。
姿は見えない。
だが、アスファルトを削る爪の音と、鼻先を掠める腐肉の悪臭。
そして、地面に落ちる涎の飛沫が、そこにおぞましい何かが存在することを証明していた。
グルルルルゥ……!
獣の荒い息遣いが、目の前数メートルの位置で止まった。
標的にされた。
そう直感した瞬間、麗華の背筋を氷のような冷たさが駆け抜けた。
SP は撒いてきてしまった。誰も助けてくれない。
死ぬ? 私、ここで死ぬの?
怪物に喰われて?
……なんて素敵なの。
恐怖よりも先に、彼女の脳裏を過ったのは、そんな歪んだ感動だった。
交通事故や病気で死ぬんじゃない。
世界の裏側の住人として、人知れず怪物に襲われて果てる。
それは、彼女が夢見た悲劇のヒロインそのものだった。
「……ふふっ」
彼女は覚悟を決めて、瞳を閉じた。
牙が首元に迫る――。
「――下がりたまえ、お嬢さん」
不意に。
凜とした、しかし低く加工された男の声が、頭上から降ってきた。
ドォン!!
衝撃音が響き、麗華の顔に爆風が吹き付ける。
痛みはない。
恐る恐る目を開けた彼女の目に飛び込んできたのは、ひるがえる漆黒のマントだった。
街灯の逆光を浴びて立つ黒衣の人物。
顔には幾何学模様のマスク。
彼が軽く振った腕の先には、何か見えない巨大な物体が弾き飛ばされたような跡があり、公園のフェンスがひしゃげていた。
「ここは【黄昏の境界線】だ。一般人が足を踏み入れていい場所ではない」
男は背中越しに、そう告げた。
麗華の心臓が、本日最大音量で跳ねた。
間違いない。
彼こそが……。
「……あ……!」
言葉にならない吐息が漏れる。
新宿中央公園のパニックなど、もうどうでもよかった。
今、九条麗華の世界は、目の前の「彼」一色に染まっていた。
彼女の長い長い退屈な人生が終わり、本物の物語が始まる予感が、夜風と共に舞い上がった。




