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断罪された悪役令嬢は、なぜか隣国の美しい王子様に支配され溺愛されます。【※ただし、冤罪ではない】  作者: 重井 愛理
一章

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8話:氷解の時

 恍惚とした弛緩に、私の身体はソファに沈み込んでいく。火照った顔が、ダマスク織の座面に触れる。

 胸に秘めた使命は遠ざかり、抗いがたい安堵に塗りつぶされてしまった。


 絶え間なく押しては返す波のような指圧が終わる。けれど、それは幕引きではなく、開演の準備が終わったに過ぎない。


 ルイスが、精巧な象牙細工を扱うような手つきで、私の左足をヒールの中へ滑り込ませる。

 私は、瞼を固く閉じて、ただその時が過ぎ去ることを望んだ。


 カチリ、と小さな音が脳の中枢まで響いた。


 私の下肢は、完全に彼の支配下に堕ちた。焦燥。憤り。それらの感情が浮かび上がっては、心を満たした潮に呑まれて消えていった。



 彼は、私の手を取って、鏡の前に立たせた。

 白い肌と黒のヒールのコントラストが際立つ。


 ほとんど爪先だけで立っているようなものだった。歩くことは愚か、 少しでもバランスを崩せば転倒は避けられない。重厚な輝きを放つ大理石の床に、身を打ち付けた時の痛みを想像した。


 それでも、不安も恐れもなかった。

 腰に添えられた手と、隣から伝わる体温が、脱力した私を支えている。耳元で囁かれる独占欲が、『決して傷つけさせない』と語っている。


「ああ。綺麗だ……。僕の可憐なアリエル。二度と離しはしない……!」



 彼は、私をそっと抱き上げて問いかけた。


「さて、どこへ行こうか?横になって休むかい?」

 

「……大丈夫です。」


 部屋でずっと眠っていた。今は眠気はない。


「わかった。なら僕の執務室へ案内しよう。」




 執務室は、重厚なオーク材と分厚い絨毯に囲まれた、静寂な空間だった。外の喧騒を遮断されたその部屋こそ、ルイスの『公的な支配』の中枢だ。

 大きな窓からは、庭園の緑が覗く。手前には、公文書の山がそびえるマホガニー製のデスクがあり、羊皮紙の独特な匂いが静かに漂っている。文書の中には、祖国の王家の紋章が押印されたものも散見された。

 

 私は、腕の中でほんの少し身体を震わせた。背中に回した手で私を胸元へ引き寄せる。祖国の北に位置する彼の国。今日は一段と寒い。


 彼は、私を抱いたまま椅子に腰掛けた。

 片手を肩に回し、もう片方の手で書類を手に取る。角度のせいで書類の中身は見えない。

 私はされるがままだった。食事中も同じ姿勢だ。別に今さら、もう何だっていい。



 その時、彼と目が合った。黄金の瞳は支配欲と歓喜で溢れていたが、奥底の琥珀は輝きを失っていた。


 彼は瞼を固く閉じると、ズボンのポケットから靴の鍵を取り出した。それを、デスクの引き出しに入れて施錠する。ダイヤル方式の鍵は、数字こそ手で隠されてしまったが、たったの4桁で開く。

 鍵は、彼が肌身離さず持つものと思っていた。でもこれなら。まだ解錠を諦めるには早いのかもしれない。


 続けて、肩に回していた手を外して、暖炉にかざす。すると、薪がパチパチと音を立てて燃え始めた。揺らめく炎の熱が、執務室に満ちていく。


(これが……王子の”能力”?)


「今日は冷える。このまま僕の腕の中で一日過ごしてもらおうか。」


 彼が、再び肩に手を回そうとする。

 燃え続ける炎。黒く焦げた木炭。

 屈することは許されない。私は、その手を掴んで止めた。


「それはルイス様ご自身で仰った”罰”から逸脱しています。撤回してください。」


 琥珀が輝く。


 彼は薄い笑みを浮かべると、椅子から立ち上がり、私を真新しいソファに下ろした。広々とした座面には、几帳面に折り畳まれた厚手のブランケットが置かれている。


「君が僕から目を背けなければ、この鍵は簡単に開く。……まぁ逃がしはしないがね。」


 私の頬に手を触れて、彼が真っ直ぐに見つめる。

 わかってる。これは挑発だ。でも、希望をぶら下げられて諦めることなんてできない。



 それから、私は、ソファの向かいのデスクで執務に集中するルイスの姿を観察し続けた。彼を見ることが解錠に繋がる。今はそのヒントを信じるしかなかった。

 彼は、日の暮れ始めた窓をちらりと見て問いかけた。


「ずっと見ているだけでは退屈だろう?何か暇を潰せる趣味はないかい?」


 私は、小さく息を吐いて答えた。


「……絵を嗜んでおりました。水彩とデッサンを。」


 思えば、彼は私のことを何も知らない。趣味さえもだ。いや、罪人であることだけは知っているか。

 それなら、なぜ彼は私に執着するのだろう。


 ふと、鏡面仕上げのテーブルに映った自分の姿が目に入る。両親から受け継いだ顔と白い肌。“これ”がそれほど価値のあるものなのだろうか。


「君は芸術にも造詣が深いのか!本当に素敵だ。僕は画はからっきしでね。」


 意外だ。何でもそつなくこなす男だと思っていた。相手のことを知らないのは私も同じらしい。

 彼は芸術について珍しく饒舌に語り、私を称賛し続けた。


「僕を描いてくれないか?君の宝石のような瞳にどう映っているか知りたいんだ。」


 彼にとっては視線も独占すべき対象だった。彼を見つめることが解錠に繋がるなら仕方ない。

 私が頷くと、彼はキャンバスと筆の用意を約束した。



 それから直ぐに、彼に抱き上げられてダイニングホールへと向かい、膝の上で砂糖菓子のような夕食をとった。

 倦怠感と満腹感で微睡む私に、彼は穏やかな声で言った。


「湯浴みの準備はできている。今夜は早く休むといい。」


 

 ルイスは更衣室の前にあった椅子に私を下ろすと、跪いた。デスクの棚から取り出していた鍵を、ヒールの錠前に挿れる。

 小さな音とともにゆっくりと鍵が回転した。

 俯いて足を見つめる彼の顔から、長い睫毛が覗く。どくりと心臓の鼓動が速くなる。私は目を逸らして、残りの足が解放されるのを待った。

 彼は入浴の介助をマヤに託すと、直ぐにその場を立ち去った。




 半刻程経って、私は、湯浴みを終えて更衣室を出た。

 彼は椅子に腰掛けて、書類に目を通していた。走り書きでサインを施し、マヤに書類を手渡す。


 それから、背中と膝の裏に手を回して、私を横抱きにした。

 香水に混じって仄かに石鹸の香りがする。彼も身体を清めてきたのだろうか。けれど、彼は、ガウンやローブではなくジャケットを着たままだった。



 私は、揺り籠のようなゆっくりとした足取りで部屋まで運ばれた。マットの軋む音さえなくベッドに優しく下ろされる。

 彼は隣に腰掛けると、細く長い指で私の髪を漉いた。


「あの靴を履いていて辛くはなかったかい?」


「鏡の前に立った時は少し。ですが、殆ど座って過ごしたため、気になるほどではありません。」


 私は正直に話した。体重をかけなければ、痛くも苦しくもなかった。


「そうか……。すまない。」


 彼は目を伏せると、自身の膝の上に私の足を載せた。

 湯浴みを終えたばかりの、まだ微かに湿り気を帯びた清浄な素肌。彼はその足を慎重に支え、指の先から甲、そして土踏まずへと、絶妙な力加減で丹念に揉み始めた。淀みのない動きで、芯までほぐしていく。


 遮るもののない肌と肌の接触に、彼の体温を直接感じた。指を押しつけられた皮膚が、彼の形に歪み曲がり馴染む。圧迫が止み指が引くと、追いかけるように吸い付く。

 激しい奔流が私を掻き乱す。なのに、彼は感情の波一つ見せない。指先だけで私をいとも容易く翻弄する。

 悔しさが込み上げた。


 これまで、この手で、どれほどの数の女性に触れてきたのだろうか。王族の権威と端麗な容姿に近づこうとした女性は無数にいたはずだ。


(……ぁ…………)


 彼の手が、私の気持ちいいところに触れた。今日まで自分でも知らなかった私のツボ。

 衣擦れの音よりも小さく、僅かに息が漏れる。

 しかし、彼はそこを中心にして柔らかく指圧し始めた。それは甘い痺れではなく、陽の光のようなぽかぽかとした温もりとなって全身に広がっていった。



 ——その時、私は悟った。

 違う。この手はきっと、多くの女性を虜にした王の手ではない。これは、ただ「私」を、「私」の体と心だけを、狂おしいほどに求めてきた、一人の男の手だ。

 慈愛に満ちた手は、幾年月の間、その思いを募らせてきたのだろう。

 生まれた国も違い、社交の場で挨拶を交わす程度の存在。そして今や、祖国で死罪を言い渡され罪人となった。


 私にそんな価値はない。小さく弱く脆い体。お腹に残る醜い傷跡。捕らえられて震える少年を前に、自ら腹を斬りつけて、敵の注意を引くことしかできなかった。無力な幼き日の記憶がよみがえる。



 彼の体温が足から流し込まれ続ける。

 私が眠りにつくのに時間はかからなかった。


「おやすみ。僕の愛しいアリエル。」


 彼は私に羽毛布団をかけると、執務へと戻っていった。

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