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7話:桎梏の時

 視界に広がる淡い青の天蓋、左手に感じる温もり。

 私は、またここに戻ってきてしまったらしい。



 起き上がろうとしたけれど、身体に力が入らない。ルイスに支えられて、ベッドボードを背もたれにした。

 

「傷は塞いだが、失った血までは戻らない。暫くは安静に、とのことだ。」


 彼の顔を直視できず、自分の腕を見渡した。確かに傷は綺麗に消えているようだった。

 軍人たちは王と民を守るため、”能力”が扱えることを求められる。王宮付きの治癒能力者が治してくれたのだろう。



 その時、何の前触れもなく、私の腹の虫が鳴った。顔から火が出るほどの羞恥に襲われる。決死の作戦があっけなく失敗した後にこんな——。


「無理もない。丸一日眠っていたからね。」


 彼は笑わなかった。代わりに、私の頭を優しく撫でてから、呼び鈴を鳴らした。


 テーブルには瞬く間に、出来たてのシチューと柔らかなパンが並べられた。

 香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、湯気が渇いた食欲をたちまち呼び起こした。


 彼は私を抱き上げながら尋ねる。


「もう少し食べやすいものを用意させようか?」


「いえ。大丈夫です。」



 ルイスの膝の上に座り、脱力した身体で寄りかかる。彼の体幹と、口元に運ばれるスプーンを私は必要としていた。

 薄いネグリジェ越しに伝わる体温と、仄かに薫るローズマリーの香水も今はただ心地よかった。


 暫くして、私のお腹は、甘いシチューとパンで満たされた。最後に、彼は清潔なナプキンで口元を丁寧に拭ってくれた。



 ここまでは普段と同じ食事だった。

 違ったのはそれから。

 食事を終えて、覚束ない足元で膝から降りようとする。しかし、鋼のごとく軋む腕が私を捕らえて離さなかった。


「君が眠っている間に罰を考えたんだ。……君は目を離すとどこかへ行こうとする。」


 彼は、溶けかけのチョコのような声で、新たな罰を宣告した。

 

「君はもう自分の足で歩かなくていい。それが二つ目の罰だ。」



 私は彼に抱かれたままワードローブへと連れられた。

 中で待機していたマヤは、彼の姿が完全に消えるのを待つように長いお辞儀をした。そして、私にコルセットを締めないゆったりとしたティーガウンを素早く着せつけた。


 マヤの合図で、彼がワードローブに戻ってくる。私の姿を認めると、その存在を確かめるように肩に触れた。


 ルイスがマヤへ目配せをする。彼女は頷き、白い紙箱を両手で捧げ持った。


「殿下。ご用命の通り、準備いたしました。」


「ありがとう、マヤ。下がっていい。」


 彼女は深々と頭を下げて、立ち去った。



 ルイスは、白い箱からハイヒールを取り出した。

 漆黒のエナメル革に、天に向かって鋭く伸びるピンヒールを持つ、残酷なほど美しい靴。


 彼は満足げに凶器のように尖ったピンヒールを指でなぞる。彼の長い指と比較しても遥かに長いヒール。それは、どんな格式張った会合や社交の場でも見たことがない程の高さだった。

 

「さあ、アリエル。僕の手で履かせてあげよう。」


 肩をほんの少し押されて、恐る恐るソファに腰を下ろした。


 すると、王国の第一王子が、私の目の前で恭しく跪いた。だが、これは臣下の王に対する礼でもなければ、愛を誓う男女の姿でもない。今から始まるのは私の心を壊すための"罰"だ。


 彼は、台座の上に私の足を乗せると、大きな掌で包み込んだ。

 ストッキングで隔てられた接触。けれど、薄い生地からは、指の腹が押しつぶされる感触すらも感じられる。むしろ、その生地が指の関節の凹凸に寄り添い、密着具合を高めているかのようだった。

 その手はいつにもまして熱っぽい。もしかしたら、貧血気味で冷えた身体が、彼の温度に敏感になっていたのかもしれない。


 辛うじて状況を俯瞰していた私の理性は、次の瞬間に霧散した。


 まず、手のひらが絹を擦る音が、鼓膜を焦がした。

 右足の甲から、くるぶしの最も華奢な骨へと、親指の腹がゆっくりと、執拗に這い上がってくる。


 足先から伝う熱は、微弱な電流となって太ももの筋肉を収縮させ、留まることなく腹部に焼きつく。

 その痺れは内側から胸郭を叩き上げ、血流に乗って全身の皮膚を戦慄で覆い尽くした。深奥が甘く疼く。


 くるぶしを撫でた手は、今度は爪先へと向かった。触れそうで触れない絶妙な距離で、指の先端を滑らせる。じれったくて胸が苦しい。楽になりたくて彼の手に肌を擦り寄せようと足掻いた。けれど、しっかりと片手で台座に固定されて、叶わなかった。


 くすぐったくて声が漏れそうになる。

 そして、目的地に辿り着くと、彼の指は骨の際に絡み、指を一本ずつ揉み始めた。指と指の間まで余すことなく按摩する。


 ある時、彼の親指が土踏まずの柔らかい肉を深々と抉るように滑った。そこには、私自身が知らなかった、身体の中心と繋がる秘密の抜け道があった。皮膚の下の腱の震えが、抜け道を通して腰の奥にまで響く。全身の熱が足裏に集まるように逆流する。

 彼は、そのツボを逃がすまいと、じっくりと、何度も何度も、力を込めて這わせた。


 私は、口元を塞ぐ手に力を込めて踏ん張った。



 ルイスが徐ろに私の足を持ち上げようとする。脱力した四肢では抵抗することができない。私はせめてガウンの隙間から下着が覗くのを防ごうと、裾を抑えつけるので精一杯だった。


 しかし、彼はそれに目もくれずにただ同じ地点を見つめたまま、低く艶めかしい声で囁いた。

 

「この足だ。この美しい足が、僕を君から遠ざける。」


 彼は、白磁の陶器を扱うように持ち上げたそれに、頬を擦り付けた。手のひらとは違う頬の柔らかさが、足の甲を侵食した。足元から昇ってくる仄かな白檀の香り。かしずかれているという実感に、頭がくらくらとする。



 裾を両手で抑えたのは失敗だったかもしれない。

 彼が深く息を吸い、吐き出した。それはストッキングに刹那の温かな膜を作り、肌に吸い付いた。

 

 蓋を失った私の唇の隙間から、呼気が漏れ出した。


「…………くっ……ん…………ぁ………」


 媚びた音色が密室に響いた。咄嗟に両手で口を塞ぐ。必然、ガウンの裾がふわりと浮き上がった。

 私はもうどうしたらいいのかわからなくて、助けを求めるように、白んだ視界で黄金の瞳を探した。



 ルイスの瞳は、私の視線や切なげな声、はだけたガウンにも無関心だった。一途に、右足を弄び続けている。

 夜会での貴婦人たちの恨めしげな視線。その心情を少し理解できた気がする。私は、自分の下肢に嫉妬してしまいそうになっていた。



 ふと。気になった。私は、彼の白檀の香りを感じている。彼の鼻と私の足はそれよりももっと近い。

 先ほど大きな息を吸ったとき、足裏の匂いまで知られてしまってはいないだろうか。私は汚されてしまったのかもしれない。屈辱的な背徳感に体を震わせる。

 ダメだ。もう何も考えちゃダメだ。



 静寂の中、微かに絹が軋む音と、吐息だけが響き続けた。



 暫くして、彼の手と私の足が完全に同じ温度に達した時、永い按摩は終わりを迎えた。ストッキングはもはや隔てるものではなく、ただ肌の延長として存在するだけになっていた。


 彼の手から解放された右足はだらりと力なく台座に下ろされた。しかし、直ぐにまた僅かに持ち上げられた。そうしてできた隙間に、彼はヒールを滑り込ませた。

 冷たい靴底が、熱を持った足裏に触れた瞬間、私はその靴の正体を知った。

 座っていても足首を少し傾けただけでヒールが倒れそうになる。歩くことができる代物ではない。これは、私を所有物として飾り立てるための装飾品だ。

 余熱が、靴の革へと伝播していく。やがて彼の体温になった上質な革は、まるで体の一部のように肌に馴染んでいった。



 続けて、ルイスはストラップを足首に巻きつけ始めた。二重に固定されたベルトが、最も細い部分を締め付ける。華奢な骨に彼の支配が食い込んでいく。


「痛くはないかい?」


 彼が初めて視線を上げて、私の顔を覗き込んだ。今、私はどんな顔をしているんだろう。

 ベルトの圧力で、血流が僅かにせき止められている。程よい圧迫感だとは思う。

 けれど、じんじんとした痺れは全身に広がっていた。もう痛いかどうかなんてわからなかった。私は、拒絶することも受け入れることもできないまま、黄金の瞳に囚われていた。


 彼は視線を落とすと、ベルトを緩めた。締め付けた場所が赤く変色していないか確認しているようだった。

 足首をなぞり、ベルトを同じ力で締め直す。次いで、内側のバックルに、小さな銀製の鍵を差し込んだ。

 デザインを損なわない可愛らしい錠前。私は直前までその存在に気づいていなかった。


 罰の核心を理解した刹那、繭の中にいるかのような絶望に視界が昏くなった。



 カチリと、私の根を大地から引き抜き切断する、決定的な音が響いた。その音は、また一つ私の自由が奪われたことを示していた。

 彼は立ち上がると、銀の鍵を虚ろな瞳に見せつけた。


「君はこの鍵がなければ、どこにも行けない。」


 焦点が定まらず、揺蕩う私の身体を硬い胸板が支えた。


「今度こそ逃げるのは諦めてくれるかい……?」


 彼は、銀の鍵を私の手に押し当てた。


 その冷たさが、薄暗い孤児院の鉄格子を思い出させた。

 決意が、何度だってどんな状況だって、私を奮い立たせる。そうだ。私はこの檻から逃げ出すと誓った。這ってでも逃げ出すんだ。 


 私は爪先に力を込めて、首を小さく横に振った。

 彼は悲痛な笑みを浮かべ、再び跪いた。そして、左足の薬指に唇を押し当てた。深く、長く、楔を打ち込むかのように。




 数分後、彼は立ち上がると、白い箱から左足用のヒールを取り出した。

 高く鋭利なピンヒールが、決意を嘲笑う。

 右足の支配の残滓、左足のキスの余韻。”それ”が終わった時、私は私でいられるだろうか。


 ——罰はまだ始まったばかりだった。

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