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6話:脱獄の時

 窓から、王宮の端を流れる小川を見つめる。


 前回の逃亡に失敗して以降、窓は、精緻なステンドグラスに替わっていた。それは、王家を象徴する赤い炎のような意匠が幾重にも重なった、美しい装飾品。金色の枠組みに窓を開ける隙間はなく、嵌殺しになっている。


 分厚い防犯ガラスは叩いても鋭利な物を投げてもびくともしない。

 外からは客人をもてなす豪華な窓に見えるだろう。しかし、私にとっては脱獄を阻む檻の一部だった。


 私は、祖国で国費を横領した。それは、孤児院での”儀式”を短く見積もっても3カ月は停滞させるだろう。既にこの国に連れられて10日が経った。祖国での取り調べで過ぎた時間を考慮すると、私に残された時間は約2ヶ月。

 遅くとも、この国の長い冬が終わるまでに、甘い檻から逃れ、使命を果たさなくてはならない。

 けれど、悠長にしているつもりもない。私は今日、二度目の脱獄作戦を敢行する。



 私は、今日も膝の上で朝食を食べ終えた。昨夜の夕食で”奉仕”できなかったからか、ルイスはいつにもまして甲斐甲斐しく私の口にスプーンを運んだ。


 彼の瞳には、私を所有し支配しているという悦びの色が浮かんでいた。それがこの後崩れ去るとも知らずに。



 食後にハーブティーの入ったカップが、口元に差し出される。私は、それを人差し指で軽く押し戻した。


「申し訳ありません、ルイス様。ここのハーブの香りは私には合わなくって。」


 彼が、代わりを用意するために給仕を呼ぼうとする。

 その前に、私は意を決して、自ら両手を彼の肩に置いた。黄金の瞳を見つめて問いかける。


「そんなことより、ルイス様?公務の予定は如何でしょうか?」


「あぁ、急ぎの用は帰りの馬車で終わらせたよ。君の穏やかな寝顔を眺めながらね。」


 彼は口角を上げて笑った。

 温かな膝の上で眠りに落ちたことを思い出す。私は紅潮した頬を隠すように、彼の耳元に顔を寄せた。

 そして、準備してきた言葉を囁いた。


「もしよろしければ、私と踊ってくださらない?最近運動不足で……。昨夜も直ぐに息切れしてしまいましたし。」


 理由はわからないが、彼は私に執着している。今回はそれを利用する。

 

 彼の身体が、一瞬、石のように硬直した。それから、眉をひそめ低い声で、私の名前を呼んだ。 


「……アリエル?」


「やっぱり、私の踊りでは不釣り合いでしょうか?忘れてください。」


 彼の膝から降りて俯く。

 舞踏会の場でもなく誘えば、疑われることくらい想定内だ。だけど、どうせ彼は私の提案を受け入れる。その上で出し抜けばいい。


「いや……。ぜひ僕と踊ってくれないか?」


 彼は私に手を差し出した。




 マヤの選んだ、気品を保ちながらも動きやすい薄底のダンスシューズと、身軽なドレスに身を包む。

 爪先でトントンと床を打つ。この靴なら全力で走れそうだ。


 着替えを済ませた私は、王宮の舞踏室に立っていた。

 廊下から彼の声がかすかに聞こえる。


「マヤ。君は、呼ばれない限り決して入らないように。」


 全く。面白いように踊ってくれる。独占欲を刺激してマヤを排除するつもりだったが、その必要すらなくなった。

 二人きりの舞踏室で、彼と向き合う。


「シンプルなドレスも着こなすなんて。僕のアリエルは本当に何を着ても似合う……!」

 

 ルイスは私の手を優雅に取った。

 蓄音機からワルツの音楽が流れ始める。


 軽快で流麗なリズムに合わせて踊る。私は、彼のリードに合わせて完璧なステップを踏んだ。時折、私を見つめる彼の瞳には、疑念の色はすっかり鳴りを潜め、喜びと愛おしさだけが溢れていた。

 私はそれを内心で冷たく観察する。肌が触れ合う熱も今日は気にならなかった。


 

 曲の合間に彼はこまめに水分補給を行なっていた。私は、その隙に用意していた青い口紅を少しずつ唇に塗り重ねていった。


 何曲か踊り、熱気で舞踏室が暖まり始めた頃。

 私はすっかり青くなった唇を強く噛みしめ、体温が奪われたような青白い顔を演出した。そして、彼に体重を預けながら、ゆっくりと床へ倒れこんだ。



 私の身体が床に落ちる直前、支配者の仮面が、剥がれ落ちた。


「アリエル!」


 彼が上げたのは、純粋な焦燥に満ちた、悲鳴にも似た叫び声だった。血相を変えて私を抱き起こす。


「どうした、アリエル!?」


 私は、荒い呼吸を装って唇を微かに震わせた。


「み、水を……。頭が、割れそう……」


 彼が震える手で銀の水筒を差し出す。私は事故を装い、それをわざと倒した。命の源が床を濡らす。


 ルイスは浅くなっていく私の息を見て、舞踏室を飛び出した。


「君はアリエルのそばにいてくれ!僕のほうが速い!」


 彼は、マヤにそう告げると、ダイニングホールへと駆けた。


 ――それは、遥か幼い日の記憶をフラッシュバックさせた。

 自分の手で斬りつけたお腹。止めどなくあふれる血。青くなっていく顔。そんな私を抱き上げて、王宮へと息を切らして駆ける誰かの姿。


 薄くなっていく視界の中で、赤い耳飾りが揺れていたことだけを覚えている。 

 しかし、私の心は揺るがない。



 ルイスが走り去った後、マヤが舞踏室に入るより速く、私は銀の水筒を窓に思いっきり投げつけた。

 ガシャン!と、耳を聾するような大きな音を立てて、窓ガラスに亀裂が入る。私は床を蹴り目を瞑って、その鋭利な亀裂に飛び込んだ。


 全身に、幾百もの熱い針が突き刺さるような激痛が走った。

 ガラスの破片が、ドレスの薄い生地を突き破り、肌を裂きながら深く食い込む。右肩、脇腹、太腿――体の至る所から、生暖かい血液が流れ出るのを感じた。

 それは、まるで皮膚が焼けるような激しい痛みだった。


 痛みに呻きそうになる口を必死に抑える。この程度、閃光に全身を灼かれたあの子に比べれば、かすり傷にすぎない。

 それに。人はこの程度の出血では死なない。そのことを、私は実体験によって、骨の髄まで知っていた。



 私はまず、木の陰に身を隠した。音を聞きつけた衛兵、そしてマヤの追跡は既に始まっている。だが、移動を開始する前に。

 比較的大きな出血をドレスで素早く拭う。血の跡から追跡されるような無様なミスを犯すつもりはない。



 前回の逃亡で、正攻法の脱獄が難しい事は分かっていた。門には衛兵とは別に、ルイスやマヤの手配した人間が見張っているに違いない。


 この数日、王宮の南を流れる川と、その水流の行き先を調べた。

 下流には、小さな村が点在するのみ。辺境伯と貴族ですら”そう”だったんだ。私の顔を知る人がいる可能性は低い。

 そこにたどり着くことさえできれば——。



 建物の陰に身を隠しながら、あえて迂回して南東へ向かった。

 川は東から西へ流れている。最短距離で南、あるいは下流である南西へ向かえば、追跡者に「川から逃げた」と悟られてしまう。


 後ろから、衛兵が近づいてくる。革靴が砂利を踏みしめる乾いた音が、背中を這い上がってくる。しきりに首を振り周囲を見渡しているのがわかった。


 私は、冷たい石壁に張り付くように身を屈め、息を潜めた。心臓の鼓動が、鼓膜を直接叩きつける。ドクン、ドクン。

 まるで頭の横に心臓が移ったのかと錯覚するほどの轟音だった。呼吸をするたびに、その音で衛兵に気づかれるのではないかという恐怖が、全身を硬直させる。


 やがて、衛兵が、すぐそばの建物の角を曲がって行く気配がした。足音が遠ざかるまでの数秒間は、永遠にも感じられた。強く歯を食いしばった喉の奥で、鉄の味がした。



 川にたどり着いた私は、血に濡れたドレスの裾を水につけた。

 血が水に溶け出す。私はポタポタと滴る赤い液体を、川の向こう岸から、先にある小さな茂みまで落とした。

 これで、負傷した私が川に流されて下流に向かったとは、誰も考えないだろう。

 ルイスたちは、私が向こう岸へ渡り、南へ逃げたと考えるはずだ。


 川に半身を浸ける。冷たい水が傷口に染みた。

 大きく息を吸って、頭から潜ろうとしたその時。

背後から音もなく現れた影に、私の身体は一瞬で宙を舞った。

 

「きゃっ……!!」


 鈍い音を立てて、地面に打ち上げられる。

 冷たい手が、私の頭と腕を掴み、流れるような動作で、組み伏せる。背中に突き立てられた膝に、息が詰まる。ダンスシューズが、今は地面を掴むために空しく滑った。


「あなたの逃走経路を、殿下は全て読んでいました。……その傷で水に入っては、無事では済まないでしょうに。」

 

 マヤは冷徹な声で終わりを告げた



 私の脱獄はまたしても失敗に終わってしまった。



「アリエル……」


 私の視界に、ルイスの緩んだ靴紐が映り込んだ。

 片手に水の入った銀の袋を下げている。舞踏室を飛び出したまま、靴も整えず、全速力で走ってきたのだろう。彼は肩を大きく上下させていた。

 無機質な黄金の瞳が、私を見下ろす。



「聡明なルイス様は、私の演技も全てお見通しだったんでしょう?いつもよく私を見てくださってますものね。」


 地に伏したまま目線だけ上げて、にらみつける。彼の支配欲を傷つけることが、今の私にできるせめてもの抵抗だった。


 彼は、私の皮肉には答えなかった。代わりに手を上げて、マヤに拘束を解かせた。

 その場に腰を屈めると、私を両手で包み込んだ。流れ続ける血が上着を汚すのも構わずに、抱き上げる。そして、私の身体に振動が伝わらないように確かな足取りで、しかし足早に治療室へと向かった。



 彼の腕の中から空を見上げた。雲一つない青い空は、まるで私を断罪するかのように、どこまでも澄み渡っていた。

 私の罪は、このあまりに清浄な空の下で、赦されることはないのだろう。

 血を失い水に濡れた私に体温を分け与えるように、彼は強く抱きしめる。私はこの瞬間も罪を重ね続けている。少しでも早く祖国に戻り、あの司教を葬らなければならないのに。

 それなのに、この温かさが思考を狂わせる。


 その時、一粒の雫が私の頬に落ちた。


「二度とこんな真似はしないでくれ。嘘でも……君が苦しむところを、もう見たくないんだ。」


 赤い耳飾りが小さく揺れていた。

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