5話:夜宴の時
私は、ルイスに手を引かれて馬車から降りた。
会場に入る直前、彼が囁く。
「食事は、昨夜派遣したうちのシェフに作らせた。……君への罰は”一生”続くんだ。」
彼の執念には空恐ろしくなる。それでも久しぶりの綺羅びやかな世界に、私の心は僅かに浮ついた。
脱獄計画の実行は明日。準備は整えた。流れ次第では、追加の布石をこの社交界で打てるかもしれない。
ホールは、燭台とシャンデリアの光で溢れ、ドレスの絹擦れの音と、オーケストラの調べが空間を満たしていた。
ルイスは、静謐な動作で肘を曲げて私へ差し出した。
紳士のエスコートは受けるのが淑女の嗜みだ。私は、迷わずにそっと彼の腕に自分の手を絡ませた。漆黒の正装と、その下で漲る逞しい腕の温もりが、私の身体を支えた。
最初に、夜会の主催者でもある髭を蓄えた辺境伯が近づいてきた。彼はルイスと一通りの挨拶を交わすと、敬意のこもった瞳のまま、私を値踏みした。
ルイスが簡潔に告げた。
「彼女はアリエル。王家の古い傍系にあたる。」
貴族たちの好奇の視線が私に集中する。
私は小さく息を吸った。深く膝を折ってカーテシーを取り、自らの名を名乗った。
「アリエル・ツー・フロストベルクでございます。どうぞお見知りおきを。」
辺境伯は、私たちの顔を交互に見比べると、疑うことなくその名を反復した。
「ルイス殿下が、公の場に女性をお連れになるとは大変珍しい。しかも、フロストベルクの血筋の方とは——」
傍らで若い令嬢が、優雅に頭を下げた。彼女の瞳は、私の手元に釘付けになっている。彼女は作り笑いを保ったまま、声に棘を潜ませた。
「お初にお目にかかります。素晴らしき殿下の寵愛を、どうぞ永くお受けくださいませ。」
かつて私は、レオンと共に社交の場に幾度となく出てきた。この手の嫉妬には慣れている。無言で微笑み返すと、彼女は逃げるように目をそらした。
「ありがとう。僕たちは他の皆にも挨拶してくるよ。……また後ほど。」
ルイスが自然な動作で私の前に立ち、空気を暖めるような声で応じた。彼女は息を呑むと、そそくさとその場を離れていった。
悠然とした彼の姿に優越感を感じてしまう。しかし、私にそんな資格があるはずもない。腕に絡ませた手に力が入る。
彼は、振り向くと微かに私の身体を引き寄せた。
「さあ、アリエル。行こうか。」
それから、彼とホールの中心を練り歩いた。彼は、旧知の公爵や大使、そして彼を羨望の眼差しで見つめる貴族の令嬢たちに、私を次々と紹介した。
祖国では珍しい木彫りの細工や、淡い水彩で描かれた絵画。洗練された空間の中で、話題のゴシップに耳を傾ける。そのつかの間の解放感は、計画で張り詰めた心の鎧を、そよ風のようにゆるませた。
同時に、心の奥底で何かがしぼんでいくのを感じていた。
私を夜会へ連れてきた理由、偽りの家名を名乗らせた理由。私はそれを知らないままここにいる。
挨拶を終えた私たちは、庭園の中央にある噴水の周りで、しばしオーケストラの鑑賞に興じた。ルイスは、私が窮屈な思いをしていないか、時折顔を覗き込んできた。私は口元に手を当てて微笑んで見せた。
やがて、日が落ちた頃、隣接するダイニングルームへと移動した。
彼にエスコートされて右隣の席に座る。互いの体温を僅かに感じる隣り合った席。しかし、王宮での食事よりは遥かに遠い距離。
私は、数日ぶりに自分の手でカトラリーを持った。
運ばれてきたのは、寒冷な地で獲れた鹿肉のローストと、濃厚な根菜のポタージュ。一口食べるたびに、素材の力強い味わいが口の中に広がる。
「このポタージュは、コンソメが効いているな。君の好みだと思うが、どうだい?」
彼の言葉が、甘い塩気を思い出させる。それでも、痺れた手でフォークとナイフを握り、完璧な平静を装って感想を返した。
「ええ。鹿肉のロースもソースの酸味がよく合っています。隠し味はベリーでしょうか?」
軽い談笑を交えながら、ルイス王子の同伴者として上品に料理を食べ進めた。
食事の最後に、ショコラのケーキが供された。
彼はナイフの背を長い指で押さえて、雅やかに一口大に切り出した。断面から甘いカカオの香りが仄かに香る。フォークを突き刺して、持ち上げる。それを優美な所作で自身の口へと運んだ。
その時、彼の視線が私の口元に向けられていることに気づいた。
だらしなく開いていた口から、絶望の音が漏れた。
「……ぁ…………。」
全身から血の気が引くのを感じた。そして瞬く間に、羞恥で赤く染まった。
周囲の喧騒が、視線が、全て私を咎めているかのようだった。突然俯いた私の様子を、給仕の女性が心配そうに窺う。
しかし、彼女の視線は黒のタキシードに遮られた。
「失礼。彼女は、あまりお酒に強くなくてね。美酒に酔いしれるうちに飲みすぎてしまったようだ。」
ルイスはだらりと落ちた私の肩を抱いて立ち上がらせた。
私たちは、ダイニングの喧騒から隔絶された庭園のベンチに腰掛けていた。
肩に回された腕が、私の身体を彼に寄り添わせる。夜風が熱を冷ましていく。
彼は静かに二の腕を撫で続けてくれた。
暫くして、私の顔が薄い桃色になった頃、眼前にグラスが差し出された。
「ありがとうございます……」
私は水を口に含んだ。
ぬるい。グラスを握っていたルイスの体温が伝わっていたようだった。それは、庭園で彼に抱かれて過ごした時間の長さを物語っていた。
彼は何も言わない。
数日前、彼は公務から戻ったら『話す』と言った。私の逃亡と罰で有耶無耶になっていた問いを、掠れた声で投げかけた。
「あなたの目的は……?私をどうしたいんですか?」
「ただ、君に、傷ついてほしくないだけだ。」
散々私の尊厳を傷つけたくせに。
なのに、真剣な眼差しが私を見つめていた。彼の手に包まれた頬が赤くなる。
「僕の愛しいアリエル。その表情も震えも全て僕のものだ。……誰にも渡さない。」
彼はそれを愛だと言った。
もしかしたら私とは違う星で生まれ育ったのかもしれない。
長い沈黙が流れる。
その時、風に乗ってワルツの音楽が流れてきた。
決意が私を奮い立たせる。ここで、明日の計画の布石を打つ。
私はベンチから立ち上がって、ホールの方を指した。
「ルイス様。私たちも踊りましょう?せっかくの機会ですもの。」
刹那、彼は目を大きく見開いて、私の手を取った。
ルイスは、私を独占するようにホールの中央へと導き、ワルツへと引き入れた。
彼の引き締まった腕が私の背を抱き、私の細い手が彼の肩に触れる。ステップを踏むたびに、密着した硬い胸板から、彼の脈動が伝わってきた。
ワルツの終わり際、ほんの少し乱れた私の呼吸を、彼は見逃さなかった。
強い力で抱き寄せられる。私は、彼の腕の中で呼吸を整えた。
舞踏会の慣わしに従って、紳士たちが次のダンスを申し込もうと近づいてくる。
その時、ルイスは、懐から取り出した懐中時計を一瞥した。殆ど同時に、入口で控えていたマヤが彼に駆け寄り、耳元で何かを報告した。
彼は、周囲にだけ聞こえる声で、しかし王子としての威厳を込めて告げた。
「残念ながら、今ほど急ぎの用が入った。君たちは気にせず続けてくれ。私の退席で、この楽しい場を台無しにしてしまうのは忍びない。」
そして、私の耳元にベルベットのような蕩ける吐息をかけた。
「君と踊っていいのは僕だけだ。——僕たちの王宮へ帰ろうか。」
彼は、帰りの馬車でも、懲りもせず私の隣に座った。
扉が閉じ、二人きりの密室になる。しかし、私の身体は緊張ではなく弛緩を選んだ。
安らぎを渇望する本能と、重くなった瞼に逆らえず、しなだれかかる。いつの間にか彼の膝を枕にしていた。
馬車の緩やかな揺れが、頭を滑らかなウール生地に押し付ける。その下にある、鍛え抜かれた太腿の筋肉が克明に伝わってきた。
「気分転換になればと思ったが……。緊張させてしまったようだね。」
温かい掌が、私の髪に潜り込む。慈しむような手つきで、頭皮を愛でるように梳いていく。
そして、ローズマリーと白檀の混ざった香りが、馬車内の空気を濃く満たした。彼の上着を掛けられていたことを、私は後で知った。
確かな重みと、懐かしい匂い、それから息遣い。五感を征服された私は深い眠りの中に沈んでいった。
意識が浮上したのは、身体を包んでいた温もりが、馬車の振動から、ルイスの歩行による規則的な揺れに変わった時だった。
私は、まるで水面に引き上げられるように目を開けた。視界に飛び込んできたのは白いシャツと整然とした顎。彼は、私を横抱きにして、王宮の長い廊下を歩いていた。
深紅のドレスは、黒でくるまれていた。
「起こしてしまったかい?」
廊下の角を曲がる際に、黄金の瞳が私に向けられた。
「自分で歩きます。」
身じろぎをして抗議した。
強引に抱き直されはしないかと身構える。
だが、私の願いは聞き入れられた。ドレスの裾が、音もなく広がる。立ち上がった瞬間、長時間の睡眠で、足元が微かにぐらつくのを感じた。それを悟られないよう、すぐに背筋を伸ばした。
彼はシワのできた上着を羽織ると、手を差し出した。その手にエスコートされて、自分の部屋までの道を歩いた。扉の前では、待機していたマヤが頭を下げている。
「おやすみ、僕の愛しいアリエル。」
彼は、まるで次の愛の逢瀬を約束するかのように微笑むと、踵を返した。




