47話:油彩の時
——危機が去ったあとの、大使館のエントランス。
張り詰めていた空気が緩んだ隙間に、ルイスの問いかけが響いた。
「会談まで間があるな。部屋で休むかい?」
ルイスが私に問いかける。
「少し、街を歩いてみたいです。」
確かに外に出るのは怖い。だけど、今引きこもると二度とどこにも行けなくなる。そんな予感に背中を押された。
彼は、ソフィーに寄り添うマヤに目配せしてから答えた。
「ああ、イヴと行ってくるといい。ただし、念のため僕も同行させてもらう。」
「……私は、お部屋の清掃をしてお待ちしております。」
イヴはそう言い残し、私たちが滞在することになる来賓室へと向かった。
数十分後、私はルイスと共に王宮からほど近い市場を歩いていた。
色あせたウールの上着と、装飾を省いたフード付きの外套は、真冬の曇天に馴染む。大通りの人並みに紛れても、ルイスの長身と立ち居振る舞いから滲み出る所作は、人々の目を惹いていた。
フードの隙間から覗く世界は狭く、すれ違う人々の視線が彼の隣にいる私に向けられているような気がして、絶えず心臓が早鐘を打つ。
「あれが王都一の人気店だ。」
ルイスが指し示したのは、香ばしいバターと砂糖の香りを漂わせる大型の露店だった。
彼は手慣れた様子で糖蜜がかかった揚げ菓子を買い求めると、それを包み紙ごと差し出した。
道の脇に寄って彼の陰に入り、ベールの端を少しだけ持ち上げる。そして、両手を身体の前で組んだまま、おずおずと唇を開いた。
熱い蜜が舌の上で溶け、焦げ目の微かな苦味と共に口いっぱいに広がる。
ルイスの指先が、私の唇の端についた蜜を親指でそっと拭った。続けてその指先を彼自身の唇に運ぶ仕草があまりに自然で、私は顔が火照るのを感じて俯いた。
「何も心配することはない。君はただ僕の隣で笑っていればいい。」
フード越しに伝わる彼の手の温もり。この檻に囚われたままでは、街に出た意味がない。私は体を横に向けて彼の手を外した。
「あの。ルイス様とカイ様の関係をお伺いしても?」
「大切な……友人だ。君にとってのイヴのような。」
たった五文字の言葉に凝縮された重み。他国の要人同士が胸を張って答えるためには、どれほどの信頼を積み上げてきたのだろうか。
彼は薄い笑みを収め、真剣な表情で続けた。
「彼女と何かあったのかい?」
「いえ……何も。ところで、カイ様のような能力は消耗が激しいというのは真でしょうか?」
追及を躱すために、私は話題を変えることにした。
先のマヤの言葉は、ソフィーを安心させるための優しい嘘という可能性も考えられる。いや、そうでなければ、おかしいはずだ。けれど、私の期待はあっけなく裏切られた。
「事実だ。彼ほどの能力を何の代償もなく扱えるならば、世界の均衡など保たれない。」
「でしたら、雷の”能力”は……?」
「あれは、能力者自身が雷を創り出しているのではない。世界に存在する力に、雷撃として指向性を与えているだけだ。」
彼は広場を見つめた。中央には5メートルはあろうかという若い女性の像が鎮座している。
彼が、手に持っていた硬貨を指で弾く。くるくると宙を舞う鈍色。刻まれているのは、像と同じ女性の顔。
「それ故、女王陛下は人々に畏れられ信仰の対象になっている。」
彼は指揮官として戦場に立つこともある。私よりも”能力”については遥かに詳しい。それでも、信じがたい。本当に代償も払わず、あの力を一人の人間が制御できるのだろうか。
少なくとも、祖国で見た”儀式”の代償は、命そのものだった。
胃の中からせり上がってきた酸味を甘いお菓子で押し殺した。
「他にも聞きたいことはあるかい?」
彼が私の瞳の中を覗き込む。その視線は、湖底に沈んだ真実を掬い上げようとする銛のように鋭い。
「今は大丈夫です。」
胸に秘めた使命を悟られまいと私は首を横に振った。
「さて、次は画材屋へ行こうか。」
ルイスは私の手をとり、優しくエスコートし始めた。
「土地によって顔料の奥行きが異なる。君が望む色を探すといい。」
木製の扉を押し開けた瞬間、鼻腔をくすぐったのは乾いた亜麻仁油の香りと、懐かしい木の匂いだった。棚には、宝石の原石を砕いたようなラピスラズリの青や、燃えるようなコチニールの赤が、小瓶に詰められて整然と並んでいる。
「……雷の国の青は、私の国で見ていたものよりずっと、空の深い場所の色をしているのね。」
私は思わず、窓際に並んだ青の瓶に吸い寄せられた。ルイスが私の隣に立ち、棚の一角を指差す。
「製法の違いだろう。この国では不純物を取り除く工程に、ある種の鉱石粉を混ぜると聞いた。……水彩で薄く溶けば、夜明け前の薄明をそのまま写し取れるはずだ。」
「他国の文化にもお詳しいのですね。」
「カイから聞いたんだ。僕は画は描けないが、教養としてね。」
彼は茶化すように笑ったが、やはり芸術に対する知識は確かだった。
「油彩なら、このカドミウム・イエローを見てごらん。発色の強さは、もはや閃光と言ってもいい。」
「ええ、本当に……。この赤と合わせれば、肌に落ちる陽光の温かさまで描けそう。」
二人で棚を巡りながら、絵具の展色剤の性質や、重ね塗りの技法について語り合った。空いた店内で周囲の視線からも解放され、穏やかな時間が流れた。
「画紙も見ていくかい? それとも、まずは筆を新調すべきかな。」
「そうね……。筆を見たいわ。機会があれば試してみたいと思ってましたの。」
私は年甲斐もなく胸を躍らせ、カウンターに並べられた筆の列に歩み寄った。
噂で聞いたことがある。雷の国にのみ生息する白い体毛で覆われた小動物シルフ。その毛で作られた筆は、一度使うと他の筆は握れなくなるほどに滑らかにキャンバスの上を滑ると。
毛先のしなやかさに直接触れてみたくて、私は右手の革手袋のボタンを外して脱ぎ捨てた。
「この筆、とてもいいわ……!ルイス様——」
弾んだ声で振り返った瞬間、私の喉は凍りついた。
彼の瞳から、色が消えていた。
「これは……?」
彼が私の手首を、骨がきしむほどの力で掴み上げる。
静寂が、店内の穏やかな空気を葬った。
赤みの残る荒れた指先。
理由なんて答えられるはずがない。あなたを求めて自壊した、だなんて。
「すまない。ここからあそこまで、まとめて包んでもらえるだろうか。……支払いは、後で使いの者を寄越す。」
ルイスは、棚の両端を無造作に指差して、低い声で告げた。あっけに取られる店員をよそに、彼は私を強引に引きずるようにして路地裏へと連れ出した。




