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45話:錯誤の時

 私はまた、囚われてしまった。


 彼の右の指先が、火照った私の耳たぶを薄い皮膜ごと弄ぶように潰した。


「ルイス、様……。もう……んっ、時間が……。」


 しなやかな指が、耳の裏から首筋を伝い、私の呼吸を一つ奪うたびに、理性が剥がれ落ちていく。

 私の力が完全に抜けたのを確信したのだろう。


 背中に回された彼の左手が、私の脇腹に狙いを定めた。


 パチン、パチン。


 小さな残酷な音が二度。私が必死に、拒絶の証として留め直したはずのホックが、容易く弾け飛ぶ。

 

「……あ、っ、だめ……っ」


 開かれたドレスの隙間から、大きな掌が侵入する。彼はそのまま、コルセットと肌の境界を強引に押し広げ、手のひらを裏側へ潜り込ませた。


 先刻までイヴと過ごしたソファで、肌に触れられている。彼女の声も笑顔も、背徳感によって上書きされていく。


 脇から肩甲骨の辺りをゆっくりと、しかし、肋骨と背骨の形を覚え込もうとしているかのように執拗に撫で回す。

 彼の手が呼び水となって汗ばむ肌。体温と撹拌された秘め事の匂いで、仄かに残っていた茶葉の香りを見失う。膝の上に固定されて微動だにできず、それを追い求めることもできない。


 その時、私は本能的な危機を察知した。


 耳たぶが柔らかな弾力に包まれて、熱く濡れた。湿った舌が輪郭をなぞり、犬歯が、甘噛みよりも少しだけ強く肉を食む。

 咀嚼音と微かな痛みが、鍵盤を端から端まで同時に乱雑に叩いたような、私自身も知らなかった音を奏でさせた。


 自壊しかねない角度で軋み、仰け反る。


「綺麗だ……外の世界に君を出すのが惜しくなってしまう。」


 余韻に浸る私を抱いたまま、耳元で囁かれる声。

 彼は涙に濡れた睫毛を指でなぞり、その雫を口に含んだ。


「もっと……もっと君を知りたい。」


 彼は腰に添えていた右手を動かした。


 今、ここで昨夜探し求めた”答え”を彼に教えられてしまうのだろうか。

 けれど、”答え”はその場所を素通りして、ある場所を目指した。


 夜毎繰り返されるマッサージと言う名の侵略。腕、肩、背中、腰、太腿、足。凝りを解すという性質上、未踏の地は幾つか存在する。

 例えば、そう。凄惨な傷跡が眠る下腹部。


(だめ、そっちは——)


 赤い髪飾りと泣き叫ぶ少年の姿を幻視した。

 私は最後の力を振り絞って、声を張り上げた。


「いい加減にしてください!!」


 胸を突き放すことも彼の膝から飛び降りることもできない、ともすれば曖昧な拒絶。

 しかし、黄金の瞳は、言葉に宿る本気の拒絶を捉えていた。



「すまない。……君が愛らしすぎて、つい加減を忘れてしまった。」


 彼は乱れたドレスを整えると、手を背中に添えた。子供をあやすように私の呼吸に合わせて一定の間隔で背を叩く。身構えていた身体が、拍子抜けしたように弛緩していく。


 分かっている。自分で乱して自分で癒やす、放火した火を消しただけの自作自演だ。

 それでも、指先には、先ほどまでの苛烈な欲望はない。代わりに伝わってくるのは、穏やかな慈愛だけ。

 罪人の私は、確かに宝物のように大切にされている。その事実は、私の心を独占欲をぶつけられるよりもよほど危うく削りとってしまう。


「君の新たなドレスも楽しみにしているよ。」


 彼は私をソファに下ろし、ひらひらと手を振りながら部屋をあとにした。




 ルイスと入れ替わりに入ってきたソフィーは、手際よく着替えの介助を始めた。

 彼女の手が、脇腹のホックに触れる。

 熟練した侍女の、無機質で事務的な接触。私は心臓が跳ね上がるのを抑えられず、思わず小さく身を縒った。


「アリエル様?どこかお苦しいですか?」


 怪訝そうに首を傾げるソフィーの瞳には、何の含みもない。


 恥ずかしい。清らかな彼女とルイスを混同してしまった自分が。


「いいえ、なんでもないわ。少し、コルセットが重いだけよ。」


 鏡の中の私は、確かに公爵令嬢の顔をしていた。けれど、ルイスの残した感触だけが、彼女の指先との対比で、鮮明に浮き彫りになっていった。



 ドレスの着付けの後、化粧を施される。

 ソフィーが筆を置き、私の唇に差した紅の馴染み具合を確かめるように、身を引いた。


「お顔の方は、これで宜しいかと。あとは、御髪ですね。」


 彼女が私の背後に回り、髪に手を伸ばそうとして、ふと動きを止める。


「髪型は崩れていないようですが、いかがいたしましょうか?」


 ソフィーの言葉に、私は息を呑む。


 本当だ……。

 髪の一房、ピンの一本に至るまで、先刻イヴが微笑みながら結ってくれた時のまま。私の尊厳を奪い、溺れさせた熱狂の中、彼はイヴの献身を汚さなかったのだ。

 偶然かもしれない。だとしても優しいと思ってしまう私は、既に手遅れなのだろう。


「ええ、このままで大丈夫よ、ありがとう。」



 櫛と化粧道具を仕舞うソフィーに話しかける。


「ところで、その……無理させてごめんなさい……私と二人だなんて。」


「こ、怖くとも、これが私の職務ですから。」


「あなたは、強いのね……。」


 私が自嘲気味に呟くと、ソフィーは一度だけ深く息を吐いた。重たい沈黙が流れる。逡巡の末、彼女は逃げることも、目を逸らすこともせず、視線を正面からぶつけてきた。


「ドレスを贈られたのも、職務中に何度もお茶に呼ばれるのも、孤児院に姉様を突然連れていらしたのも、全部、全部迷惑でした。」


 控えめな性格が抑圧してきた剥き出しの本音。

 私の善意が、いや、空回りし続けた独善が、彼女の平穏をどれほど乱したかを突きつけられる。


 ソフィーは言葉を区切ると、フォレストグリーンのドレスの裾を摘み、恭しく頭を下げた。


「あなたのお考えは、私のような身分の人間にはわかりかねます。ですが、今はアリエル様を信じたいと思っています。」


 彼女が何故そう思ってくれるようになったのか。思いを馳せること自体、彼女の信頼を冒涜してしまう気がして、押し黙る。


 だけど、私はこの時初めて、一人で息ができた。

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