44話:幽閉の時
イヴの淹れてくれたお茶を飲み干した喉で、私は告げた。
「今着ているドレスは、背中ではなくサイドに留め具があるデザインです。」
ルイスは、私に正面を向かせたまま隣に立ち、腰を屈めて脇腹を探り始めた。
端正な顔が、ホックの位置を確認するため、身体のすぐそばまで近づく。集中した息遣いと、熱を帯びた指先が、ドレスとコルセット越しに、這うように触れ続ける。
そして、1つ目のホックが弾ける乾いた音が響いた。瞬間、彼の指先が肋骨の上を撫で、脇腹の肌を掠めた。
「ひぅ……っ……。」
血管と神経が網目のように張り巡らされた敏感な部位への接触だったから。昨夜燃え尽きる寸前で、留めた疼きが、行き場を失ったまま燻り続けていたから。
言い訳なんて考える余裕もなく、導火線は爆ぜた。思考も矜持も真っ白に溶け、身体の奥に心臓が複製されたかのように激しく脈打つ。
膝の力が抜け、世界が傾く。
咄嗟に立ち上がったルイスに支えられる。彼は微かに目を見開き、その腕は戸惑いで硬直していた。
彼にとっても想定外だったのだろう。キャンバスの前に腰掛けて筆を取ったつもりが、既に乱雑な色使いで塗りつぶされていただなんて。
己に縋り付く切実さも、手袋の下に隠された床を掻きむしって傷ついた指先も、彼は知る由もない。
「アリエル……?大丈夫かい?」
低い声で、心配そうに”アリエル”と呼んでくれた。厚い胸板で力強く抱き留めてくれた。どんな些細なことも追い打ちとなって、私を抗いがたい安堵へと誘う。
(あぁ……私があんなに必死に探した答えを、この人は、こんなに簡単に……)
彼の手は、脇腹を掠っただけ。
悔しくて、情けなくて、それなのに。
自分の指では辿り着けなかった、高いところへあっけなく放り出されてしまった。
脳を麻痺させるような、甘くて重い痺れ。
認めざるを得ない。
彼の手が、彼に与えられる全てが、恐ろしいほどに気持ちいい。
私は彼の肩にしがみついて額を預け、荒れた息を繰り返した。
彼はそれ以上は何も言わず、収まることのない微細な身体の震えを愛おしむようにじっと観察していた。
辛うじて呼吸を整え、鼻から息を吸い込んだ時に気づく。彼の体温に暖められて、ホックが外れたドレスと肌の隙間から立ち昇る匂いに。それは、シトラスの香水でも彼の香水でもなくて——。
ふいに彼が鼻先を近づける。さらりと落ちた彼の髪が肌をくすぐり、甘い吐息が肌を灼いた。
淑女としての尊厳を奪われるような錯覚に、身の毛がよだつ。よりによって、そこを。自分でも意識したことのない、皮膚の奥にこもった私の匂い。
違う。これは、彼という強烈な熱源に煽られ、濃密に混ざり合い変質した女の匂いだ。
ルイスが深く息を吸うたびに、私の内側は空っぽに削り取られていく。空いた隙間に、彼の存在が脳の奥まで流し込まれる。
同時に、吸い出された『私』が彼の一部になっていく感覚に、悦びが背筋を駆け上がる。細い指先は力なく彼の肩を滑り、ただ狂気に翻弄されるしかなかった。
「ああ、神殿の祭壇で焚かれる香さえも僕のものだ。飢餓が信仰を執着に変えてしまう。」
あまりに大仰な言葉。鏡に映る自分は、顔を上気させ、あられもない姿で彼に縋り付いている。
限界を超えた羞恥が、正気を呼び醒ました。
空気が急速に冷めていく。
私は、全身の力を振り絞って、ルイスの胸を押し返した。
「不快です。やめてください。」
続けざまに、公爵令嬢として学んだ常識を、この浮世離れした王子に叩きつける。
「女性の脇に触れるなど、極めて失礼です。 そのような行為が許されるのは、愛し合う夫婦くらいのものでしょう。」
「僕たちの未来は決まっているんだ。問題ないだろう?」
「決まっていません。ソフィーに代わってください。」
腕の中で、ドレスのホックを留め直し、彼を睨みつける。涙で潤んだ瞳では、威嚇にもなっていないことは分かっていた。
それでも、ここで彼を受け入れたら、私は本当の意味でイヴを裏切ってしまう。彼女をマヤに任せたのは、貴族としての礼であって、ルイスに狼藉を働かせるためでは、断じてなかった”はず”だ。
「わかった。だが、あと数秒だけこのままでいてもいいかい?」
彼は瞼を閉じて、両腕に力を込めた。
一、二、三、四、五、六、七、八、九……
「離して……っ、ルイス様、もういいでしょう……!」
私を閉じ込める腕には、微かな弛みさえ生じない。
「まだだ。まだ、一秒も経っていない。」
彼の言う『数秒』が、実際にはどれほどの月日を指すのか。
窓の外を流れる雲が形を変え、私の痙攣が止み、倦怠感へと変わってもなお、彼は私を離さなかった。
十分。
社交界であればちょっとした話題が終わるほどの長い沈黙の間、私は壊れた時計の中に幽閉され続けていた。
彼は、指一本分ほどその腕を緩めた。
試されているのだ、と悟る。
膝は笑い、腰は抜けそうだ。けれど、ここで崩れ落ちれば、いつまで経っても抜け出せない。私は奥歯を噛み締め、背筋を真っ直ぐに伸ばし、自分の足で床を踏みしめた。
完全に独力で立っていることを確認すると、彼はようやく私を解放した。
彼は頑なに部屋を出て行ってくれない。
「そうだ。新しい髪型も僕の愛しいアリエルによく似合っているよ。」
「お褒めに預かり光栄にございますわ。」
令嬢としての仮面を張り付かせる。けれど彼は、私の強がりを楽しむかのように、至近距離からとうとうと語り始めた。
「以前の君の長い髪は、荒れ狂う海でも迷うことのない錨のようだった。今の整えられた毛先は……そう、まるで凪の中でも僕の風だけを受ける帆のようだ。入江では——」
「何を仰っているのかさっぱりわかりません!早くソフィーに代わってください!」
朗読を想起させる美声が鼓膜を揺らすと、抑え込んでいた熱が一気に噴き出した。耳から首筋まで赤く火災が広がる。
「前にも言ったはずだ。君のその表情も僕だけのものだと。」
抗う術を持たない私の腰を、彼は事もなげに掬い上げた。浮遊感に心臓が跳ねる間もなく、私はソファへと、彼の膝の上へと落とし込まれる。
逃げ場のない檻に、私の身体はぴたりと馴染んだ。




