41話:安堵の時
——現在。
港に停泊していた大型の客船は、海に浮かぶ壮麗な白亜の宮殿だった。
ルイスはやはり姿を見せず、私はイヴとマヤに付き添われて、最上階にある王族専用のスイートルームへと案内された。
船が港を離岸すると、窓の外には果てしない群青の海が広がる。
日中、客室に備え付けられたプライベートデッキで、心地よい海風を浴びて過ごした。潮風に混じって伝わる、イヴが祖国から持ち込んだ茶葉の爽やかな香りと、階下から聞こえてくる弦楽四重奏の調べ。差し出される色とりどりの小菓子も、イヴが選んでくれた軽やかなドレスも、すべてが調和した空間。
けれど、何かが決定的に欠けている。
「お姉様、もうすぐ夜会のお時間です。支度をいたしましょう。」
ドレッシングルームで、貴族としての正装に身を包む。
イヴが最後の一粒、喉元の真珠のボタンを留め、達成感を滲ませる。指先一つ触れさせない、視線一つ通さない。彼女の意志を反映したような、濃紺の生地は、私を守る強固な鎧だ。
ずっしりと肩にのしかかる生地の重み。首元まで詰まったレースと締め上げられたコルセットで、ほんの僅かに息苦しい。
けれど、肌を晒さないこのドレスこそが、却って内側の熱を閉じ込め、煮詰めていく。数日ぶりに彼に触れられるという卑しい渇望が、正装の下で、誰にも知られることなく真っ赤に焼けただれていた。
イヴが繊細な手つきで化粧に取り掛かる。それが終わり、顔をベールで覆う頃には、私の心臓は昂揚で慌ただしく叫んでいた。
スイートルームの中央にあるリビングに移り、時計を見つめた。かちかちと時計の秒針が忙しなく回り続ける。
早く、早く。
刻限を告げる鐘と同時に、ルイスはようやく現れた。
「すまない、待たせてしまったようだね。エルトマン令嬢。」
赤い髪に映える黒い燕尾服に、分厚い黒革の手袋まで嵌めた、準備万端で完璧な姿勢。寸前まで焦って身支度を整えていたようには到底思えなかった。
彼は私の少しだけ短くなった髪の毛先にも青いドレスにも触れず、静かに手を差し伸べた。
「では、行こうか。」
落ち着いた平坦な声に誘われて、船内ホールに向かった。華やかなワルツが響き渡る中、私はルイスのリードに身を委ねていた。
彼のステップは、機械よりも正確で無機質だ。腰に添えられた手袋は、指を食い込ませることも、肌を弄ることもない。ただ、ダンスの教本に描かれた図解のように、あるべき位置に、淡々と置かれているだけ。黄金の瞳は私を映してはおらず、周囲を探っている。
やがて曲が止んだ。腕の中で、息が上がったままの私を、彼は滑らかに解放した。
「ルイス様……」
もどかしくて彼の名前を呼んだ。その時、彼の肩越しに、ホールの壁際から祈るように見守っているイヴと目が合った。咄嗟に口を噤んだ私を尻目に、彼は耳元で囁いた。
「あいにく、僕は会談がある。君のエスコートは彼に頼んでおくが、あとは君の好きにしていい。」
彼は、私がどれほどイヴを大切に思っているかを知っている。だから、彼女の前では私を所有物としてではなく、誇り高き公爵令嬢として扱ってくれているのだろう。
ルイスは私を置き去りにして、見慣れないカーキ色の軍服の男の方へと歩いていく。
一つ二つ言葉を交わした後に、その男は私の元へと近づいてきた。
陽の光を浴びたような砂色の髪と、夜の闇でも輝く琥珀色の目。筋肉質な肢体に馴染む軍服からは、彼がルイスに匹敵する能力者であることが伺えた。年は……私たちとそう変わらないと思う。
「お噂はかねがね。……今宵、あなたの安全を守る誉れを授かりました。私の名は——」
軍人ながら非の打ち所のない流麗な所作でシルクの白手袋が差し出される。
かつての私なら、誘いに応じて稽古で磨き上げた優雅なステップを刻んでいた。社交界では曲ごとに違う相手と踊るのは当然のことだ。
彼の手に、自分の手を重ねようとした。
指先で触れた瞬間、本能が激しい拒絶反応を示した。内臓を生ぬるい指で掻き回されるような、耐え難い不快感がせり上がる。
数十日に渡って、食事を口に運ばれ、抱き上げられ、身なりまで定められ、全身の筋肉を執拗に解きほぐされてきた私の肉体は、なし崩し的に、特定の旋律に特化した楽器へと調律されていた。
彼の大きな掌、彼の重み、彼の匂い。
それ以外を受け入れる隙間など、今の私の肌という鍵盤には一寸も残されていない。
弾かれたように後退る。
「っ……ごめんなさい……!少し、船酔いが……」
ふらつく私と男の間に、イヴが割って入る。
「申し訳ございません。お嬢様は体調が優れないご様子。これにて失礼させていただきます。」
「ええ、どうぞお気になさらず。慣れない船旅でしょうから。」
イヴは慇懃に頭を下げてから、私の方に振り向いた。
「お嬢様、お部屋で休みましょう。」
彼女の肩を借りてスイートルームに戻り、ソファに体を沈める。浅くなった呼吸が収まるまで、トパーズの指輪を握りしめて吐き気を堪えた。
「よかった……。お姉様、顔色が良くなってきましたね。食事はとれそうでしょうか?」
時刻は既に夜遅く。今から夜会に舞い戻っても、盛り上がりに水を差してしまうだろう。
イヴと二人で、部屋で夕食を済ませた。砂糖をまぶしたデザートは味気なくて、ザラザラとした舌触りだけが残った。
晩餐を終え、イヴの手によって重厚なドレスから清廉な純白のネグリジェに着替えさせられる。鏡の前で丁寧に髪を梳かれる時間は、本来なら心安らぐはずのものだった。
「お休みなさい、お姉様。」
「ええ、お休みなさい。」
彼女の温かな手に見送られ、同じ寝室の隣り合うベッドに横たわる。規則正しいイヴの寝息が聞こえ始めても、私の意識はシーツの上で、熱を持ったまま彷徨っていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
微かな音がした。
それは風が波を叩く音か、あるいは、誰かが革の手袋を擦る音だったのかもしれない。導かれるように、私はベッドを抜け出しカーテンを開いた。
そこに、いた。
月光を背負い、手すりにもたれかかり海を眺める長身の影。燕尾服を脱ぎ捨て、白いシャツに灰色のベストを纏った、無防備な後ろ姿。
(ごめんなさい、イヴ……)
心の中で、眠り続ける無垢な少女に幾度も謝罪を繰り返しながら、裸足のままタイルの床を歩く。
寝室の扉を、音を立てないよう慎重に開いた。
彼に触れられたい。彼の手で、今度こそ壊してほしい。声にならない吐息を漏らし、私は通路を経由して、吸い寄せられるようにプライベートデッキに踏み出した。
視線を落とし、足元の影を踏み越えて顔を上げた。そこには、誰もいなかった。
無人のデッキは、荒れ狂う夜の海風が吹き抜けるばかり。つい先刻まで、確かに彼がいたはずの場所に縋り付く。手すりに残る微かな革の香りと体温の残滓は、蜃気楼のように霧散した。
「…………あ……」
広すぎる闇に投げ出された事実に、理性が音を立てて軋み始めた。
私はルイスの所有物などではなかった。私は彼だけの専有物だ。
ルイスを感じて、跳ねる心臓が、粟立つ肌が、疼く奥底が、甘美な痺れが、そして、最後に訪れる痙攣と倦怠感だけが、生を実感させてくれる。息をすることができる。
断頭台で死に瀕して以降、私を度々覆い尽くす抗いがたい安堵。その正体を、一つの寝台で同衾したあの日、知ってしまった。惨めな代償行為も。
けれど、ここに彼の手はない。
私は震える指先を、イヴが整えてくれた真っ白な寝衣の裾へと伸ばした。




