40話:【幕間】侍女の気づき
今回だけ視点変わります。
——2日前、夜。
一人の青年が扉を叩く。
「父上、”雷の国”での視察内容についてご相談が。」
彼と同じ黄金色の瞳をした壮年の男が、入室を許可する。
青年の声は低く、そして外科医のメスのように鋭かった。彼は長い指先で地図の一点を正確に指し示す。
「アルスレイア帝国との戦争終結以来、”雷の国”は信じられない速度で復興を進めている。だが、建築物資が不足していると聞く。我々が海運を整備し、新たな航路を確定させれば、またとない国益を得る機会になる。」
国王が青年の言葉を追認するように頷く。
「ああ。港湾設備の視察はお前が適任だろう。」
二人の間で交わされるのは、数多の民の生活と数十年先の国運を左右する政治の話題だ。
やがて詳細な打ち合わせを終え、辞去しようとする青年の背に、国王の声が投げられた。
「お前は昔から船が好きだったな。」
「父上もご冗談をおっしゃるのですね。僕の子供の頃などご存じないでしょうに。」
にわかに緊張が走る。
国王は目を伏せ、引き出しに手を掛けた。
「……迎えはまたカイ殿か?」
「はい。此度の日程も彼の”能力”ありきですから。」
「そうか。彼に会ったら渡しておいてくれ。」
テーブルの上に置かれた小包の中身を知るのは国王のみ。青年は眉間にできた僅かな皺を悟らせぬよう速さでそれをつかみ取り、部屋から立ち去った。
廊下を歩きながら、片手の指先に炎を灯す。その光に小包をかざした。しかし、厚い紙の防壁は彼の視線を冷たく撥ね退けた。
彼が執務室に着くと、扉の前ではイヴが待ち構えていた。
「こんな時間に何の用だろうか?」
少女は小柄な体躯を精一杯伸ばし、青年の顔を真っ直ぐに見上げる。その瞳には、剥き出しの敵意が宿っていた。
「殿下にご質問がございます。」
「マヤ。同席を頼む。」
青年は扉を開き、イヴを招き入れる。
部屋の片隅、影だけが存在していた闇には、いつの間にかマヤが佇んでいた。
「単刀直入に伺います。宮内で広がっている噂は真でしょうか?殿下がお嬢様を手籠めにされたと。」
不敬な問いに対して、青年は感情を削ぎ落とした声で返した。
「僕は嫌がる女性に触れる趣味は持ち合わせていない。」
答えながら暖炉に火を灯し、ソファに深く腰掛ける。
その言葉は”イヴにとって”、敬愛する主の身が清らかなままであることを示唆するものだった。——アリエルはルイスに指一本触れられていないのだと。
薪に含まれた微量の水分が弾け、乾いた音を立て始めた。炎の根元、黒く塗り替えられていく炭が、猜疑心を刺激した。言葉の裏に隠された真意を紐解くように、彼女は追及する。
「火のないところに煙は立たないものです。」
「……君が来るまで、最も安全な、常に僕の目が届く場所に置いていた。それだけのことだ。」
表情も声色も変えることなく応酬は続く。
「もし偽りであれば、私が国際裁判所に訴えます。」
「ああ、僕は構わないとも。だが、全てを白日の下に晒されて、困るのは誰か。君も分かっているだろう?」
イヴ自身も、今の厳しい状況を痛いほど理解している。どれほど信用ならない男であろうと、アリエルの命を繋いでいるのは彼だ。だからこそ、『安全』という尤もらしい大義名分を彼女は信じるしかなかった。
「格別のご配慮、感謝申し上げます。しかしながら、外交にまで罪人を同行させるのは異例のことかと存じますが?」
「昨日も話した通りだ。エルトマン公爵家の令嬢として相応しい待遇をと考えている。」
瞬間、イヴは固く唇を噛んだ。
(対外的に、アリエル・フォン・エルトマンなどと名乗れるはずがありません。お姉様はおそらく——。)
イヴの脳裏に浮かんだのは、レオン王子の隣で優雅に微笑む気高い姉の姿と、不名誉な噂話を前に昏い笑みを見せた女の姿だった。
暖炉の火が周辺を暖め、空気の流れを作り出す。イヴは、室内が白檀とローズマリーの香りで満たされていることに気づく。アリエルの首筋から仄かに漂っていた香りと結びつくのに、時間はかからなかった。
アリエルが隣国の王子の手によって、内と外の両側から変質していくことへの恐怖。背骨を冷たい蛇が這い上がるような悍ましさ。イヴはそれらに耐えて、実務的な確認へと話題を切り替えた。
「正装は二着しか用意がございません。ヴェルザードから追加で取り寄せてもよろしいでしょうか?」
青年は躊躇なく首を縦に振った。




