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断罪された悪役令嬢は、なぜか隣国の美しい王子様に支配され溺愛されます。【※ただし、冤罪ではない】  作者: 重井 愛理
一章

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4話:抵抗の時

 翌朝、私は脱獄への決意と共に目覚めた。


 世話役の使用人―マヤ―が、扉をノックした。


「おはようございます、アリエル様。朝食前の身支度を始めさせていただきます。」


 部屋は既に暖炉の火で穏やかな温もりに満ちていた。淡いオリーブ色のデイ・ドレスを私に着せ付け、髪を編む。

 彼女の洗練された動作に、逃亡の機会を見出す隙は、寸分たりとも存在しなかった。



 身支度を済ませてダイニングホールへと向かった。


 テーブルには昨日と同じく豪華な料理が並んでいた。座席の数も変わらず一つ。

 ルイスの赤い髪が、朝日を浴びて輝く。


「おはよう、アリエル。落ち着いた色のドレスも、君の深い知性によく似合っているよ。」


 彼は立ち上がると、私を抱き上げようと背中に手を回した。私は、身を翻してその抱擁を躱した。


「おはようございます、ルイス様。どうぞ構わずおかけになってください。」


 罰と言うならば受け入れてやる。だけど、これ以上主導権は握らせない。

 彼は、薄い笑みを浮かべると、椅子に座り直して手を広げた。


 そう。なんのことはない。”これ”はただ少し座り心地が悪いだけの椅子だ。

 私は椅子の上に優雅に腰掛けた。背もたれがしなやかに身体により沿う。やや厚手のドレスが、体温を遮断した。

 私は、椅子に向かって指示を出した。


「そこのポタージュのスープからいただきましょうか。」


 スプーンが目の前に差し出された。豊潤な生クリームの香りが漂い、どろどろとした温かい液体が内側から私の理性を溶かそうとする。

 少しずつスープを飲み進める。徐々に身体が火照り、じんわりと汗ばんでいく。

 その間もずっと”椅子”の視線は、私の顔と喉元を往復し続けていた。


 七割ほど飲み終えた頃、私は口元に手を当てて微笑んだ。


「大変美味でした。これ程のポタージュは祖国でも頂いたことがありません。」


 少し身体を冷ます時間が欲しい。

 その時、耳朶に熱い吐息がかかった。


「この組み合わせが絶品なんだ。」


 間髪入れずに、半月型のパンが差し出される。スープに浸され、濡れそぼったパン。

 危機を察知した本能が強く拒否していた。私は口を固く引き結んだ。



 しかし、私は失念していた。私が椅子から逃れようとしないならば、”彼”の右手は背中に回しておく必要がないことを。

 右手が、口元に添えていた私の手を音もなく攫った。決して強くはない力で、私の手は膝の上に固定された。右手は、私の手を一度撫でると、流れるように顔へと向かった。

 人差し指と親指で顎を摘み、優しく引き下げる。無防備になったその場所に、彼は左手でパンを押し込んだ。

 

 口の中で広がるパンとポタージュの甘い調和、それから厚いシルク越しに伝わる彼の体温に、私はまた安堵してしまいそうになった。

 でも、それも直ぐにかき消された。

 きっと、彼もわざとではなかったと思う。



 次の瞬間感じたのは、ほんの僅かな塩気と、パンともポタージュとも違う甘さだった。

 ルイスが指を引き抜く時、それが舌に触れてしまったのだった。

 舌の粘膜が、指の柔らかさとシワの深さ、温度を本能的に記憶した。


 その衝撃は脳天を直接、甘美な痺れとなって打ち抜いた。理性はもう露ほども残っていなかった。

 咀嚼を終える頃には、溶け込むように、彼に自らの身体を委ねてもたれかかっていた。

 呼吸の仕方がわからない。息が荒れておぼつかない。昼夜ダンスの稽古をした時とも比べものにならない、経験したことのない倦怠感に襲われる。身体の奥底では、微かな震えが嵐のように通り過ぎた後だった。


 どれほどの時間そうしていたのだろうか。ルイスは、私の息が落ち着くまで、何も言わずに背中をさすってくれた。手のひらの温もりと心臓の鼓動が、却って長私の心をかき乱した。




 それからは何を食べたか覚えていない。

 長い食事を終えたあと、彼は静かに口を開いた。


「すまない……。よく頑張ったね。食後の飲み物は君が選んでいい。」


「……それでは、コーヒーを。」


 私は、ルイスの胸に埋もれたまま小さく呟いた。

 給仕人が二人きりのホールに入室する。その間、彼はやはり椅子の向きを傾けて、給仕人の視線を遮っていた。



 彼は、カップに注がれた透き通ったコーヒーを流麗な動作で手元に引き寄せた。

 そして、傍らに置かれた銀の小さなピッチャーから、温かなミルクを数滴、重力に沿って滴らせた。

 銀のスプーンでカップの縁を軽く叩く。金属音の反響と共に、ミルクが水面に広がり、波紋を生む。

 それは、たちまち淡いカフェオレ色へと濁っていった。


 ありふれ光景。それさえも私の目には、私の意思や選択が、ルイスの色に染められていったように映った。

 けれど、その光景は同時に、新たな脱獄計画を脳裏に描かせた。



 私は、力を込めて背もたれから上体を起こした。支配の味を飲み干し、口元を手ずから拭う。そして、”椅子”から降りて、黄金の瞳を見下ろした。


「全て美味しく頂戴いたしました。ルイス様のお心遣いに深く感謝申し上げます。」


 彼は愉悦と諦念がないまぜになった、歪んだ微笑を湛えた。




 それからの1週間、ルイスと会ったのは食事の時間のみだった。私への”罰”はまだ続いている。

 一方で、『行商を襲った』という濡れ衣の取り調べが行われることはなかった。


 私は、マヤの監視の下、王宮内を自由に動き回ることを許された。ほとんどの時間を庭園か図書室で過ごし、脱獄計画に必要な情報を集めた。


 脱獄を成功させるには、食事以外でルイスと二人きりになる必要がある。彼は公務に忙殺されていたが、明日には時間が取れそうだと聴いていた。




 その日も、私は座り心地の悪い椅子で昼食を摂っていた。食事を終えて立とうとした私を、彼が抱きとめた。


「今夜、僕は北の辺境伯主催の社交界に参列する。アリエル。君にも一緒に来てもらう。」


 彼は有無を言わせぬ低く甘い声で言った。



 マヤの介助で、私は夜会服に着替えた。ドレスは、肌の露出を極力抑えたシックなデザインだった。深紅の生地が身体のラインに驚くほど完璧に沿い、布の下の起伏を詳らかにする。

 私のためにしつらえた物であることは明白だった。

 最後に真珠のネックレスをつけて、彼の前に送り出された。



 ルイスは、漆黒の正装に身を包んでいた。一際目を引く胸元のポケットチーフは、私のドレスと同じ色をしている。

 認めたくないが、赤い髪と同系色の挿し色は、確かに似合っていた。


 彼は私の姿を視界に収めると、感嘆の声を漏らした。高揚感で燦めいた黄金の瞳が真っ直ぐに私を射抜く。


「綺麗だ……。僕のアリエルは、世界で最も美しい……!」


「お褒めに預かり光栄にございます。」


 私は、顔に公爵令嬢としての微笑を貼り付けたまま、優雅に、しかし氷のように冷たいカーテシーの姿勢を取った。ドレスの裾が、音もなく、床のギリギリのところで弧を描く。

 彼は満足げに私の手を取り、馬車へと誘った。


「もし女神様が実在するなら、きっと君と同じ姿をしているんだろうね。」


 この男は、いつもくだらない言葉ばかり繰り返す。私はため息をついて、彼のエスコートを受けた。




 馬車に乗り込んだ彼は、私の隣に腰掛けた。

 普通は向かい側に座るものだろう。彼が書類を捲る度、肩が触れ合った。微かに響く衣擦れの音が煩い。

 彼は移動中も、書類の束を広げ猛烈な速度で目を通し続けていた。公務が忙しいというのは本当らしい。


 肩を窄めて、壁に体重を預けた。

 ゆるやかに揺れる馬車に反して、胸中は決して穏やかではなかった。

 辺境伯の領地は、ルイスの王宮から見て祖国と対極にある。それでも、もし私の罪を知っている人がいたら……。罪を清算せず生き延びている私の存在は、現在進行系で家名を毀損している。

 膝の上で行儀よく重ねた手に無意識に力が入る。


 その時、彼の右手が、固く握った拳を絡め取り解きほぐした。

 私の左手は、彼の膝の上へと連れ去られた。すべすべとした上質な生地と温かな手に挟まれる。


「辺境伯とその周辺には、君の祖国と関わりのある人はいない。安心して楽しめばいい。」


 按摩のように私の手を柔く揉み続ける。


「ですが、私は——」

 

 『レオン様の元婚約者』だ。私の名はともかく、公爵家の姓を知っている人がいてもおかしくはない。


 私の言葉は、書類の束が鋭く閉じる音で途絶えた。


「心配なら……。そうだな。君のことは、僕の婚約者として紹介しよう。そうすれば疑う者などいない。」


 彼の手が、私の左手の薬指を、未来を刻印するように愛おしげになぞる。ぞくりと脊髄に悪寒が走った。

 支配を払い除けて、私は向かい側に席を移した。上下に震える声帯を断ち切り、感情を押し殺した声で答える。


「結構です。城で捕らえている”名も無き罪人”とご紹介ください。」


「……冗談さ。アリエル・ツー・フロストベルク、そう名乗ると良い。僕の遠縁としてね。」


 それは、この国で最も高貴な血筋にのみ名乗ることを許された姓。第一王子ルイス・ツー・”フロストベルク”は、どんな気持ちでその名を提案したのだろう。

 困惑で停止した私をよそに、彼は鞄から新たな書類を取り出した。



 辺境を目指して馬車は駆ける。


 私は、向かい側に座ったことを後悔していた。

 肩が触れ合うことはない。しかし、その代償として、彼の端正な顔立ちが、否応なく視界を埋め尽くす。

 きれいに通った鼻筋から続く引き締まった頬のライン。伏せられた黄金の瞳は、長いまつ毛に縁取られている。窓から差し込む夕日が、彫りの深い骨格に陰影を落とした。


 

 ふと、ルイスが顔を上げた。視線が交差する。彼は少しだけ目を細めると、書類に視線を落とした。

 今、馬車の車輪が大きな石にでも乗り上げたようだ。その証拠に、私の心臓が激しく跳ねた。


 窓の外へと顔を逸らして、瞼を閉じた。それから、目的地に着くまで、頭の中で明日に控えた脱獄計画を反芻し続けた。

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