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39話:虚飾の時

 目前に迫る魔手。


 先程のような不意打ちは、きっと二度は通じない。私はただ抵抗の意志を込めて、子爵を睨みつけた。


 その瞬間、轟音が鳴り響いた。

 黒鉄の扉が、外からの猛烈な衝撃によって、悲鳴を上げるように蹴破られた。蝶番がひしゃげ、跳ね上がった扉が子爵の肩を強く打つ。


「あがっ!?」


 子爵が床に転がり悶絶する。

 砂埃と夕闇が混じり合う入口に立っていたのは、小さな救世主だった。



 イヴは、感情を一切排した冷徹な眼差しで室内を見渡した。ヘーゼル色の瞳は、肩を小刻みに震わせる私と、無様にのたうち回る男を、まるで壊れた家具でも検分するかのように交互に捉える。


「お嬢様。なぜ、このような場所に?」


 淡々とした、平時と変わらぬ声。イヴは一歩、また一歩と子爵に歩み寄る。


「……なるほど。急病人の看病をなさっていたのですね。」


「急病人……?そんな者どこに、」


 子爵が苦悶の声を絞り出す。しかし、イヴは最後まで言葉を吐かせることはなかった。


「いらっしゃるではありませんか。”ここ”に。」


 彼女の細い足が、男のみぞおちを無慈悲に蹴り上げた。低く骨が軋む音が私が肘で打った箇所と全く同じ位置への、人体にとってはあまりにも苛烈な追撃。


「かはっ。」


 子爵は空気を求めて口を僅かに動かし、そのまま白目を剥いて沈黙した。


「火急の事態です! どなたか、早く!!」


 耳障りなうめき声を掻き消すように、イヴは一転して、廊下中に広がる悲鳴を上げる。


 駆けつける使用人と、野次馬として集まる貴族たち。騒然とする中、泡を吹いて担ぎ上げられていく子爵を尻目に、私へと好奇と疑惑の視線が向けられる。


 毒々しい視線を遮り、イヴは私の前に立ちはだかった。


「お優しいのはお嬢様の美点にございますが、衆目の”誤解”を招く行動は慎んでくださいますようお願いいたします。」


 深く頭を下げる彼女の言葉は、集まった人々に真実を植え付けた。

 私は、密会を楽しんでいたふしだらな王子の婚約者ではなく、病に倒れた哀れな子爵を助けようとした、慈愛に満ちた公爵令嬢へと書き換えられたのだ。


「ええ。これからは気をつけるわ。」


 薄闇の監獄から、彼女の手によって光の中へと引き戻された。

 イヴの手配した馬車に乗り込み、扉が閉まるのと同時に、安堵から膝の力が抜け座席に崩れ落ちる。隣で静かに寄り添う彼女に問いかけた。


「どうして私の居場所がわかったの?」


「シトラスの……お姉様の香りが導いてくれました。」


 彼女の手の温もりと馬車の緩やかな揺れに包まれる。私を脅かすものはもう何もなかった。



 あれから程なくして、”転んで机の角に胸をぶつけた”子爵とアデリナ夫人は領地と財産の全てを召し上げられたと聞く。おそらく父が手を回したのだろう。




 ——現在。

 朝食を済ませ、食器の触れ合う乾いた音が止む。


 イヴは手際よくドレッサーの前に椅子を引き、周囲に予備のシーツを広げた。純白の布が床を覆い、美容室が整えられる。


「お姉様、失礼します。」


 肩を大きな白い布で包み込まれ、首元をきゅっと絞るように固定される。緩やかな拘束感さえ、今の私には心地よかった。

 イヴが銀色の櫛を手に取り、私の髪を掬い上げる。王宮での生活で伸びた糸は、鏡の中で重たくうねっていた。櫛が通るたび、ルイスの指先が絶えず絡みついているような、熱を帯びた支配の残像が肌を走る。



 ジョキン、ジョキン。


 彼女が革製の容器から取り出した、使い込まれた裁ち鋏。空気を噛み切る小気味よい音と共に、足元のシーツの上へ、死んだ時間のように髪の先がはらはらと落ちていく。


「ふう。これでさっぱりしました。」


「ありがとう、イヴ。やっぱり、あなたにしか任せられないわ」


 寸分の乱れなく整えられた毛先を指で確かめる。

 イヴは鋏を仕舞うと、慎重にシーツを四隅から丸め込んだ。切り離された重みは、祖国を離れ、籠の中で積み上げられた恥辱にも思えた。


 彼女は逡巡の末、語り始めた。


「今、祖国ではレオン殿下が、お姉様の汚名を晴らすため尽力なさっています。まだ冤罪を証明する決定打は見つかっていないけれど……きっと、もう少しの辛抱です。」


 鏡の中のイヴの瞳は、私が清廉潔白であると信じて疑っていない。


 行商襲撃事件の首謀者という濡れ衣については、その通りかもしれない。けれど、たとえそれが晴れたところで、私に帰る場所などどこにもない。

 祖国での判決は正しい。

 国家予算の横領に手を染め、聖職者である司教に短剣を向けた。私という人間が、自らの意思で行った純然たる事実なのだから。


「それまで、私がずっと傍にいます。何度だって、髪を整えます。」


 喉の奥が焼け付くのを感じる。

 嘘で編み上げた偽りの安らぎを。


「ありがとう、イヴ」




 ——夕暮れ。

 ルイスは着替え中も食事中も姿を現すことはなかった。そして、今、私は自分の足で庭園を歩いている。

 日中は王宮内の温室『トロピカリア』で、鮮やかな花々の香りと、イヴの眩しい笑顔を浴びて過ごしたはずだった。だというのに、庭園の影は、暮れなずむ空の色を吸って濃くなるばかりだ。


 その時、生い茂る生垣の向こうから、さざめくような嘲笑が鼓膜を打った。


「あら?お一人でいらっしゃるなんて珍しい。」

「そうね。殿下のご寵愛をあれほど一身に受けてらしたのに。」

「前は公務にまで連れ回されていたわよね?」

「弄ばれ飽きられて捨てられたのよ。」

「あらまあ、お可哀想に。」


 彼女らの声は、蜜に浸した針の如く湿って鋭い。


 祖国にいた頃から陰口に晒されてきた。レオンが公務で会えない時期が少し続いただけで、よく不仲を噂されたものだ。

 かつての私は、レオンから貰った言葉を必死に手繰り寄せて耐えてきた。


 私は薄情だ。


 もう記憶の断片さえうまく掴めない。どんな顔で笑い、どうやって励ましてくれたのか。大切な思い出は霞み、輪郭を失った。首筋に肉薄した、絶望を象る白刃だけがこびりついている。

 勿論、罪を犯した私への出来うる限りの優しさを、恨んでいるわけではない。



 だけど。私の脳を占拠しているのは、ルイスの腕に抱かれて眠る抗いがたい安堵と、彼に押し付けられた言葉の数々。


『大丈夫、僕が君のそばにいる。』


 指先で胸元に触れる。ドレスの下で鎮座するトパーズの輝きが褪せることはない。

 私を縛り上げる純金の鎖は、他者の侮辱を優越感に書き換える触媒となった。


 捨てられた? 飽きられた?

 思わず、自嘲めいた笑みが唇から零れた。彼女らが、ルイスの本性を、常軌を逸した偏愛と執着を理解することなど生涯ないのだろう。



「お嬢様。お部屋に戻りましょう。」


 淫靡な思索に耽る私の意識は、半歩後ろからの声で叩き起こされた。



 イヴに引っ張られて部屋に入る。

 扉を閉めた彼女の腕、いや、全身は怒りでわなわなと震え、毛が逆立つ勢いだ。


「お姉様……!まさか……?あの男、立場を利用してなんと卑劣な!!」


「違うの、イヴ。ルイス様は——」


 言葉が続かない。

 私は彼に何をされたのだったか。


 断頭台で白刃から救われた。おかげで使命を諦めずにいられた。イヴとまた会えた。

 一方で、彼は私の自由と尊厳を奪い、愛の名の下に捕らえている。女中の噂話を聴いて反射的に握りしめた指輪。そこに感じる温度も、私が抱いているこの感情だって、掌の上なのかもしれない。


 身体の奥底に刻みこまれた罰が、寝台で握りしめた彼の腕の感触が、肌を灼く。硬直した肉は微動だにしない。



 踏み荒らされてしおれた花を支えるように、彼女は静かに私の背中に両手を回した。




 それからの2日間も、ルイスの姿を見かけることはなかった。


「殿下は公務で赴いた教会より、直接港へと向かいます。私たちもこれより港へ向かいます。」


 マヤの監視の元、馬車に乗り込む。

 目的地は、覇権国家たる”雷の国”。待ち受ける残酷な運命を私はまだ知る由もなかった。

次回、ルイス登場です!


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