38話:祝福の時
私たちは部屋に戻らず直接浴室へと向かった。
初めての飲酒でも、千を超えて繰り返してきたイヴの手つきは狂うことがない。イヴは私のドレスを脱がせコルセットを緩めていく。彼女の目線が露わになっていく白い肌をつぶさに捉える。
王宮での生活で身体に異変——例えば拷問や尋問の跡——がないことを確認すると、彼女は下を向いて安堵のため息を漏らした。
その隙をついて、トパーズの指輪を着替えの中にねじ込む。イヴには、情けない私をどうしても知られたくなかった。
湯気が満ちる浴室で、イヴは私の後ろに回り、そっと髪を梳き始めた。シャンプーがきめ細かく泡立ち、石鹸の香りが湯気に溶けていく。
濡れた頭皮に、イヴの指先が触れた瞬間、私は思わず目を閉じた。
久しぶりに感じる、優しくて、慣れ親しんだ感触。ルイスに触れられる時のような甘美な熱や、支配の緊張は、欠片もない。ただ、幼い頃から共に過ごした妹の温もりだけがそこにあった。
流れ落ちるお湯の音と泡立つ水音だけが響く静寂の中、私は無意識に後ろへ手を伸ばした。宙を彷徨う手が、滑らかな頬に触れる。彼女は何も言わず、私の指先に向けて顔を傾けてくれていた。
「お姉様の髪、本当に綺麗。でも少し伸びすぎたよう。明日私が整えますね。」
私は、目を開けることなく、ただ全身で安息を受け入れながら答えた。
「そうね。お願いしようかしら。」
入浴を済ませて部屋に戻ると、白い布に覆われたイーゼルが中央に鎮座していた。
見ずとも分かる。この下にあるのは、私が昨日完成させた鳥の画だ。
ルイスはどこまでも私に優しい。彼の権威と美貌があれば罪人にこだわる必要なんてないはずなのに。
私はこみ上げてくるものを抑えて、イヴをイーゼルの前へ誘導し、布に手をかけた。
「約束、覚えてるかしら?あなたを思って描いたの。」
『罪人からの贈り物なんて迷惑よね。』と続くはずだった言葉を彼の愛が封じた。
「勿論です。ありがとうございます……お姉様。」
イヴの震える声を聞いて、私は布を引き剥がした。
私たちの関係は元より期限付きだ。イヴは可愛い。いつか貴族や有力な商人に見初められ、公爵家を離れていく。成人を迎えた彼女は、私も知らない広い世界へと旅立っていくのだろう。
それでも、私たちの繋がりが永遠であってほしいと、そう願いを込めて描いた。
「イヴ、誕生日おめでとう。」
私はキャンバスからイヴへと視線を移し、立ち尽くす彼女を背後から抱きしめた。
その夜、私たちは一つしかないベッドに潜り込んだ。
内緒話をする姉妹のように肩を寄せ合い、失われた日々を埋め合わせるように幾度となく互いの名前を呼ぶ。再会の喜びは、朝方になるまで続いた。
——翌朝10時頃。
ドレッサーの前に座った私の身だしなみを、イヴが整えていた。
「あれ……?シトラスの香水はどうされたのですか?」
彼女がルイスによる支配の痕跡を手に取り、首を傾げる。
「え、えっと。瓶を落としてしまって。ルイス様に代わりを手配してもらったの。」
取り繕う私をよそに、イヴは背丈ほどもあるバッグから小さな瓶を取り出した。祖国を感じる柑橘系の香りがふわりと広がる。
「念の為、持ってきて正解でした。お姉様にはこれが似合います。」
全身を蝕んだ甘い毒が浄化されていく。
同時に、脳裏にかつての出来事が甦った。
——3年前、ヴェルザードのある邸宅。
私がレオン王子の婚約者として正式に公表されて間もない頃。春の光が差し込む一室で、私はイヴと共に、有力貴族であるアデリナ夫人の邸宅で開かれた午後の茶会に参加していた。
当時流行っていた甘ったるい香水の匂いが空間に満ちていたことを、よく覚えている。
茶会の喧騒から離れた場所で、イヴは囁いた。
「先ほど殿下の護衛の方から伝言が。予定より早く王宮にお戻りになられるとのことです。馬車の手配を急ぎ行ってまいります。」
公務から戻った王子を迎えるのは、未来の王妃としての務めだ。王宮の有力者たちに仲睦まじい様子を見せる必要もある。
「ええ、よろしく。」
彼女は一礼すると、素早く人混みの中に姿を消した。
私が独りになる瞬間を虎視眈々と狙っていた者がいた。主催者であるアデリナ夫人が、私に近づいて来た。
「実は、アリエル様にご覧いただきたいものがございまして——」
夫人は微笑み、私が過去に興味を示したことのある家宝の絵画『蒼の夜想曲』に言及した。
「ああ、あの有名な……」
「ええ。ですが、残念ながらこの賑やかな広間では鑑賞にふさわしくありませんわ。どうぞ、こちらへ。」
夫人は私を促し、邸宅の奥、使用人の姿もない薄暗い廊下へと案内した。廊下の突き当り、黒鉄の扉の向こう側がその鑑賞室らしい。
扉が開かれ、夕暮れの光に照らされた人影が視界に映った。
「おや、本当にいらっしゃったのですね。」
そこで待っていたのは彼女の息子である子爵だった。
アデリナ夫人は、私を部屋に押し込むように背中を押し、蝶番の音に負けない声で言った。
「では、あとはお若いお二人でごゆっくり。私は少し席を外しますわね。」
”嵌められた”と気づいた時には既に遅かった。
密室で異性と二人きりになれば、いかなる醜聞を捏造されるか分からない。それは、レオンとの婚約、そして私自身の公的な立場を根底から失墜させる行為だ。
「子爵。申し訳ありませんが、私には時間がございません。」
しかし、扉のノブを捻っても、虚しい音が響くだけ。外から施錠されているのか、びくともしなかった。
額に汗を浮かべる私に対し、不躾で粘着質な視線が向けられる。
「あぁ……レディが怯える姿はかくも心躍る……。僕と朝まで愉しみましょう。大丈夫、優しくして差し上げますとも。」
にじり寄る彼と扉に挟まれる。
薄汚れた手が私の頬に触れようとしたその時、私は姿勢をぐっと低くした。
子爵の手が空を切る。次の瞬間、私は体重を乗せた肘を、子爵のみぞおちに迷いなく叩き込んだ。
「ぐうっ……!」
彼は予期せぬ衝撃に息を呑み、その場に崩れ落ちた。
「生意気ですね……。護身術など、どこで……」
息も絶え絶えに這いつくばる男の首筋に、レオンから預かっていた短剣を突きつける。
「公爵令嬢としての嗜みですわ。”これ”は正当防衛ということでよろしくて?」
「ゆ、許してくれ!!僕はただ母上に命令されてっ!エルトマン公爵家を失脚させるためだと。」
脅しに屈した無様な命乞い。その姿に胸がすく思いだけれど、事態が好転したわけではない。早く密室から脱出しなければ、アデリナ夫人の策略が成功してしまう。
私は、固く閉ざされた扉へと意識を向けた。
「油断しましたね……!!」
子爵が胸を手で押さえたまま立ち上がり、再び私に襲いかかる。
年末はいっぱい更新する予定です!




