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35話:疼

 遅めの昼食の後、私はルイスの執務室でキャンバスに向かっていた。筆を置いて、小さく伸びをする。

 ギリギリになってしまったけれど、なんとか期限までに完成させることができた。


 彼も公務が一段落したようだ。ペンを置くと凝り固まった首筋を軽く叩きながら、私の隣に腰掛けた。そして、肩を寄せてキャンバスを覗き込んだ。


 深い森の木立が背景に描かれた窓辺。光を受けて輝く一本の細い金色の刺繍糸が、窓枠から部屋の中へと垂れ下がっている。糸の上方、空高く羽ばたいているのは——。


「鳥の絵か。この数日熱心に描いていたね。」


「明日はイヴの……私の侍女の誕生日なのです。絵を贈ると約束していました。」


 ぼそりと呟いた。後悔を誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

 彼が立ち上がり使用人を呼ぶベルを鳴らそうとする。


「なぜもっと早く言わない?直ぐに早馬を手配させよう。」


「いえ。これはただの自己満足です。イヴも今の私から贈られても——」


 私の言葉はそれ以上続かなかった。彼は私の唇を人差し指で塞いで告げた。


「折角の作品だ。僕が貰い受けよう。」


 ふと疑問が浮かぶ。

 彼にとって”罰”はどんな意味をもっているのだろう。彼は今、私の自虐を口実に新たな罰を与えるのではなく、先回りして言葉を遮った。


 じっと黄金の瞳を見つめて、真意を探ろうとする。けれど、彼の微笑みからは何も読み取れない。

 ルイスは私の頭を撫でると、いつかのように書類の束をデスクからソファの前のテーブルに移した。


 それから夕食の時間まで、私たちは隣り合って過ごした。

 全く同じ香りがする色とりどりの料理を食べた後、浴室へと向かった。ローズマリーと白檀の香水が刻まれた肌を石鹸で洗い流す。しかし、身体を清めても、肌の奥に染み付いた彼の匂いと印は消えることはなかった。



 私室に運ばれ、うつ伏せにしてベッドに下ろされる。太ももに感じる温かな重み。


「昨夜からリゼを探して疲れておいででしょう?ルイス様も早くお休みになってください。」


「良くない”癖”が染み付いてしまったようだ。決めた。今宵は君の全てを解き放とう。」


 私はまた彼の激情を刺激してしまったらしい。

 彼は私を組み敷いたまま指圧を始めた。肩から背中、背中から腰へと。筋肉が入念に解されていく。体内に淀んでいた重たい疲労が、彼の手に吸い取られていくのを感じる。


 腰まで辿り着いた手は、つま先へと渡る。いつもなら、足首とふくらはぎを解したところで、ルイスは満足げに手を引くはずだった。

 既に私の身体は抗いがたい安堵に覆われている。

 けれど、今夜、奥底を焦がすような苛烈な指先は、太ももの外側をゆっくりと這い上がってきた。


「ん……ぁっ。」


 彼の指は、大腿部の大きな筋肉を、骨から剥がすように深く捉える。強く、しかし優しく揉み解されるたびに、滞っていた血流が加速し内側から熱を帯びていく。足元のシーツは乱れ、シワだらけだ。


「君自身の口から訂正してご覧。昨夜、僕が探していたのは誰だ?」


 微かな怒気を孕んだ声が鼓膜を揺らした。


 あの時の彼は、吐く息は白く、ズボンの裾と革靴は泥で汚れていた。そうまでして必死に探したのは死刑を待つ罪人などではないはずだ。

 私はか細い声を絞り出した。


「リゼ……っ」


 ルイスの手が一瞬、太ももの肉を押し込んだまま停止した。密着が緊張を生み、静寂が流れる。それは、彼が地図を広げ世界を踏破すると決断するのにかかった時間だった。


 さらに、太ももの内側へと回り込み、臀部へと続くたおやかなラインを幾度となく撫で上げる。親指の腹が、シルクの生地の上からでもわかるほどしっとりとした肌を蹂躙し、微細な電流が走る。

 鼻腔にこびりついたパルファムの香りと、背中に感じる息遣いが断続的な電流の隙間を埋め、撚り合わせていく。


 狂愛が、否応なく私に昨夜の真実を理解させた。


「……と…………わ、わたし……。」


「わかればいい。では、君は誰のものだ?」


 彼が頷くと同時に、その指先はついに足の付け根、鼠径部に触れた。

 瞬間、熟れた赤い果実が潰れて果肉が飛び出すような、魂だけが抜け出してしまうような恐怖に襲われた。


「ルイス様っ、も、もう結構にございます……!!」


 私の切羽詰まった声に、彼は無理をせずに手を離してくれた。


「君の反省に免じて、ここまでにしておこう。」



 彼はうつ伏せのまま力の抜けた私を抱き起こし、腕と手のひらの按摩を始めた。一転して穏やかな手つきだ。


「さて。君が少女の命を救ったのは紛れもない事実だ。褒美与えなくてはならないね。」


 彼の言葉は、私の価値を十全に保証していた。そして、耳元で誘惑を続けた。


「人は極限の状況下にあって初めて、真に望みを理解するものだ。君は……何を求めた?」


 その問いに答えることができなかった。

 以前の私は、馬に乗って風を浴びる「自由」を望んだ。


 だが、今は違う。


 森の中で死を覚悟した時、私の心が最後に求めたのは、切り裂くような冷たい風ではなく、暖炉の炎のような温かい腕だった。


 私の身体の重心が、ほんの数センチだけ傾いた。


 ルイスは、その沈黙の告白を、嗤うことも疑うこともなく受け止めた。彼の両腕に全身が包み込まれる。


「伝わっているよ、アリエル。君の身体は言葉よりもずっと正直だ。」


 私たちは、重力に沿ってベッドの上に倒れ込んだ。体勢は崩れ、彼の胸の上に私がのしかかるような、深く絡み合った姿勢になった。


 シャツと肌を通して伝わる熱は、極寒の森で渇望した願いそのものだった。息を吸えば肺の中には、石鹸と混ざった仄かな彼自身の匂いが広がる。

 彼はただ、私の背中を大きな掌で覆い、繰り返し、慈しみを込めて撫で続けた。私の首筋に顔を埋めて息を吐き出す。それは、彼自身もまた、この一連の緊張から解放されたかのような長いため息だった。


 ベッドに入ってから、無限にも刹那にも思える時間が過ぎた。気づけばマッサージで火照った私の皮膚は、彼の体温と同じ温度になっていた。

 不意に衣擦れの音が響く。彼は体勢を変えることなく、シーツの端から分厚い羽毛布団を引き上げた。


「おやすみ、僕の愛しいアリエル。」



 二人だけの安息の地。

 全てが満たされたはずだった。


 彼は寝息を立てて眠っている。

 だけど、私の中では、奥底に植え付けられた熱の余韻が収まらない。

 布団の下で体をもぞもぞと動かし、彼の胸に耳を当てた。心臓の音に意識を集中させる。規則正しく、平時よりも遅い鼓動。この生命の根源を聞くこと自体が、私が生きている最も確かな証拠だった。


 次に、自分の手で耳朶に触れた。私の手は彼のそれとは違う。摘み揉みなぞっても痺れも浮遊感も訪れない。


 穏やかな寝息が恨めしくて、目元を睨みつける。そこにあるのは長いまつ毛と整然と生え揃った眉だけ。黄金の瞳は瞼に隠されている。

 彼はいつも私が見つめるとすぐに気づき微笑み返してくれる。なのに、今は見てくれない。触れてくれない。


 下腹部の傷跡がじんじんとする。余韻は収まるどころか胸と頭を侵していく。

 朦朧としたまま、私は純粋な本能に突き動かされた。

 私の左手が、彼の右手を捕らえた。昼に私の耳を嬲り、意識を白く散らした支配者の手。それをネグリジェの上から、最も切実に疼く胸の先に、そっと押し当てた。


「……う」


 圧力と熱は、疼きを抑える鎮静剤になるどころか、私を壊してしまった。

 身体の震えと呼吸の乱れが、激しい波となって私を襲う。喉の奥で、短い声が引き攣れて漏れる。遠のく意識を繋ぎ止めるように、私の指はルイスの腕を、爪が突き立つほどの力で握りしめていた。


 その時、彼の眉が微かに歪んだ。


 呼吸が凍りつき、心臓が破裂しそうに脈打つ。血液は氷点下を突き破り、背中に冷たい汗が一筋流れるのを感じた。急速に冴えた頭で、自分のしでかした卑劣な行為を理解した。

 夜通し森を駆け公務に忙殺されながらも、私の身体を按摩で癒してくれた。いかに超然とした態度を維持していても彼だって人間だ。疲れ果てて眠ることもあるだろう。

 無防備な手を私は勝手に使ったのだ。


 おそるおそる彼の顔を見上げる。口の中が乾く恐慌。重すぎる数秒。瞼の下で眼球が動いたかに見えた。しかし、彼は安らかな寝息を立て続けた。


 胸をなで下ろすと同時に、倦怠感が全身に広がる。握りしめたままの鍛え抜かれた腕。くしゃくしゃになった堅いジャケットの生地。私は彼の腕を離す代わりに、手のひらに自分の手を重ねた。

 意識はそこで途絶えた。

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