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断罪された悪役令嬢は、なぜか隣国の美しい王子様に支配され溺愛されます。【※ただし、冤罪ではない】  作者: 重井 愛理
三章

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34話:薫香の時

 事態が落ち着いた頃には、既に日が昇り始めていた。

 ルイスの公務のスケジュールは寸分違わず組まれている。私は、慌ただしく土にまみれた身体を清めて、再びドレスに身を包んだ。肌に触れる生地が、疲弊しきった皮膚を嫌に刺激した。


 ソフィーと院長に見送られて、馬車に乗った。その先の記憶はない。次に気づいたときには、王宮のベッドの上だった。

 程なくしてルイスが現れた。


「おはよう、アリエル。先に昼食を済ませるか、罰を受けるか、君に選ばせてあげよう。」


 明け方に孤児院で食べたパンとスープのおかげで、空腹感はまだない。そもそも、今はそれどころではない。

 私は身体を起こし、毅然とした態度で反論した。


「私は確かに罪人ですが、此度は罰を受ける謂れはございません。」


「いいや。君は重罪を犯した。」


 部屋の片隅にあるドレッサーの上から、彼は小さなガラス瓶を取り上げた。中身は、故郷の花を原料とした柑橘系の香水だ。


「この瓶は大切な物かい?」


 訳がわからない。私は眉をひそめて答えた。


「いえ。特別なものではありませんが……。」


 彼の紅く血色の良い唇が薄い円弧を描く。


「マヤ。処分を頼む。」


 合図を受けてマヤが入室する。彼女は、瓶を恭しく受け取ると直ぐに立ち去った。


 ガチャンと分厚い扉が枠に噛み合う重々しい音と共に、足音が遠ざかる。それは、私と外界を遮断する、絶対的な壁の完成を意味していた。室内に残ったのは、暖炉の火が木を燃やす微かな音と、ルイスの纏う香水の香りだけだった。


 私の目は無意識に彼の動きを追った。彼はゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。私の隣に腰掛けると、何の前触れもなく肩に腕を回し引き寄せた。


 彼の体温が急激に迫り、身体が硬直する。私は息を止め、懸命に平静を装おうとしたが、震えが首筋から顎へと伝うのを抑えられなかった。

 彼はその震えを無視し、私の首筋の生え際に顔を埋めてきた。


「ん……」


 喉から意図しない小さな音が漏れた。彼の鼻先が直接肌に押し当てられ、呼吸の度に熱い息が皮膚を撫でる。私の両腕には鳥肌が立ち、ドレスの生地がより薄く、頼りなく感じられた。

 そして、ルイスは、花弁の甘い匂いを堪能するように時間をかけて息を吸い込んだ。まるで、高価なドレスではなく、その奥にある私自身の存在を強引に抜き出そうとしているようだった。


「あぁ。どんな香水よりも芳しく、魅惑的だ。」


 羞恥で顔が熱くなるのを感じた。

 彼は、恍惚とした瞳に非難の色を滲ませて続けた。


「君は、僕の清純なアリエルを侮辱したんだ。今後は服だけでなく匂いも僕が管理する。これが四つ目の罰だ。」


 瞬間、私は昨夜の言葉を想起した。


 ——その。ルイス様?臭ったらごめんなさい。


 疲労のあまり失念していた。私には自虐を口にする自由さえないのだということを。



 彼は強張ったままの私の肩と頭を捕らえ、自身の胸元に招き入れた。


「僕の匂いは嫌いかい?」


 口呼吸に切り替えるより早く、ローズマリーと白檀の香りが私の肺に充満した。たったそれだけのことで全身から力が抜け、支えを求めるように彼の背中にしがみついてしまった。


「……腰回り”だけ”は、やめていただけますか?」


「いい子だ。では、始めよう。」


 彼は満足気に頷くと、私の隣から背後に回り込んだ。両腕で私を抱え込むようにして座り直す。屈強な胸板が背中に密着し、太ももが彼のそれに挟まれ、逃げ場が断たれる。私の心臓は、重く、速く鼓動していた。



 ルイスは、ジャケットのポケットから青いコンパクトなガラス瓶を取り出し栓を緩めた。栓が引き抜かれる微かな音が、静寂の中で儀式の開始を告げる。

 瓶の中の液体は、透き通った樹液のような、粘性の高いパルファムだった。その黄褐色の雫が、瓶の縁でねっとりと光沢を放っている。白檀を基調にローズマリーの鋭く冷たい清潔感が混ざり、部屋の空気に溶け出す。


 彼はまず、栓から自身の右の指先にごく僅かに香油を移した。濡れた爪は、暖炉の光を吸い込む、磨き上げられたモルガナイトだった。


 左手で私の髪を無造作に掻き上げ、首筋の肌を露出させる。そして、香油をつけた指を私の首筋に、まるで所有の刻印を押すように、丁寧にタッピングを施す。決して肌を擦らない繊細な手つきだ。

 冷たいオイルが一瞬皮膚に衝撃を与えた後、彼の体温による追い打ちが香りを深く皮膚の奥へと押し込む。


「次は手首だ。何をしていても僕を間近に感じられるように。」


 彼はそこで左手の指先にパルファムを付け、私の左手を取った。後ろから手探りで脈打つ血管を見つけ出すと、手首の内側を上に向けて固定した。

 とんとんと規則的に肌が触れ合う音と、息遣いだけが響く。私の血液が支配の刻印を全身に運ぼうと、脈動が更に速まるのがわかった。体温が上がるにつれて香りが強まっていく。


 しばらくして、両手首へのタッピングが終わると私の手は解放された。感触を確かめるようにワルツの振り付けの要領で腕を胸の前にかざす。周囲の空気が揺れ、私の顔までルイスの匂いを送り届けた。それはきっと、直ぐ後ろにある彼の高く形の良い鼻にも届いたのだろう。


「フレグランスと君の所作の素晴らしい共演だ。だが、まだ足りない。」



 パルファムの残り香だけを伴って、彼は両手をドレスの襟元へと滑り込ませた。不意の侵略に、私の身体が激しく跳ねる。


「ひゃっ……!」


 身体をよじり潤んだ瞳で彼を睨んだ。しかし、彼は私の抵抗を強靭な太ももで封じ込めると、唇を耳元に寄せて囁いた。


「腰以外ならいいのだろう?」


 侵入者は隙間を押し広げ、鎖骨のくぼみを辿った。肌に触れるたびに軽く押さえつけ、秘密の領域を求めて這い回る。薄い生地の下で、私の皮膚は彼の指の動きに張り付くように従った。

 俯いて視線を下げると、ドレスの肩の部分が膨らみ乱れなびくのが視界に入った。しどけない姿への実感が、顔から鎖骨までを朱く染め上げた。


 やがて最も熱く香り付けに適したところで、彼の両手はぴたりと停止した。手のひらを曲線に沿わせたまま、鼻先を私の肩に当てる。

 彼は静かに息を吐いて、吸う。湯気の漂う浴槽に贅沢に浸かっているかのように、穏やかに時間をかけて何度も何度も繰り返す。


 指先にはほんの少しのオイルが残っているだけだ。けれど、触れ合った肌がぐっしょりと濡れている。汗か錯覚か私にはもうわからない。

 彼の体温と匂いが染み渡った頃には、私は彼に体重を預けてしなだれかかっていた。



「仕上げだ。」


 ルイスは、親指の先にパルファムを付け足した。その指で耳介をそっと折り曲げ耳の裏側を撫で始めた。同時に親指の根元と中指で耳たぶを摘み、柔くこねる。

 粘土や玩具だと勘違いでもしているのだろうか。さっさと終わらせてほしい。でなければ、私は”また”——。


「甘い……。僕だけが知る、僕だけの……。」


 熱を帯びた風が耳たぶを掠めた。吐息と粘質な液体で覆われた指が、私の全身の感覚神経を、一本の線で繋ぎ合わせていく。


「る、ルイス様、もう……っ!」


 泣きそうな声で彼の名を呼んだその時。中指の爪が、耳の一番敏感な場所を僅かにえぐるように突き立てられた。


 感じたのは痛みではなかった。

 内側から電撃が奔り、私の背骨を硬い光が駆け巡った。喉の奥は硬く収縮し、空気の出口を塞ぐ。私の身体は一瞬浮き上がり、芯の力が奪われた。筋肉が痙攣し、彼の服を握りしめた指に力が籠もる。


 意識は境界線を越え、肉体の根源からあらゆる制御を喪失している。視界は白く燃え上がり、嗅覚は麻痺していた。感じるのは、白檀とローズマリー、それから彼自身の匂いだけ。抱擁の中で、私はルイスの色に塗り替えられたのだ。


 いつの間にか彼の両手は耳から離れ、私を強く抱きしめていた。


「君は香りさえも完璧だ。卑下するのはもうやめてくれるね……?」


 その言葉で、モヤのかかった思考が一気に晴れた。


 違う。


 私だけではリゼを守れなかった。彼女にかけるべき言葉もわからなかった。使命だって果たせていない。だから、称賛を受けていい人間ではない。

 私は唇を噛み締めて小さく首を横に振った。


 すると、彼は顔を伏せて跪いた。私の左手を取り、薬指の付け根、手の甲に唇を押し当てる。深く、長く、姫に忠誠を誓う騎士かのように。



「さて、食事にしようか。」


 立ち上がり私を横抱きにする。そばにある彼の顔は隠しきれない信仰と崇拝に満ちていた。

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