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3話:陶酔の時

 そこは、虚ろな絶望の色をしていた。どこまでも深い、湿った土の底に沈んでいるような感覚。

 私の瞳が捉えたのは、薄暗い教会の地下。石造りの壁には湿気が張り付き、嗅いだことのない鉄の匂いと、埃とカビが混ざったような不快な匂いが鼻腔を突いた。


 目の前では、フードを深く被った人影が、床に描かれた異様な文様の前で何かを唱えていた。

 それは儀式だった。中央に置かれた鈍く光る黒い石が、誰かの血によって濡らされている。


「――さぁ、お前の魂を、この国に捧げよ……」


 ざらついた呪文が空間を覆った瞬間、禍々しい黄色い光が弾け、私の視界を灼いた。

 一転して、肉の焼ける匂いが漂う。文様の中央では黒焦げになった”何か”……。


「”これ”も適応できなかったか……。まぁよい。代わりはいくらでもある。」


 抑揚のない声が地下に響いた。


「…………っ……!!」


 私は、弾けるように身体を震わせ、浅い呼吸を繰り返しながら跳ね起きた。周囲を見渡す。そこは隣国の王宮の一室だった。

 傍で控えていた使用人の女が口を開いた。


「私は申し上げたはずです。『軽挙なきように』と。」


 あの御者は、彼女が予め配備していたということだろう。悔しさと無力感が全身を蝕む病のように身体に染み渡っていった。




 私は、彼女に促されるままにダイニングホールへと向かった。

 今朝と同じ長大なテーブルには、二人分の豪華な料理が並んでいる。だが、カトラリーは一組のみ、椅子も一つしか用意されていなかった。

 食事の準備をしていた使用人達は深々と礼をして、足早に立ち去っていく。広いホールにはルイスと私だけが残された。




「僕から逃げようとしたんだね。……君には罰が必要みたいだ。」


 静かな失望が、私を横抱きにした。意識を失っている間に着替えさせられていた薄いドレス越しに、彼の体温が伝わる。

 彼は椅子に腰掛けると、私を片足の上に横向きに座らせた。

 片腕が背中に回され、私の身体は、厚い胸板に完全に密着させられている。まるで、彼を構成する欠かせない要素であると主張するかのように。


 全力で藻掻けば逃れられるかもしれない。同時に、この姿勢は、少しでも動けば冷たい床に叩きつけられることを意味していた。

 私は膝の上で、じっと彼の言葉を待った。



「”無謀”な企てをやめて至福の味わいに集中できるように、僕が食べさせてあげよう。それが君への罰だ。」


 完膚なきまでに舐められていた。

 公爵令嬢として王族の婚約者として、テーブルマナーを叩き込まれて育った。今直ぐに舌を噛み切ってしまいたい衝動に駆られる。しかし、使命がそれを許さなかった。


 フォークを握った手が、前菜を私の口元へ運んだ。私は唇を固く閉じ、顔を横に背けた。この屈辱的な仕打ちを、断固として拒否したかった。

 彼の形の良い眉が悲しげに下がる。静かにフォークを置くと、息だけで紡ぐように言った。


「そうかい……。全く食べないのは体に良くない。何か軽いものでも……。」


 彼の視線は、頑なな唇の上に定まって動かない。見られているという羞恥が、拒絶の意思をじりじりと焼いた。


 数秒後、呼び鈴を介して、給仕に指示が送られた。

 程なくして、扉をノックする音が響いた。

 私は、膝の上で重ねた手を、爪が食い込むほどきつく組んだ。

 二人きりのホールで彼の息遣いだけが聞こえた。それから、大きな手が私の両手を包み込んだ。

 

 ルイスは、椅子の向きを入口から斜めに変えた。華美な背もたれと彼の体躯が、私の姿を給仕から覆い隠す。

 彼の身体そのものが、秘めやかな刑を執行するための密室であり檻だった。


 給仕は深々と礼をし、皿をテーブルの端に置いて退室した。本来、デザートとして最後に供されるものだ。子供扱いのつもりらしい。




 ルイスはスプーンでピューレを掬い、抵抗する唇の隙間から、押し込むようにねじ込んだ。


 背中全体から伝わる彼の温度、そして口腔に広がる果実の甘さ。二つの感覚が混ざり合った瞬間、脳髄が、熱く、甘美な屈服によって麻痺した。

 喉仏の動きが、背中越しに私の心臓に響く。


「どうした?そんなに美味しいのかい?」


 低く芯まで届く声が耳元で囁かれる。私は、ルイスの支配を拒絶する理性と、抗い難い本能的な安堵の間で揺り動かされていた。



 次に、濃密なコンソメスープの入った器が手に取られた。立ち上る湯気は、この場に漂う熱気をさらに濃くする。

 スプーンでそれを掬うと、自身の口元へと運んだ。浅くなった私の呼吸とは真逆の、深い吐息がスープの表面を撫でる。スープの熱気をまとった吐息が私の頬を打った。生暖かい風に身体がぞくりと震える。


 そうして口元に運ばれたスプーンを、私は自ら唇を緩めて受け入れていた。

 その方が早く終わると思った。それだけの理由だ。


 飲み込む際に、彼の視線が首筋の細いラインを滑るのを感じた。内側で起こる生理的な反応までもが、観察し尽くすべき所有の証だとでもいうのだろうか。


 その瞬間、絶えず聞こえていた彼の呼吸が静止していた。瞳には恍惚とした光が宿っている。腰に回されていた腕が、愛おしげに私の背筋を辿った。


「アリエル。君は喉を鳴らす姿さえ美しい……。」


 もう言い逃れできないのかもしれない。私は、彼の胸に全身を押し付けられたまま、その安堵に溺れそうになっていた。



 熱いスープで火照った身体を落ち着かせる時間は与えられなかった。

 彼は傍らに用意されたパンを、器用に片手で一口大にちぎった。


 焼きたてのパンからは、王宮の厨房でしか出せない芳醇な小麦の香りが立ち上る。透き通るような琥珀色の蜂蜜が、トーストの上でゆっくりと広がり、光を反射していた。


 パンが、私の口元へと運ばれる。

 長くすらりとした指が、唇の端をなぞる。私は、口を開いてその侵犯を許した。彼は指を引き抜く時に、先端を唇の内側に、僅かに擦らせた。


 透明感のある磨き抜かれた爪が、私の唾液で濡れ、ぬらぬらと光っていた。その湿り気が、彼が私の内側に侵入したという、決定的な証拠を否応なく突きつけた。


 奥歯に力を入れ、そのパンを噛む。その動作すら、彼に支配されているという事実。

 私は仄かに鉄の味がするパンを飲み込んだ。その瞬間、幼い日の記憶が、鉄の味を媒介として脳裏に突き刺さった。



 ――朧げな記憶。肌を切り裂く剣の冷たさ。止めどなく流れる鮮血。そして、その痛みを上書きした誰かの温もり。

 『大丈夫だ。君は僕が死なせない。』と囁く震えた声。


 彼の心臓の鼓動は、命を救われたあの時と同じリズムを刻んでいるようだった。



 その後も、テーブルの上の食事が順番に私の口へと運ばれた。一口また一口と咀嚼するたびに、酩酊にも似た感覚が末端の指先まで巡る。背筋に力がはいらない。背骨は溶けてなくなってしまったのだろうか。気づけば、崩れる体を支えようと自分から彼に寄りかかっていた。

 ルイスは最後に、探し求めてきた稀有な宝物に触れるように私の唇をナプキンで拭った。

 

「全部食べれたね、偉いよ。僕のアリエル。」


 怜悧な指が、首筋を撫でる。


「もう麗しい君の身体に、僕の知らないものは存在させない。君を形作る物の一切を、僕が選ぶんだ。」


 私の唇は、反論する力さえも失っていた。




 屈辱的な給餌の時間が終わると、ルイスは私を抱きしめたまま、囁いた。


「逃げるのはもう諦めてくれるかい……?」


 その問いかけが、私の意識を白昼夢から使命へと引き戻した。歯を食いしばって小さく首を横に振る。

 彼は妖艶な笑みを浮かべると、私のうなじに唇を押し当てた。深く、長く、自分の存在を刻みこむかのように。

 奇妙な愛惜の後、私は椅子の脇に下ろされた。私が両の足で立つのを見届けると、彼は支えていた手をそっと離した。


 彼は使用人に入浴の準備を命じると、直ぐに公務へと戻っていった。



 入浴中、浴槽で体を清める私を、侍女が慣れた手付きで介助する。貴族の象徴たる長い髪。洗髪は介助を受けるのが当然だと思って育った。けれど、今日は侍女が髪に触れる度、微かな違和感を覚えた。

 私の身体は、彼の体温に慣らされ、その倒錯的な指の感触こそが『安堵』だと、錯覚してしまっていた。それは、まるで、嵐に遭った雛鳥が、天敵の懐を無二の安息の地だと信じ込んでしまうように。


 それを振りきりたくて、白檀とローズマリーの匂いが染み付いてしまった身体を丹念に洗い流した。



 真新しいネグリジェに着替え、ガウンを羽織って自分の部屋へと戻った。広大なベッドに一人横たわる。


 肌に触れたシーツの冷たさに、身体を小さく丸めた。

 寒い。けれど、この寒さが私を奮い立たせる。皆はきっと今も恐怖で凍えている。

 彼の支配に抗えなかった自分の弱さに、自己嫌悪が湧き上がる。



 私は、シーツをたぐり寄せて固く握りしめた。これは決意だ。この檻から逃れることを、私は絶対に諦めない。

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