23話:誘惑の時
ある時、彼はこう嘯いた。
『君の肢体の織りなす線が乱れることを僕は望まない。さあ、また僕と踊ろう。』
よくわからないが、私の運動不足を心配してのことだろう。ルイスの異常な執着は、時に常識的な気遣いの形をとって現れる。
以来、彼は頻繁に時間を作り、私と踊るようになった。
その日の夜、踊り疲れた私は、寝台に身体を横たえていた。柔らかなシーツと薄い絹の肌触りが、湯浴みを終えたばかりの身体を包みこむ。
今日は、三度目の作戦が失敗した翌日。
ルイスは日中、片時も私から離れることはなく、逃げ出す隙は存在しなかった。
彼が、私の足首を優しく掬い上げて、両手で温める。この夢見心地へと誘うマッサージも何度目になるかもう数えていない。彼のいる足元から清潔感のある石鹸の香りが漂う。
吐息が足首に濡らした。
「明日は、君が僕のものになってから一ヶ月の記念日だ。」
その言葉が、私を現実に引き戻す。
彼のものになった記憶はないが。確かに、明日で王宮に連れられてから一ヶ月になる。
”儀式”が再開されるまでの制限時間は確かな音をたてて忍び寄ってきている。マヤの不在という機会をふいにしたことを実感し、焦りから身体を硬直させた。
「丁度、王立交響楽団の新譜の初演に招待されている。君にも来てもらおうか。」
彼の指先が、足裏の土踏まずの、私の最も弱いところに添えられる。これから訪れる刺激を予期して、心臓の鼓動が速くなる。
彼は、私のくるぶしから下の詳細な地図を持っている。抜け道も宝の在処もすべてだ。どこをどんな角度で、どんな強さで押せば、私が抗いがたい安堵で満たされるかを知っている。
彼は、その場所を強く押し上げた。しかし、予想に反して、甘い波紋が全身に広がることはなかった。
「私の身元が露呈するリスクが高すぎます。もしものことがあれば、ルイス様の立場も悪くしてしまいます。」
私は彼の提案をはっきりと拒絶した。
以前参加した北の辺境の社交界と、王都の社交界では、わけが違う。
ルイスは、私の顔を一瞥した。視線が交差する。蝋燭の光が、堀の深い顔を照らし、目元の陰影を強調する。浮かび上がった瞳には痛切な覚悟が宿っていた。
彼は地図を広げる決断をしたようだった。膝を曲げて逃れようとするが既に遅い。熱を帯びた手が境界線を越えて、膝下まで到達する。
ふくらはぎの膨らみを捕らえ、ゆっくりと、しかし徹底的に揉みほぐし始めた。食い込む指に逆らわず、ふくらはぎが従順に形を変える。初めはわずかに鈍い痛みが走ったが、彼が代謝を促すように圧を加えていくと、こびりついていたものが溶けていくような感覚に変わった。
彼の体温が凝り固まった筋肉に浸透する。ドクン、ドクンと、膝下から解放された血流が、滞りなく全身を巡った瞬間、足元で堰き止められていた痺れが一気にお腹の深部まで侵略した。
「君は、この国でずっと——永遠に過ごすんだ。社交の場にも早く馴染んでおいた方がいい。」
彼はそこで言葉を区切って息を吸った。
追い打ちをかけるように、有無を言わせぬ低い声で誘惑する。それは振動となって奥に響いた。
「それとも、僕と二人で行くのは嫌かい?」
私は朦朧とした意識で、声帯を震わせた。
「ち、違います……しかし——」
——今、私はなんと口にしたのだろう。
彼は歓びを噛み殺して、唇の端をほんの少しだけ上げた。
「なら、決まりだ。」
彼の手が再び、土踏まずのくぼみを捉える。まだ力も込めていないのに、触れられただけで身体が震えた。まるで、皮膚を貫通して彼の血が直接私の内側に流れ込んでくるようだった。
そして、一点を狙い澄まして指圧した。
「待っ……んっ!」
“待ってください”と懇願するより遥かに速く、蕩けるような電流が走った。それは、遮るものなく、私の脊髄を昇り、脳天を揺らして四肢へと拡散した。シーツに沈んだ背中に汗が滲み、開いた唇から呼気が漏れる。
やがて末端まで伝わった激しい余韻が収まり、心地よい倦怠感に変わる。全身が重く、瞼を閉じる。
最後に、ルイスは、私の足の爪先から膝下を慈しむように撫でると、ベッドから降りた。
「明日を楽しみにしているよ。おやすみ、僕の愛しいアリエル。」
静まり返った部屋。
彼の残り香と火照った身体。
『ずっと』なんて無理だ。叶うはずがない。だけど、その言葉は、確かに私の心を慰めてくれた。
——翌日の午後。
会議に向かう彼と入れ替わりで、執務室にマヤが入室した。二日間の休暇を過ごし、鉄仮面が心なしかはつらつとしている。
「ごめんなさい。誰も傷つけないと約束したのに……」
私は、彼女が不在の間に、ルイスの背中に傷を負わせたことを詫びた。
「殿下が、アリエル様を責めましたか?」
彼女の声には感情が乗っていない。静かに首を横に振る私に、マヤは言葉を続けた。
「お二人の間で起きた問題に対して、私が申し上げることはございません。」
それから、彼女は私のドレスを見つめた。
「ですが、あなたは本当に懲りない人ですね。殿下はきっと——」
その時、聞き馴染みのある声が扉の奥から聞こえた。
「殿下より命を受けて、お茶をお持ちしました。」
ソフィーが、執務室のテーブルにてきぱきとティーセットを並べる。滑らかな動作の途中、彼女は時折マヤに視線を送っていた。
「ありがとう、ソフィー。あなたも少し休んでいったら?」
私は彼女らにソファに座るように勧めた。
ソフィーは頭を下げてから控えめに腰掛けた。形式的な会話を済ませた後、マヤに肩を寄せる。
「それで、姉様!みんなは元気にしていましたか?」
「はい。皆も『ソフィーは次いつ帰ってくるのか』と楽しみにしていましたよ。」
私は仲睦まじい姉妹の会話を、ティーカップを片手に聴いていた。ジャスミン茶のエキゾチックな香りと程よい苦みに、私の口元も自然と緩んだ。
マヤが休暇中の出来事を語り終えると、ソフィーが絨毯に吸い込まれるような小さな声で呟いた。
「私も姉様とお休みが同じなら一緒に帰れたのにな。」
「……仮に休暇が重なっても、同道することはありません。」
マヤが、毅然として一線を引く。
愛する妹を守るために遠ざける。ソフィーもきっとそれを理解しているのだろう。彼女は反論することなく話題を変えた。
暫くして、肩を落としたソフィーは、給仕の仕事へと戻っていった。
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