22話:禁断の時
太陽が地平線に沈み、煉瓦造りの孤児院の壁を深い青と赤の残光が染め上げる頃、私は孤児院に辿り着いた。
「おや?アリエル様、いかがなさいましたか?」
門を閉じようとしていた司教が、朗らかな笑みで私を迎えた。
痩せた長身の彼は、誰もが疑いようのない善意の皮を纏っている。その皺の奥には、計算された作為を感じられた。人の良さそうな顔の、どこか上滑りした視線が、私に警戒心を抱かせる。
「ごめんなさい。耳飾りを落としてしまったようで。」
「色と意匠を教えていただけますか?」
返答しようとした時、視界の端で宝石の輝きを捉えた。
「それは、……あ!」
急いで駆け寄りかがみ込む。足元の庭石の間から探し物を拾い上げると、直ぐに自分の耳に当てた。二度と無くさぬように留め具を固くしっかりと着ける。肌に伝わる金属の冷たさを、噛み締めた。
彼は、口元に手を当ててじっと私を見つめていた。そして、軽く頭を下げて立ち去ろうとする私を呼び止めた。
「…………アリエル様。折角の機会です。地下の設備もご覧になりませんか?公爵閣下に予算の増額などお口添えいただけると幸いにございます。」
日の当たらない地下にも部屋があるのだろうか。
子ども達には極力良い環境で寝起きしてほしい。
司教の言い回しに違和感を覚えながらも、私はその申し出を快諾した。
司教は、孤児院の隅にある小さな教会の奥、祭壇の裏へと私を導いた。彼が祭壇に手をかざすと、厳重に施錠された鉄の隠し扉が、重々しい音を立てて姿を現す。
この時点で、地下にあるものが子どもの生活空間などではないことには気づいていた。けれど、私は彼に続いて、湿った石造りの階段を降りてしまった。
そこでは、今まさに儀式が行われたところだった。
強い光で揺らぐ視界。地面に広がる複雑な紋様の中央には、黒く焼け焦げた肉塊。
私は思わず鼻をドレスの袖で覆い、掠れた声で問いかけた。
「これは……?」
「最強と謳われる雷の”能力”を人為的に再現する研究でございます。」
司教の言葉は、私の耳には現実味のない雑音としてしか届かない。彼の表情には何の感情も宿っていない。いや、私の理解の及ぶ範疇ではなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。聖職者であることを示す真っ白の法衣もくすみ、霞んで見えた。
「……何を言っているのかしら?」
「”儀式”には実験体と膨大なエネルギーが欠かせません。そのため、孤児院は常に予算不足です。ですから、」
彼の説明が、私の怒りの導火線に火をつけた。子ども達の命を燃料にする、この冷酷な論理に。
その時、私から見て向かい側に控えていた少年が、紋様の中央に向かって歩き始めた。
「ふざけないで!直ちに中止しなさい!!」
私はレオンから預かった懐剣を強く握りしめた。鞘から放たれた白銀を彼に突きつける。
「あなた様には、まだ現実を知るのは早かったようですね。門までご案内いたします。」
私が剣を抜いたにもかかわらず、司教は無防備に、しかし傲然と背中を向けた。子供たちの命など、微塵も顧みないその態度が、私の怒りを極限まで高めた。
息が止まる。
白い法衣が、視界を埋め尽くした。脳裏で警告音が鳴り響く。私は今、聖職者を、国家が庇護する施設で、殺そうとしている。全身から血の気が引き、剣を持つ手が、恐怖で細かく震え始めた。
黒焦げの肉塊と、四方から響く耳障りな呪文が、それをねじ伏せた。
——許さない。
私は喉の奥で短い声を上げ、地の底から力を振り絞るように、一歩踏み出す。
義憤に燃える剣の切っ先を、司教の背中目掛けて、躊躇を断ち切るように渾身の力で突き出した。
その瞬間、小さく細い腕が、私の腰に縋り付いた。背後から複数の子供たちが一斉にのし掛かる。
私は、彼らの重みに悲鳴を上げる間もなく、地面に叩きつけられた。幼い体とは思えないほどの圧力が全身にかかり、肺が押し潰され、息が詰まる。喉の奥からヒューヒューと空気の漏れる音だけが響いた。
「どうして!?この人はあなた達を!」
「お姉さんは、僕たちが強制的に儀式に参加させられてると思ってるの?」
怒りに満ちた少年の声。
「たとえ望んでいても、あなたがいなくなったら悲しむ人がいるはずよ……!」
「どうして私たちは孤児院にいると思いますか?……お嬢様なんかには知る由もないことです。」
冷めた少女の声。
いつの間にか、紋様の中央に向かっていた少年は、司教を守ろうとするように、彼の前に立っていた。
少年が、倒れ伏した私を見下ろす。
「儀式が成功すれば力を得られる。復讐ができる!!そのためならこんな命どうだっていいんだよ。」
司教は醜く笑い、少年の肩に手を置いた。
「さあ、エリック。我が国の希望をアリエル様に魅せてあげなさい。」
少年は、頷いた。そして、魔法陣に向かう前に、他の子ども達の元へとゆっくり歩み寄った。
彼は、一人ひとりの頭を、優しく、名残惜しむように撫でる。指先に込められたのは、”兄”としての愛情と、死を迎えることへの諦念。子ども達は、誰も泣かず、ただ無言でエリックの袖をそっと握り返すだけだった。
別れ際に、エリックは全員を見渡し、努めて明るい声で言った。
「ばいばい、みんな。」
少年が、再び文様の中央に立つ。
直後、地下を眩い閃光が迸った。
私を羽交い締めにする子ども達の手に、痛いほど力が込められた。
儀式は、やはり失敗に終わった。
私は見てしまった。光に覆われる寸前、両手を固く握りしめ、確かに震える小さな肩を。
司教は、両手を組んで神に祈る所作をとった。まるで、彼らの魂の冥福を心から祈っているかのように。
「デイジー。エリック。あなた達の犠牲を無駄にはしません。」
それから、私は地下牢に繋がれた。
牢屋に入れられてから数時間後、話し声が微かに聞こえてきた。
「司教殿、少々軽率な判断をしてくれたな。」
「申し訳ございません。彼女は、聡明であると伺っておりましたので。人々の上に立つものとして、理解してくださるはずだと……。」
重い扉が開く。私の目に飛び込んできたのは、信じられない人物の姿だった。
ヴェルザードを治める国王その人は、司教の隣に立っていた。
「陛下……!?この者が孤児院の子ども達に……!!」
私は、鉄格子を握りしめて、声を張り上げた。しかし、国王は一切の動揺を見せず語り始めた。
「残念ながら我が国は弱い。綺麗事だけでは独立を守れぬ。見ただろう?彼らの愛国心を。国のために命を投げうつ崇高な覚悟を。」
「ならば、まずは陛下が愛国心をお見せになってはいかがですか?」
国王の顔に刻まれた深い皺が、侮蔑に歪む。
「面白い冗談だ。私と孤児とでは命の価値が違う。」
「子ども達はこの国の未来です!私は、こんなやり方認めません!」
私は彼らを睨みつけた。だけど、私の言葉が彼らに響くことはなかった。
国王は私の怒りなど歯牙にもかけない様子で、牢を開けるように命じた。レオンの婚約者であり公爵令嬢でもある私を抹殺するのは、極力避けたかったのだろう。
「君も大人になり給え。大義のためには仕方のない犠牲だ。」
最後に彼は、冷酷な脅迫を行った。
「もし他言すれば、孤児院の”全て”は闇に葬る。分かっているな?」
地下牢から解放された私は、あらゆる手段を講じて、儀式に欠かせない国費を奪った。しかし、それも長くは続かず、横領が露見した時、私は今度こそ処刑台へと送られた。
――現在。
もっと子供たちに寄り添えていたら。もっと上手く裏工作ができていたら。
後悔は尽きない。
私は濡れた頬を両手ではたいた。
浴槽から出て、下腹部の傷跡にそっと触れる。薄く桜色が残る大きな裂傷。黒ずんだ周囲が痛々しい。
私は、厚手のシュミーズを身に着けると、更衣室の外で待つ彼の名を呼んだ。




