2話:逃亡の時
隣国の王宮へと連れられた翌日。
私は、硬く冷たい石畳ではなく、羽毛のような柔らかいベッドの上で目覚めた。肌寒さを感じて、無意識に隣に手を伸ばす。その手が掴んだのはひんやりとしたシーツだった。
緩慢な動作で上体を起こした私に、女性の使用人が声を掛けた。
「おはようございます、アリエル様。ルイス殿下は早朝より公務に向かわれました。」
彼女の目には、私への警戒と、ルイスへの絶対的な忠誠心が浮かんでいた。
「殿下から、お世話役を拝命しております。まずは、こちらへ。お召し物を用意しております。」
彼女に促されるままにベッドから降りて、ワードローブ、衣装の間へと向かった。
そこには、色とりどりのシルクのドレスや化粧道具が並んでいた。
彼女は、落ち着いた青色のドレスを手に取った。続けて、慣れた手つきで、私のナイトドレスを脱がせた。機械のような正確な動きで、コルセットを巻き、ドレスを着せ付けていく。私は、その手順を一つ一つ注意深く記憶していた。
レオン王子の元婚約者として、公爵令嬢として、審美眼には自信があるつもりだ。洗練されたシルエットときめ細やかな生地。少なくとも囚人や罪人に着せるものでないことは明白だった。
私は、彼女に問いかけた。
「あなたは、私のことをどこまで聴いているのかしら?」
彼女は、化粧を施していた手を止め、ほんの短い時間考え込んだ。
「……殿下からは、国賓としておもてなしをするよう命じられています。」
どうやら質問に答える気はないらしい。私は早々に会話を切り上げることにした。
「そう。」
使用人は化粧の仕上げを終えると、手鏡を渡した。赤く腫れていた目元が、綺麗に覆い隠されていた。鏡越しに目が合う。
彼女は無機質な声で言った。
「私は、殿下の身辺をお守りするため、武術も修めております。軽挙なきようにご留意くださいませ。」
次に案内された場所は、本宮の南端にあるダイニングホールだった。王宮の規模と比して厳選されたそれは、ルイスの私的な空間であることが窺えた。
「殿下。アリエル様をお連れしました。」
「ありがとう。白い肌によく映えるサファイアのような碧……。本当に美しい……。やはり君に任せてよかった。」
ルイスは満足げに頷いた。なるほど。この男は『美しい』という言葉を挨拶だと思っているのか。
「もったいないお言葉です。」
使用人が恭しく頭を下げる。
彼は黄金の瞳を私に注いだまま、微笑んだ。
「おはよう、アリエル。昨日はよく眠れたみたいだね。」
「おはようございます、ルイス様。昨夜は——大変良い夢を見させていただきましたわ。」
私は、昨夜の安堵の記憶を封じ込めて、冷たい笑顔で返した。彼は、私の皮肉を察した様子で、戯れ言のように軽やかに続けた。
「急な公務が入らなければ、君が目覚める”まで”、この腕の中に閉じ込めておけたのにね。」
熱を帯びた指先が、私の頬を掠める。
「……いえ、お忙しいようで何よりです。」
私は冷ややかな笑みを浮かべたまま、顔を傾けて拒絶した。差し出された手は、名残惜しむように宙を彷徨った。
ルイスの向かいに座って食事を始める。
目の前に並べられた朝食は、絵画のように飾り立てられ、祖国の王宮と比べても遜色のない味だった。
彼は、私がカップに手を伸ばす姿もフォークを口に運ぶ姿も、飽きもせずにずっと眺めていた。その視線は、皿の上の食物よりも熱く、私の意識を奪った。
食事を終えた私は、ルイスが席を立つ気配を察して、核心に触れた。
「ルイス様。広場で仰っていた、私が貴国の行商を襲ったというのは……?」
彼は私を見つめ返し、小さく息をはいた。
「僕のアリエルは悩む姿も麗しい……。今夜、公務から戻ったら少し話そうか。」
そう言うと、私に一歩近づき、抵抗を許さない静かな力で頭に触れた。
彼の大きな掌は、整えられた髪型を崩さぬよう、あくまで慎重に、頭頂にそっと添えられるだけだった。肌にも触れていないのに、慈愛と確固たる所有欲の熱が、冷たい頭皮を通り奥深くまで染み込む。
次いで、彼は私の顔に黒いベールをかけた。レースの薄い生地が、額から鼻筋、そして唇の輪郭までを覆い隠す。視界はぼやけ、周囲の色彩は薄暗いモノクロームの世界に変わった。
「君の美貌も僕だけのものだ。王宮では自由に過ごしてもらって構わないが……僕の前以外で外してはならないよ。」
王宮内に常駐する貴族から、私の素性を隠したいということだろう。けれど、その手つきには確かな独占欲も滲みでていた。
彼は返事も待たずに、優雅に身を翻すと、ホールを後にした。
ルイスには悪いが、彼が公務から戻る頃には、逃亡を成功させて国境を越えているつもりだ。
私は、『国賓として』という言葉を信じて、使用人に尋ねた。
「少し疲れてしまったみたい。夕食は、部屋でとりたいのだけれど?」
「……承知しました。手配いたします。」
彼女はやはり首を縦に振った。
「ありがとう。給仕はそこの赤毛の子がいいわ。」
私は、自分と背格好の似た女性の給仕人を指名した。
――半日後。
部屋で食事の準備を進める給仕人に話しかけた。
「あなた、リーヴェ村の出身でしょう?」
給仕人は、動揺した様子で頷いた。
「はい。何かお気に召さないことがございましたでしょうか?」
血のような赤い髪はリーヴェ村の民の特徴だ。その村は、祖国と彼の国の国境付近にある。
私はわざとフォークを落とした。彼女が拾おうとしてかがむ。
「ごめんなさいね。」
「いえ——」
その瞬間、私は無防備になった首元を手刀で叩いた。崩れ落ちる彼女の体を抱き留める。
私は、即座にドレスを脱いで、給仕人の服に着替えた。邪魔にならないように、彼女をベッドに寝かせて布団を被せる。
扉の外に控える女の使用人に不審を抱かれるまでの猶予は、決して長くない。
ドレスの裾を躊躇なく掴み、テーブルに置いていたナイフで絹の布地を勢いよく引き裂く。冷たい光沢の生地が悲鳴のような音を立てて断たれていく。数枚を硬く編み上げ、即席のロープを作ると、私はそれを窓の縁に二重に括りつけた。
両手で体重をかけ、渾身の力で引っ張って強度を確認する。結び目は、命を預けるにはあまりにも頼りない。しかし、他に選択肢もない。
心臓は早鐘のように鳴っている。だが、それこそが生の証だ。孤児院の"儀式"に比べれば、この程度何でもない。
私は窓から見て右側にそびえる、装飾の施された石造りの階段を目掛けて、ロープの端を投げ込んだ。小さく鈍い音を立てて階段の手すりに巻きついたことを確認すると、迷いは捨てた。
冷たい夜風が顔を叩く。私は幾ばくの躊躇もなく窓枠を跨ぎ、夜の闇へと身を投げた。ロープが手に食い込み、焼けるように熱い。真下は遥かな石畳。
辛うじて、ロープを伝い階段へと渡ることに成功した。
荒れた息が整うのを待たずに、裏門へと向かう。衛兵達には、ポケットに入っていた通行商を見せるだけで、疑われず通り抜けることができた。
どこの国も衛兵とは得てしてそういうものだ。内部へ入る時は厳重に照会されるが、外部へ出る者に対しては杜撰だ。
門から出て直ぐのところで、馬車を捕まえた。
「どこまで?」
御者が私をじっと見つめる。
「リーヴェ村までお願い。せっかくの休暇だから、早く帰りたいの。」
私は、ワードローブでくすねた赤いウィッグを指さした。
「そうかい……。親孝行者だねぇ。」
何気ない言葉が私の胸をチクリと刺す。両親の顔が脳裏に浮かぶ。王子の婚約者として選ばれたことは、貴族の家系にとって最高の名誉だ。なのに、私は全てを台無しにしてしまった。
馬車の中は、昨日のそれより一回り小さく座席も硬い。けれど、必要十分だ。ここから馬車を乗り継いで祖国を目指す。
考えを整理して、大きく深呼吸する。重厚な革の匂いではなく、私を閉じ込める城と同じ、白檀とローズマリーの甘い香りがした。加えて、少し空気が曇っているような——。
咄嗟に扉を開こうとする。しかし、外から鍵がかかっているかのように扉はびくともしなかった。
(私は……また、失敗して……。)
私の身体はもはや思うようには動かない。
馬車の壁に寄りかかり意識を失った。
次回、ルイス様からアリエルへの罰、もとい愛による支配が本格的に始まります!




