16話:隔絶の時
美術館での逢引の翌日、私はルイスの膝の上で味のしないココットエッグとクロワッサンを食べた。
「今日は、軍の訓練場へ視察に行く。君にも同行してもらいたい」
彼が、私に不思議なことを提案してきた。
目の前にはアールグレイ・シトラス。薄切りのライムが浮かんだティーカップからは、一切香りは感じられなかった。
「私が御一緒する意味がおありでしょうか?」
「ある。僕のアリエルと片時も離れたくないんだ」
意味はない、と彼は言った。
私は小さく息を吐いてから、お茶を喉の奥へ滑り込ませた。
「……お好きになさってください」
彼は、それを同意と捉えたようだった。
マヤに短く指示を出すと、私を抱き上げて馬車へと向かった。
郊外に広がるその場所は、王国の軍事力を誇示する、広大な訓練場だった。冷たい風が、砂利と土埃を容赦なく巻き上げる。
遠目に見えるのは、整然と並ぶ石造りの堅固な兵舎と、その奥に立つ威圧的なまでに巨大な、黒曜石色の物資倉庫。どの建物も、規律と秩序のもとに磨き上げられ、寸分の乱れもない。
荒々しい喧騒の中、数えきれないほどの兵士達が、地響きを立てて訓練に励んでいた。彼らの上げる雄叫びと、金属の乾いた音が、空気をビリビリと震わせている。
中心から、最も遠く、しかし全体を見渡せる高台に、異様な建物が立っていた。それは、黒い木材と大きなガラス窓で構成された管理棟だった。
私は人目を避け、彼の腕に抱かれて、その最上階にある控室に入った。
ドアをノックする音が控え室に響く。
入室したのは壮年の男性だった。軍服の胸元で勲章が輝いている。
その将校は、ルイスに向かって深々と敬礼をした。
「殿下のご臨席に、兵士達を代表し深く感謝申し上げます」
「礼は無用だ。引き続き職務に励んでくれ」
「はっ!! …………君も来ていたのか」
将校は、視界の端にマヤの姿を認めると、僅かに表情を緩めた。一瞬視線が交差した後、彼女は、王宮で見せるカーテシーとは異なる軍隊式の敬礼で返した。
彼は、ルイスに向き直り、打ち合わせを始めた。
「失礼いたしました。殿下、訓示の時刻は、予定通り15時でよろしいでしょうか」
「あぁ。問題ない」
随伴して入室していた士官が、ルイスに一枚の羊皮紙を差し出す。
「終了後の巡視の順路について、ご確認をお願いできますでしょうか」
「ありがとう。これも問題ない」
彼らは迅速に打ち合わせを済ませ、控室から退室した。
ルイスは、椅子に腰掛けると暖炉の薪を見つめた。積み上がった木炭は、王子の到着に備えて随分と前から部屋を整えていたことを物語っている。
彼は、マントを差し出すマヤを制止した。
「彼らの好意を無下にするのも忍びない。少し休んでから、訓練場へ赴くことにするよ」
時計の時刻は、14時を指していた。
彼の腕を一瞥する。服の下から鍛え上げられた筋肉が存在を主張している。
「ルイス様も鍛錬に参加なさるのですか?」
「いや、今日”は”視察だけだ」
彼は真剣な眼差しで、兵士達の訓練の様子を見つめている。
「それならば、演説の時間までここにいらっしゃれば?」
窓に吹きつける風の音。外では、兵士達の熱気を飛ばすような北風が吹き荒れていた。
「……彼らとこの風を共有する。それが将たるものの務めだ」
彼は決意に満ちた声で言った。それから、冷たい手で私の右手に触れた。
「君は控室から見ていてくれ。マヤ、彼女のことは任せた」
ここに来る前『離れたくない』と言ったのに。
彼は、マヤから紅で象られた黒いマントを受け取ると、訓練場へと降りていった。
訓練場の脇に立ち、将校と会話をしながら、兵士達の動きをじっと観察している。赤い髪が風に靡く。彼が控室の方角を見上げることは一度もなかった。
しばらく後、将校が張り裂けんばかりの声を、広大な訓練場全体に叩きつけた。
「兵士諸君! 殿下がご臨席なされた!! 整列!!!」
瞬間、数千の兵士が一糸乱れぬ動作で、鉄壁の敬礼を捧げた。突然訪れた静寂の中、彼のマントを翻す風の音だけが響いた。
「僕は、王国軍最高司令官代理、ルイス・ツー・フロストベルクだ!!」
ルイスは前に進み出ると、言葉を紡ぎ始めた。
それは、知性と論理に基づいた、兵士の忠誠心を鼓舞するための演説だったのだろう。王国の財政、戦術の優位性、果ては未来の勝利について、よどみなく語っているようだった。
だが、私にとっては退屈で耳障りな雑音でしかなかった。
私は暖房の効いた部屋から、ドレスの襟に顔を埋め、司令官代理様とやらの姿を遠く眺めた。
そして迎えた訓示の終焉。
彼が右手を高く突き上げた、その瞬間だった。
彼の掌から、爆音とともに赤い炎が迸った。炎は、螺旋を描いて天高く舞い上がる。瞬く間に、陽光を凌駕する程の巨大な火柱となって、肌を刺す風を灼き尽くした。
(これが、焔の”能力”の本当の力…………。)
超常の力を目の当たりにした兵士達の喉から、人間が発するとは思えない、地鳴りのような叫びが湧き上がった。それは歓喜であり、熱狂的な忠誠でもあった。
私の背中を冷たい汗が伝う。数千人の中で、私だけが寒さで震えていた。
ルイスは控室に戻ると、私の隣に座った。何かを言おうとして、私の表情を見て止めたようだった。彼はマヤに耳打ちをすると、直ぐに巡視に向かった。
「馬車の手配をいたしましょうか?」
マヤが静かに口を開いた。
「いいえ、構わないわ」
何をする気力もなかった。
彼女は紅茶を淹れると、私の前に差し出した。
「殿下より、紅茶を供するように、と。アリエル様の目には、異様な光景に映りましたか?」
彼と同じローズマリーの香りが漂う。ティーカップを傾けて優雅に喫する。舌の上に広がる清涼感とともに、胃の腑がじんわりと温まる。
それは私を安堵へと誘った彼の体温を思い起こさせた。
「ええ、少し。貴女は見慣れているのよね?」
彼女は遠い目をしていた。
「はい。私は、元々この部隊に所属していましたから」
将校は彼女を知っているような反応をしていた。マヤは優秀な兵士だったのだろう。
「今はなぜルイス様のお側に?」
ソフィーと三人で会話した時に気になっていたことを尋ねた。
――数日前、執務室。
『給仕の動きが瓜二つよね。ソフィーはマヤに教わったのかしら?』
『いえ、逆です。私が先輩として、姉様を鍛えてあげました!』
『ソフィーはこう見えて鬼軍曹で……。あの頃は毎日大変でした』
二人は顔を見合わせて笑った。
――現在。
彼女は、不躾な問いにも感情を顕にせず、淡々と過去を語った。
「兵士として致命的な負傷をしました。その折、『君の部隊の衛生管理は素晴らしかった。ぜひ僕の為に役立ててほしい』と」
「そんなことがあったのね…………。ルイス様は、兵士皆の長所までも」
ルイスは今、兵舎や食堂、資材庫など、兵士の生活に直結する場所を視察している。私は、脳裏に彼の横顔を思い描いた。
「殿下は真摯に公務に取り組んでおられます。……今も、アリエル様を蔑ろにしているわけではございません」
彼女は私の右手の薬指を見つめて言った。
「ありがとう、マヤ」
私はまだ温かさの残るカップを包み込んだ。
けれど。体の奥底の震えが、私を蝕む。
彼は、”儀式”に挑戦すると言った。つまり、”儀式”を肯定した。勿論、彼はそんなことが現実に行われているとは夢にも思っていないだろう。
ただ、私とは相容れない考えであることも事実だ。私は、子供たちが犠牲になる世界なんて認めない。全身全霊で否定してやる。
いつの間にか、すっかりと冷めていたローズマリーティーを飲み干した。
マヤは、ガラスに反射した私の瞳を見据えていた。まるで、瞳の奥に隠した計画を射抜こうとするように。
「私は、明日より休暇をいただきます。ですが、殿下は貴方の御考えを見透かしています。どうか”軽挙なきよう”お願いいたします」
私は、脅しには屈しない。
明日、私はこの檻の鍵を解き放つ。




