第99話 二人きりの時間
「それじゃあ、双葉さん、草薙君。また文化祭準備で会おうね」
電車の座席から立ち上がりながら、宮城が手を振った。
「うん、宮城さん。またね」
「気をつけて」
「ありがと」
無事に支払いを終えた後、翔たちのクラスは電車の方面ごとに解散した。
もともとこの路線は人数が少なく、最後まで一緒だった宮城も、彩花の二駅手前で降りるらしい。
扉が閉まって、宮城の姿がホームに残った。電車が動き出す。
彩花が、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「疲れたか?」
「うん……やっぱり、二人だと落ち着くね」
「……えっ?」
翔は思わず、彩花の横顔に目を向けた。
「っ、あ、別に変な意味じゃなくて! ……私にはやっぱり、少人数のほうが合ってるんだなって」
「ああ……まあ、わかる気はするな」
「ほら、たくさんの浅い関係よりも数人の深いつながりのほうが大事って、最近は特によく言われるじゃん」
「そういう消極性が、勉強会と筋トレの予定しか入ってない今のカレンダーを生んでるじゃないのか?」
「いいの。空白ってわけでもないんだし」
彩花はただ、自分の価値観を語っているだけなのだろう。
それでも、どこか現状で満足しているような口ぶりだった。
(……俺も、その深いつながりの中に入れてもらえてるってことか)
そう思うと、なんだか胸の奥がむず痒くなった。
翔は空咳を一つした。
「——そういえばさ」
その声に、意識を彩花に戻す。
「園田君のデュエット提案。助け舟を出してくれてありがとね」
「おう。空回りにならなくてよかったよ。あの場で変にこじれたら、面倒だったし」
「まぁね。でも、翔君が名乗り出てくれてもよかったのに。前にも一回してるんだからさ」
彩花の声には、どこかイタズラっぽい響きが混じっていた。
「一瞬よぎったけど、そもそも歌いたくなさそうにしてただろ」
「というか、園田君がもう一歩踏み込んできたときに、うまく断れるか心配だったの。翔君だったら普通に乗ったよ?」
「あの空気じゃ、さすがに無理だって」
「あのときだけちょっと寒かったもんね。でも——」
彩花が口の端を吊り上げた。
「そういう意味では、園田君のほうが勇気があったとも言えるんじゃない?」
「いや、そんなことは——」
翔は咄嗟に否定しかけて、口を閉ざした。
もしも将暉がデュエット提案をしていなかったとしても、自分が局面を打開できた自信はない。
「……確かに、そうかもだけど」
「ちょ、今のは冗談だって!」
翔が瞳を伏せると、彩花は慌てたように両手をパタパタさせた。
「あそこでデュエット提案とか意味わからないし、少なくとも園田君が言い出すのは絶対に違うでしょ。それをうまく回収してくれた翔君こそがMVPだよ」
「俺も、吉良のおかげで事故らずに済んだだけだけどな。それに、そのあとは篠原と佐藤もそうだし、潤とか宮城も加勢してくれたからこそだよ」
もしも彼らがいなかったらと考えると、ゾッとする。
「あいつらみたいなのを、本当の陽キャって言うんだろうな」
「そうだね。でも——」
彩花は小さくうなずいてから、わずかに語気を強めた。
「そういう性質じゃないのに声を上げた翔君は、やっぱりあの中で一番勇気があったと思うな」
「いいよ、無理にフォローしてくれなくて」
「そういうわけじゃないよ。……ほんとに、感謝してるから」
「……そっか」
翔は短く相槌を打った。
それ以外、言葉が見つからなかった。
電車が駅のホームに滑り込み、減速を始めた。
乗客が数人入れ替わると、扉が閉まる。やけにゆっくり加速しているように感じられるのは気のせいだろう。
「でもさ」
彩花がふと、そう切り出した。
彼女はほんのり唇を尖らせていた。
「そもそも、みんなが変に私を持ち上げすぎるからあんな感じになったんだよ。なんか、逆に馬鹿にされてる感じがしちゃう」
「いや、そんなことはないと思うぞ。実際、上手かったし」
「そう? まあ、誰かさんに足を蹴られたことが気になって、逆に緊張せずに歌えたのかも。あれもすごい助かったよ」
「そんなの、お互い様だろ」
翔も、彩花の揶揄いで歌唱前の緊張がほぐれた自覚はあった。
「今日の私たち、なかなかいい連携だったんじゃない?」
「それはそうかもな」
「翔君がいて良かったよ。ああいう場での美波は、避難場所にならないからね」
「吉良は宮城と並んで、クラスの中心って感じだったな」
美波が歌うと、より一層女子たちが合いの手を入れたり盛り上げていた。
そういう選曲をしているというのもあるのだろうが、それだけじゃないような気もした。
それに、将暉とのデュエット以外にも、ハモったり肘で脇腹を突いたりと、総じて男子との距離が近かった。
ただ、それも自然で、嫌味な感じは覚えなかった。
「中学の頃から、ああいうタイプだったのか?」
「ううん、私と仲良くなってからだった気がする。それまでは大人しめってわけでもないけど、今ほどおちゃらけたりもしてなかったし」
「どちらかというと、双葉と似てたって感じか?」
「そうかも」
彩花の影響で、みんなが集まるようになったのだろうか。
ただ、それだけで性格が変わるとも思えない。
(彩花が今の吉良みたいになるとは思えないし……まあ、吉良の中で何かしら意識の変化があったのかもしれないな)
それにそもそも、彩花と美波は別人だ。
たまたま中学の一時期に似た立ち位置だった、というだけの話かもしれない。
電車が再びスピードを落とし始めた。彩花の最寄り駅だ。
翔は当然のように一緒に降りた。家まで送るためだ。
彩花にも遠慮するそぶりはない。
翔に引く気がないことは、ここ数回で学習したのだろう。
「そういうわけで、概ね翔君には感謝してるけど、一つだけ不満があるのはわかるよね?」
改札を通り抜けながら、彩花が尋ねてきた。
声のトーンは、それほどまでよりも一段低い。
「……現代文の点数か」
「なんで黙ってたの? 翔君のほうが、園田君より上だったのに」
「一点差なんて誤差の範囲内だからな。胸張ってとれるほどのマウントでもないし、無闇に争う必要もないと思って」
「それは、そうだけど……」
納得していない様子だが、それ以上の反論は来ない。
彩花も理屈はわかっているのだろう。
翔は少しだけ迷ってから、「それにさ」といった。
「どのみち、次のテストでは勝つつもりだから」
「……えっ?」
彩花が目を見開き、思わずといったように足を止めた。
「五位以内に食い込めば、男子で一位かどうかは自ずとわかるだろ? そこに向けて頑張るよ。もともと、遠藤も認めざるを得ないくらいの点を取るつもりだったし」
「……そっか」
彩花がふっと目元を緩めた。
「うん。そういうことなら、今回は見逃してあげるよ」
「助かる。彩花にも勝つくらいのつもりでいるから」
「お、いいねぇ。けど、私だって簡単に負けるつもりはないよ。もちろん、翔君には最高級の塩を送り続けてあげながら、だけど」
「余裕だな……あとで後悔するなよ」
「そっちこそ、私に勝ちたいなら覚悟してね」
彩花がニヤリと口角を上げた。
その楽しげな笑みを前に、翔はふざけすぎて親を怒らせてしまったときのような寒気を覚えた。
——そんな彼の嫌な予感は的中した。
「まずはワークの範囲を送るから、間違えた問題はその原因をそれぞれ百文字以上で書いてくること。期限は明日の勉強会までだよ」
「え……嘘だろ?」
明日は例外的に午前中に勉強会を行うことになっている。
やるとしたら、今夜か明日の早朝しかない。
「本気だよ。クラス一位は、生半可な勉強じゃ無理だからね」
「い、いやっ、さっきのはちょっと口が滑っただけでっ」
「男に二言は?」
「……ありません」
プライドをかなぐり捨てた翔の懇願は、無情にも切り捨てられた。
翔がガックリ項垂れたところで、双葉家に到着した。
「送ってくれてありがと。範囲は後でメールするねー」
「……はい」
機嫌よく門扉をくぐる彩花に、翔は力のない返事をした。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、スマホが短く震えた。彩花からだ。
現代文のワークの範囲が、ページ数と問題番号でずらっと並んでいる。
「……現実的な量だな」
ただ解いて丸つけをするだけならば、の話だが。
続けてもう一通のメッセージが送られてきた。
——百文字以上っていうのはさすがに冗談だからね。けど、解くだけ解いておいてくれると嬉しいです。
「冗談……か」
翔はひとりつぶやきながら、机にワークを広げた。
問題を解いて、間違えた箇所に赤で印をつける。
「……やってみるか」
そう意気込んでみたものの、普通に書いただけでは到底足りなかった。
他の問題にも転用できるように普遍化してみて、やっと百文字以上になった。
「……想像以上にしんどいな」
間違えた問題全てでこれをこなすのは、かなり過酷だ。
ただ、さまざまな角度から分析せざるを得ないので、やれば確実に力になるだろうという手応えもあった。
『私に勝ちたいなら、生半可な勉強じゃ無理だからね』
彩花のどこか得意げな表情が脳裏に浮かび、ペンを握る手に力が入った。
そして、小一時間が経過したころ——
「何やってんだろ、俺……」
余白がぎっしり埋まったノートを前に、翔は苦笑いをこぼした。
まだまだ範囲は終わっていない。正直、もうやめたい。
けれど、ここでリタイアしたら、ここまでの頑張りが無駄になるような気がした。
「——よし」
翔は気合いを入れ、再びワークに向き直った。
そうして一心不乱に手を動かしていると——
「お兄ちゃん。今日、クラスで遊んできたんじゃなかったの?」
ノートを覗き込んできた花音が、怪訝そうに眉を寄せた。
翔は顔を上げずに答えた。
「悪い。これ、明日までに終わらせなきゃだから」
「変なの」
第100話は「お姫様のヘアメイク」です!
翔君の運命やいかに……? 真美さんから、幼少期の彩花さんに関する暴露もあります笑




