第92話 ピクニック④ —お姫様と突然の……—
「ひどい目に遭った……」
翔がぽつりと漏らすと、横を歩く彩花が肩をすくめた。
「翔君が自爆したからでしょ。こっちまで巻き込まないでよ」
「い、いや、だって、マジで美味かったから」
「っ……それなら、今回は特別に許してあげるけど」
彩花の声が急に小さくなる。
翔は咳払いをして、頬が緩みそうになるのを堪えた。
それから程なくして、彩花はふいに淡い青色のカーディガンのボタンを外し始めた。
下に着ているのは、彼女らしい無地の白シャツだ。
「暑いのか?」
「う、うん。ほら、夕陽があんなに真っ赤だし」
「まあ、確かに」
翔はどちらかと言えば涼しくなってきたように感じていたが、感覚は人それぞれだろう。
「それにしても、これが翔君セレクトっていうのはバレなくてよかったよ」
彩花はカーディガンを丁寧に畳み、胸の前に抱えながら苦笑した。
「あの二人なら絶対食いついてくる案件だもんな——ん?」
翔は言葉を切り、視線を上空に向けた。
「どうしたの?」
「今、頭にポツンって来たような……うわっ⁉︎」
「わわっ⁉︎」
次の瞬間、空がひっくり返ったような雨が降ってきた。ゲリラ豪雨だ。
「マジかっ……とにかく、どこかで雨宿りしよう!」
「あ、あそこに屋根あるよっ、走ろう!」
「おう、転ばないようにな!」
「翔君もねっ」
軒下へ滑り込んだ瞬間、同時に大きく息を吐き出した。
髪はベッタリと重くなり、服の貼り付く感触が気持ち悪い。
「……本当にひどい目に遭ったな」
「そんな伏線回収いらないよー」
「ま、とりあえず、軽く拭いておこうぜ、っ⁉︎」
彩花の姿——体の前面が視界に入った瞬間、翔は反射的に体ごと反対を向いた。
(そういえば、白シャツだった……!)
ガサゴソとリュックを漁る。
幸い、目的のもの——カッパはすぐに見つかった。
「翔君? どうし——」
「こ、これ、着たほうがいいぞ」
翔は振り向かないまま、後方に向かって腕を突き出した。
「でも、翔君は?」
「俺は折り畳み傘もあるし、その……」
元々お世辞は得意じゃない。オブラートに包んだ上手な伝え方など、わかるはずもなかった。
それでも、雨は凌げているとはいえ屋外である以上、指摘しないわけにはいかない。
「……たぶん、今のままじゃないほうが、いいと思うから」
「えっ? 今のままって——っ、あ……!」
彩花の声が焦ったように跳ねた。
「ほ、ほら……カバンとカーディガン、持ってるからさ」
「あ、う、うん……」
先程と同じように腕を差し出すと、少しの間があってから、手のひらに重みが乗った。
「その……ありがとね。すぐ着るから」
「お、おう……大きいかもだけど、そこは我慢してくれ」
「ふふ。翔君、そんなに背が高くないから大丈夫じゃないかな」
「おい」
「冗談だよ」
彩花がくすっと笑う。
気遣うべきであるはずの翔が、逆に気遣われてしまったようだ。
雨具の擦れる音を背後に聞きながら、翔は彩花のカーディガンがあまり濡れていないことに気づいた。
そういえば、これを胸に抱くようにして、前傾姿勢で走っていたような気がする。
「……傘代わりにしてくれてもよかったのに」
「えっ?」
「い、いや、なんでもない」
翔は勢いよく首を振った。
すると、スッと彩花の腕が視界の端に映る。
「カバンとカーディガン、もらうよ」
「おう。……もう、いいか?」
「だ、大丈夫」
翔はゆっくり振り返り——肩の力を抜いた。
黄色いカッパは色味こそ薄いが、雨具なので透けていることはなかった。
「……私、もういいよ、って言うべきだったね」
「かくれんぼしてないから」
彩花は小さく笑いながらも、抱きしめるようにカバンを腕でホールドした。
その上にカーディガンを置いて、
「でも、これを脱いでてよかったよ。シャツと違って、縮んだりしちゃいそうだし」
「……そうかもな」
着ていれば事故は防げただろうが、後の祭りだ。
雨音のみが響く中、しっとり濡れた彩花の髪の毛先から水滴が音もなく滴り落ち、火照ったその頬を打つ。
「っ……」
見慣れているはずのその横顔が、なぜかとても大人っぽく見えて、翔は視線を遠くに向けた。
何か言うべきか。言わないほうがいいのか。
口を開きかけて、結局閉じる。
(謝るのは逆に気を遣わせそうだし、日常会話のほうが良いよな……多分)
何かないか、とまぶたを下ろした瞬間——
「っ……!」
先程の光景が鮮明に脳裏をよぎり、翔は悪夢から覚めたときみたいにカッと目を見開いた。
「ど、どうしたの?」
「いや……ちょっと走ってこようかな」
走ることでモヤモヤを吹き飛ばし、さらに雨で頭も冷やせる。
一石二鳥だ。
「……大丈夫?」
彩花が眉を寄せる。
何を言ってるんだこいつは、という冷たいその眼差しは、雨ほどではないものの、翔の脳内を適正温度まで冷却してくれた。
「あー……近くに軒下があったのは、不幸中の幸いだったな」
「そうだね。いくら夏でも、この豪雨を浴び続けるのはキツいよ」
「だな。気温も少し下がってきた気がするし」
「あ、このカーディガン、着る?」
「いや、気持ちだけ受け取っておくよ」
そこまでフェミニンなものは選んでいないので、着れないことはなさそうだが、なんとなく抵抗があった。
「別にまだ寒いわけじゃないし。ありがとな」
「ならいいけど、一回でもくしゃみしたら、強制的に着せるからね」
「なんだそのルール」
草薙家では、食事中におならやゲップをしたら罰金という制度がある。
その経験を利用すれば、くしゃみも抑えられるかもしれない。
「そういえば、文化祭準備が午後スタートになるって、蓮見さんから連絡来てたでしょ?」
「ああ、部活組も足並みを揃えられるようにするんだったっけ?」
それと、朝からはキツいという意見も出ていたはずだ。
彩花のプロデュースがなければ、翔もその一派だったかもしれない。
「準備が終わってからだと遅くなっちゃうから、筋トレとかは別日にズラさない?」
「俺はいいけど、そっちは日程が変わっても大丈夫なのか?」
真美も弓弦も暖かく迎え入れてくれているし、輝樹が「娘に近づくな」と警告をしてくる気配もない。
それでも、赤の他人だ。来訪日がガラリと変わったら、不都合が生じるのではないだろうか。
「うん。お母さんに許可は取ったから。誘っておいてダメでした、は申し訳ないからね」
「手際がいいな。さすがプロデューサーだ」
「うん」
彩花は小さくうなずいた。
珍しく控えめだな、と翔が思った瞬間——
「それだけじゃ、ないけど」
「……えっ?」
翔は思わず彩花を見つめた。
(今、なんて……?)
一瞬、雨音が遠のいた気がした。
彩花は翔の視線に気づかないように、前方を顎で示すと、
「雨の勢い、ちょっと弱まってきたね。服を乾かしたいし、シャワーも浴びたいから、早く帰ろうよ」
早口でそう言い切って、大きく足を踏み出す。
「お、おう……って、彩花、目の前!」
翔が声を上げた瞬間——
ぼちゃっ。
「うわっ、つめた……!」
「遅かったか……」
彩花の右足は、巨大な水溜まりに足首まで陥没していた。
「大丈夫か?」
「平気だけど……翔君、今回は助けてくれなかったね」
「ああ、そういえば、そんなこともあったな」
前に一度、同じようなシチュエーションで腕を引っ張った記憶がある。
「翔君、もっと周りは見ておかないとダメだよ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししていいか?」
「い、急ごうとしただけだから。……そんなに言うなら、翔君が先に歩いてよ」
彩花はほんのり頬を染めながら、唇を尖らせた。
「いいけど、あんまり期待はするなよ。潤じゃないから、漫画みたいにひょいひょい避けていくことはできないぞ」
「緑川君、ジャングルでも生活できそうだよね」
「そこまで行くともはや悪口だろ」
「あの二人には内緒にしておいて」
彩花が含み笑いを漏らす。
足元に気持ち悪い感覚はあるだろうが、機嫌は悪くなさそうだ。
「ね、家帰ったら電話しながら日程調整しようよ」
「そうだな」
電話のほうが早いだろうし、と付け足しながら、翔は慎重に一歩を踏み出した。
第93話は「クラス会長からのお誘い」です!
クラスのプチ打ち上げに誘われた翔君と彩花さん。男子からの期待の眼差しを受けた彩花さんは、翔君を見て——




